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「猫ちゅみ観察記」長島有里枝

第68回 10月8日の観察

 35日連続降雨の記録が止まり、昨日と今日は秋らしく晴れている。ロンドンから戻った直後は、いつもなにかに追われて汗だくで呼吸も浅い自分が消えた気がした。でも、気づくとまた大事なことがひとつも終わらない焦りで泣きたいけど泣く時間もなく朝まで仕事、みたいになっている。どうしたらこんな、生きた心地のしない暮らしから抜け出せるのか。それだけを考えて頑張ってきたつもりなのに、引っ越しの計画も大学の研究も動物との暮らしも全部、わたしの時間をむしろ奪っているだけのように思える。よその人たちはいいな、上手くいってて。充実してて、幸せを満喫してて。自分は根暗(死語)で、楽しいことも心配が先立って愚痴多め、フットワーク軽い人が羨ましいくせに自分を変えようとも思えないから厭世的なネガティブ選択肢を優先し続けている‥‥(わ、悪いループに入ってる)。

 どんなにわたしが落ち込んでいようと、こちゅみには関係ない。さきほどから、パソコンに向かうわたしの背後をうろついて、なにかをニャゴニャゴと訴え続けている。口数が多いな、と思いつつ無視して作業を続けるのは、さっきまでレインボーカラーの紐にくくりつけたワニの蹴りぐるみをすれ違いざまにパン!と叩いて逃げる遊びに付き合ってあげてたからだ。ようやく静かになったと思いきやザッザッザッ、と木製チップを掻く音がし、トイレ掃除の業務が立ち現れる(ドラクエ風に)。

 前々回に引き続いて秋の活発モードにあるこっちゃんがいまハマっているのは、追いかけっこのような駆け抜け系の遊びだ。呼んでも振り返ってもらえないことに業を煮やしたのか、ふたたび背後から、今度は日本語で「あそぼ!」と声をかけてくる。お!これは立ち上がらずにはいられないぞ。なぜなら、こちゅみがいまやったのは、YouTubeなどで犬が使っているボタン式レコーダーでのコミュニケーションだから。

 なにを隠そう、数ヶ月前からうちではこのシステムが試験的に運用されているのだ。そのうち観察記に書こうと思っていたが、どうやら今日がその日らしい‥‥。床に並べたボタンには、いまのところ五種類の単語──「ごはん」、「おやつ」、「おにく」、「ミルク」、そして「あそぼ?」──が吹き込まれている。このうち4つが食に関する名詞なのに対し、「あそぼ?」は動詞であるうえに疑問形。こちゅみは最近、このボタンを尻で押すことができるようになった。鈍感な飼い主に怒り心頭のこちゅみが、要求に合わせて押すボタンを変えつつこれを頻用する。といっても、鳴き声を無視するのはメンタル的に難しいので、週に数回。偶然とと片付けるには精度が高すぎるため、こちゅみが天才であることは疑いようもない。次回もう少し詳しく、このボタンのことを書こうかな。

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著者略歴

  1. 長島有里枝(ながしま・ゆりえ)

    東京都生まれ。1999年、カリフォルニア芸術大学MFA写真専攻修了。2015年、武蔵大学人文科学研究科社会学専攻博士前期課程修了。2001年、『PASTIME PARADISE』(マドラ出版)で木村伊兵衛写真賞受賞。10年、『背中の記憶』(講談社)で講談社エッセイ賞受賞。20年、写真の町東川賞国内作家賞受賞。22年、『「僕ら」の「女の子写真」から わたしたちのガーリーフォトへ』(大福書林)で日本写真協会学芸賞受賞。23年、『去年の今日』で野間文芸新人賞候補。主な個展に「そしてひとつまみの皮肉と、愛を少々。」(東京都写真美術館、2017年)、著書に『テント日記/「縫うこと、着ること、語ること。」日記』(白水社)、『こんな大人になりました』(集英社)、『Self-Portraits』(Dashwood Books)などがある。

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