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「歴史言語学が解き明かす韓国語の謎」辻野裕紀

第1回 序論

 本連載は、主に歴史言語学という学問領域から韓国語(朝鮮語)を裂開し、その様々な「謎」を解き明かそうとする試みです。歴史言語学とは、言語の変化を通時的に研究する言語学の一分野を謂います。
 韓国語を学んでいると、「なぜ日本語にはないこのような音があるのか」「なぜこの単語をこう表記しなければならないのか」「なぜこの動詞は例外的な活用をするのか」などといった疑問に逢着することがあるでしょう。通常の授業では、無機質な暗記の対象として処理されることが多いと思いますが、韓国語のこうした事象は、語史的な視座に照らすことで説明可能となるものが少なくありません。
 英語学習においても、例えば「なぜgoの過去形はgoedではなくwentなのか」「なぜ不定冠詞のaは母音の前でanになるのか」などといった問いが立ち得ますが、これらはすべて歴史言語学から補助線を引くことで氷解するものです。英語の場合、幸いにして、かかる疑問に答えてくれる書物がすでに何冊も存在しますが、韓国語については、管見の限り、一般向けのそうした参考書はほとんどなさそうです。
 「なぜ」という問いの生起は、言語学習において重要な思考の萌芽です。しかしながら、そうした知的胎動は、「規則」「例外」などといった冷淡な言辞で鏖殺(おうさつ)されてしまうのが普通かもしれません。多くの教師や学習者にとっては、それよりも目標言語をツールとして使えるようにする/なることのほうが大切だからです。むしろ、丸暗記で済む事象に対して疑問を抱くことは、学習を前進させる上での桎梏にさえなります。
 しかし、私は言語学習は〈学びの愉悦〉と〈知的跳躍〉に基礎づけられるべきだと考えています。ことばを学ぶことは、〈学び〉という営為の愉しさを存分に味わい、知的に成長する契機になり得ます。理屈抜きの暗記ほど、面白くないものはありません。そして、言語それ自体への問いがゆるがせにされ、コミュニケーションのみに傾斜した教育的風土は、知的高揚感に乏しい、羸痩(るいそう)したものに堕してしまうこと必定でしょう。
 本連載では、学習者の皆さんが抱く可能性の高い疑問への解答を、歴史言語学を中心とした言語学的知見を基に毎回丁寧に差し出していきます。韓国語の運用能力の向上には直接的に裨補せずとも、韓国語学習はより愉しくなり、延いては言語学という豊饒なる広野に分け入るための潜り戸にもなるはずです。〈ただ覚える〉という構えではなく、〈なぜこうなのか〉を根問いする志高き韓国語学習者と韓国語教師のための、言語学的地平への知的解放のよすがとなるよう、意を用いたいと思います(注1)

 連載に先立ち、表記法についてごく簡単に説明しておきます。ハングルで表記することもありますが、本連載で頻繁に言及される中世韓国語(15世紀中葉から16世紀末の韓国語)においては、現在用いられない字母も使用されており、それをそのまま使うと、環境によっては文字化けする可能性もあるため、ローマ字に翻字して表記する場合があります。以下、ハングルの字母とローマ字の対照表を示します(注2)。発音記号ではなく、あくまでもハングルの字母とローマ字を一対一的に対応させたものである点に留意してください:

 

 子音字母

 母音字母

 次回からは具体的な「謎解き」に入っていきます。お楽しみに。

 

(注1)なお、執筆にあたっては、色々な関連論文・図書を参照することになると思いますが、本連載は学術論文ではないこと、また、斯界の専門家の間では「定説」となっているような事柄をなるべく専一的に扱う予定であることなどから、基本的には参考文献の明示は一々しない点、予めご寛恕いただければと存じます。
(注2)このローマ字翻字は、『韓国語音韻史の探究』(福井玲著、三省堂、2013年)で使われているものと同じです。
(注3)現代語と同じようにゼロ子音として用いられる場合は ’ で、有声軟口蓋摩擦音として用いられる場合はɣで翻字します。

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著者略歴

  1. 辻野裕紀(つじの・ゆうき)

    九州大学大学院言語文化研究院准教授、同大学大学院地球社会統合科学府言語・メディア・コミュニケーションコース准教授、同大学韓国研究センター副センター長。東京外国語大学外国語学部フランス語専攻卒業。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。誠信女子大学校人文科学大学(韓国ソウル)専任講師を経て、現職。専門は言語学、韓国語学、音韻論、言語思想論。文学関連の仕事も。著書に『形と形が出合うとき:現代韓国語の形態音韻論的研究』(九州大学出版会、2021年)など。
    (写真:©松本慎一)

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