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「マーマレードの夕焼け」麻生要一郎

最終回 スタイルのある女性――「南青山の母」を想う

 僕が子供の頃、青山の紀ノ国屋インターナショナルはまだ建て替え前の旧い店舗で、売り場が1階と2階の2フロアだった。初めて母と一緒に足を踏み入れた時、外国旅行に来たような雰囲気があって格好良いなと思ったことを覚えている。実家の近所にあった、生活感に溢れたスーパーとは大違いだった。果物売り場に並んでいた、店頭で絞ったオレンジジュースが好きだった。今、考えると結構高かったのではないかと思う。ハリウッド映画に出てきそうな、大きなカートを押しながら、油圧式の大きなエレベーターに乗って2階に上がると、パンや焼き菓子がたくさん並ぶコーナーがあって、そこに並んでいたタルトも好きでよく買ってもらったのを覚えている。タルトは紀ノ国屋のオリジナルで、プルーンやアプリコットなどのドライフルーツがのったもので素朴な味。

 養親となった高齢姉妹も、かつてこの近くでお店を営んでいた時代がある。青山学院大学の側に構えた「檜」という店は、喫茶店とスナックの間くらいの店で、コーヒーもお酒も食事もあって、よく繁盛したそうだ。タクシーで青山に向かい、紀ノ国屋で買い物をしてからお店に行ったと、懐かしそうに言っていた。学生から芸能人まで、客層は幅広かった。一時期は当時の銀幕スター、市川雷蔵氏の奥様がお店の手伝いをしてくれていた時期もあったそう。おそらくは、奥様のお父様と姉妹の父親の交流があってのこと。撮影で京都に長逗留する雷蔵さんから、お店によく電話がかかってきたそう。姉妹のカラッとした性格が、離れて暮らす2人の安心に繋がっていたのかもしれないなと思う。

 現在も、南青山で英治さんがやっているHADEN BOOKS :へ出かけた帰り、紀ノ国屋に買い物に寄っている。あの頃とは違うけれど、今もその品揃えの良さに安心感がある。果物は新鮮で品質が良く、湯葉や生麩など毎日は使わないけれど、時に必要なものがきちんと揃うのは紀ノ国屋の特徴だ。魚売り場は品質も値段も一級品だが、割引ステッカーと相談しながらカゴに入れている。以前にこの連載にも記した神戸トアロードのデリカテッセンの、スモークサーモンやハムが置いてあるのが嬉しい。

 買い物袋をぶら下げてエスカレーターを上って青山通りに出た辺りで、いつも「要一郎さん!」と、声が聞こえてくるような気がしてしまう。声の主は、僕が“南青山の母”と慕い、DEE’S HALL(ギャラリー)を営んでいた土器典美さんのことである。長年彼女が暮らしていた青山には、そこかしこに彼女の気配が未だに残っている。彼女は、残念ながら2024年7月7日の七夕に闘病の末に亡くなったが、既に福岡へ拠点を移していた後のことであった。もし東京に暮らしている時に闘病生活を送っていたら、街のそこかしこにある気配は、もっと悲しい景色になっていたかもしれない。

 福岡にいる弟さんも、青山を歩く時に思い出す典美さんはいつも笑顔だと仰っていた。青山で暮らしている時は、紀ノ国屋でもばったり会うこともあったし、英治さんのお店にいる時に偶然前を通りかかって一緒にコーヒーを飲むことがよくあった。典美さんからのお裾分けをいただいたり、こちらから持って行くこともあった。英治さんや、典美さんの紹介で出会って仲良くしている森健君と一緒に食卓を定期的に囲んで、それぞれの誕生日祝いもやっていた。誰かを典美さんに紹介すると「いつもお世話になっています、要一郎の母です。」と嬉しそうに言ってくれた。家族的な温かい繋がりがそこにはあった。彼女の日常の買い物も、ずっと紀ノ国屋。

 初めて典美さんに会ったのは、今から8年前に英治さんが企画したコンサートをDEE’S HALLで行った日のこと。英治さんからは事前に“自分が南青山にお店を出したいと思うきっかけとなった憧れの人”とだけ言われていた。会場に行くと、ふわふわとした白髪で毛先がピンク色をした大人の女性が、外の椅子に座って煙草を格好良く吸っていた。パッと僕の方を見て一瞬で何かをチェック、そんな気がした。どうにも手強そうだった。僕はドリンクの係を担当、プラムを使った自家製のフルーツシロップとホットワインを用意していた。他にもコーヒーやビール、お茶なども用意。まだ僕が気軽に話せなかった典美さんに、プラムのシロップをソーダ割にして「どうぞ」と差し出すと「あら、美味しい!」と喜んでくれた。ホットワインも、好評だった。受付をしていた典美さんが「プラムのシロップが美味しいのよ〜ホットワインも良いわよ」と言うので、どちらも見事に完売した。2日間、バランス良く出れば両日提供出来ると思っていたシロップは、主人の推しにより初日に全て完売。「明日の分もあるの?」と帰り際に言われたので「ない」とは言えず「もちろんあります!」と、朝までに作る方法を考えてスーパーへ走った。鍋で煮出すことで、翌朝にはまたプラムのシロップを完成させた。その日も無事にシロップは完売、僕は何か入学試験に合格したような気持ちになっていた。

 同じ時期、僕のお弁当のケータリングが少しずつ評判になってきた頃、今度は英治さんのお店でお弁当の販売会をすることになった。「南青山の海苔弁」と称して、南青山に住んでいた向田邦子さんの随筆に出てくる海苔弁を再現した時、典美さんが買いに来てくれた。食べた後に「とっても美味しかったわー」と感想を連絡してくれた。絶対に気を遣ってそんなことを言うタイプではないので、自分の作るお弁当に自信がついた。それから、展示の設営や打ち上げ、様々なタイミングでお弁当を頼んでくれるようになった。食べてくれた方が、土器さんの紹介で…とまた頼んでくれた。どんどん広がって、雑誌に掲載され、様々なブランドから、展示会用のお弁当依頼が来るようになった。典美さんが認めてくれたこと、誰かに美味しいと伝えてくれて、お弁当のお客様が増えたことは、とてもありがたかった。お弁当が広がっていったのは、典美さんのお陰。お弁当がなかったら、今の僕はいない、つまりスタートラインに推し上げてくれたのが典美さん。即ち、料理家・麻生要一郎の生みの親。その頃から“南青山のお母さん”と慕うようになっていった。

 青山骨董通りで1980年に「DEE’S ANTIQUE」(キッチン雑貨の店)を開業、日本のヨーロッパ雑貨ブームを牽引。残念ながら、そのお店には行っていないけれど、ひょっとすると小さな頃に母と一緒に行ったのかもしれない。もうどちらもいないから、知る由もないが、そう考えていれば夢がある。その後は、ライフスタイルの世界でフォトエッセイストとして活躍し著書もたくさん。自分で書いて、自分で写真を撮って、私は手が掛からない著者だったとよく言っていた。2001年に南青山に、ギャラリー「DEE’S HALL」を開業。彼女の人生の舞台はいつも青山だった。一緒に青山を歩いていると、ここに昔は魚屋さんがあってね、その向かいにレコード屋さんがあってと思い出が蘇る。どんどん家賃も高くなって、個人商店の街からチェーン店が目につく街になったことを嘆いてもいた。ある時に、商店街のある街を一緒に歩いていて「こんなにお店があったら便利ね、違う街に住めなくなっちゃいそう」と話しながら「ちょっと不便だけど私は青山がいいなあ」と小さな声で言ったのが、印象的だった。僕の本の出版が決まると、毎回とても喜んで応援してくれた。

 自身でも料理本を何冊も出しているのだから、料理上手。2階の自宅で何度も、英治さんと一緒に手料理をご馳走になった。印象に残っているのは、春になると毎年作ってくれた、花山椒を使った鍋は、お肉や筍に生麩が入っていて、花山椒が良いアクセントだった。旅をするのが好きだった典美さんらしい海外の味も、クスクスは添えられたお肉と野菜の煮込みとともにいくらでも食べられそうな美味しさだった。簡単に作っていた、牛蒡の唐揚げも好きな味。ギャラリーの展示やイベントでは、たくさん人が集まると典美さんの料理が並ぶ機会もたくさんあったし、それを皆とても楽しみにしていたのではないだろうか。

 僕と出会ってから「要一郎さん、次の展示の準備の日に皆のお昼にお弁当お願いしてもいい?」とか「打ち上げの時の食事お願いしたいのよ」と頼ってくれたことは、誇り高い気持ちになった。だんだん僕も忙しくなってしまうと「私、前菜担当するから、メインはお願いね」と、分業制の時もあった。コンサートの時などは、終わりの頃になるとそわそわとしてくる。打ち上げの用意を急いで始めないといけないからである。手慣れた撤収手伝い組もいて、DEE’S HALLの撤収のスピードはとにかく早かった。その間に、手早く温めるものは温めて、お皿に盛り付けをして、乾杯が出来るように支度をしなければならない。

 ずっと青山にいるとばかり思っていた典美さんは、人生の最後は福岡へ拠点を移すと決めていた。自分が、ちゃんと動けるうちに大事な持ち物はきちんと誰かに託してきちんとしておきたい。暮らしも、東京よりもっとコンパクトな街で良い、明確な意志があった。DEE’S HALL最後の夜は、2021年の年末に心の友である坂本美雨さんの歌声と共に閉じられた。

 その後、典美さんは片付けの日々、身近な友人達に自分が大切にしてきた、シンプルなデザインで長年愛用していた器や北欧風の家具の数々を託していた。物選びで一貫しているのは、流行に流されない長く使えるものだということ、間に合わせで買ったものはどこにも見当たらなかった。僕も、この机で書き物しなさいと書斎机と、アトリエ用にと大きなソファーを譲り受けた。

 年が明けてから青山のcallで開催されたマーケットイベントで、何組かの出店者のうち僕とWONDER FULL LIFEの大脇千加子さん(以下、チコちゃん)で1つのテントをシェアした時に「いつかDEE’S HALLで展示をしたいと思っていたけれど、閉まってしまったのがとても残念、間に合わなかった」と言う。そこへちょうど典美さんが現れたので、その話をすると「えっ?だったらやれば?」と、あっさりと言った。それからチコちゃんは怒涛の如く準備をして、チコちゃんとLIGHT YEARSの細谷直子さん(以下、なおちゃん)の2人による“COUNTERPOINT + WONDER FULL LIFE caravan to DEE’S HALL ”の展示会が行われた。あの時に購入したインドの蓋付きの黒い鍋と、お皿は僕の大切な宝物。期間中、僕はお弁当を販売、英治さんによる出張HADEN BOOKS :(コーヒーの販売)も行われた。

 展示の最終日は、年末に引き続き再び美雨ちゃんが登場、平井真美子さんのピアノと一緒に最後の夜を飾るライブが行われた。そこへ森山直太朗さんも参加して奏でられた『さもありなん』で、22年のDEE’ S  HALLは幕を閉じた。いつもよりも機材がたくさん入って、観客も多く予定されていたので、ちゃんとお客様が全員入れるのかと心配していた典美さん。しかし終わってみれば、本当に素晴らしかったと上機嫌で「福岡でライブ出来るスペース作ろうかな?」とまで言っていた。この時、僕と直太朗さんとはほぼ初対面で、その歌声に深い感動を覚えた。最後の最後の打ち上げも、皆が喜んでくれるようにしっかりと準備をした。楽しくて、誇らしくて、いつまでもずっとこのまま終わって欲しくないと思った。

 でもその夜は、終わりであり、新たな始まりの夜でもあった。翌日に撤収をした後、皆を見送って典美さんと英治さんと3人で赤坂の花むらへ天ぷらを食べに行った。「私、あんまり食べられないかもな」と言いながらも、美味しい美味しいと結局全部食べていた。ああ、全て終わったんだという安堵感と少しの寂しさを言葉にする訳でもなく、ただ天ぷらを食べることを共有出来たことが嬉しかった。

 長年DEE’S HALLに通っていた野良猫だったキンタと一緒に、福岡へ引越し。キンタは福岡への引越しが近づくと、それまでの長年続いた庭にご飯を食べに来るという関係から、少しずつ距離を縮めた。最初はそれまで警戒して入らなかった家の中に入るようになって、慣れてくるとお泊まりするようになった。猫と人間はきちんと分かり合えるということを信じていたが、改めて目の当たりにする機会となった。典美さんはあんなにいろいろなことを悩まず決めて行くのに、引越しの日まで、毎日のようにキンタがちゃんとケージに入ってくれるかどうかとずっと悩んでいた。

 キンタと一緒に新幹線で福岡へ引越しをする日、付き添いの面々で新幹線の横一列の席を固め万全の体制を整えた。まだ行き来するからとはいっても、生活の拠点は福岡に移る。寂しいなあと思ったけれど、湿っぽい感情など、彼女は好きではない。誰もそんなことは語らず、皆で明るく見送った。

 福岡へ拠点を移してから2ヶ月経った頃、典美さんが自宅の向かいに開いたDEE’ COLLECT(ギャラリー)へ足を運んだ。典美さんが好きな24時間やっているオーガニックなスーパー「マキイ」にも一緒に行った。マキイは他のお店では見たことがない商品が多くあり、お店も広すぎないので日々の買い物にはちょうど良い印象を受けた。典美さんが毎週のように行っていると言っていた、キリッとした女性の店主が握る、吉富寿司にも行けた。福岡での暮らしの様子が分かり、安心したのも束の間、癌が見つかって闘病生活になった。ダメ元で、顔を見に行くと言うと「良くならない限り、会わないからね」と、抗がん剤治療中に連絡が来た。良くなると信じて待っていたけれど、亡くなったとの連絡が来てしまった時は涙が溢れた。

 そのほんの少し前に、今日は調子が良いと手紙を添えてお菓子を送って来てくれた。その手紙は、僕の本棚の中にある祭壇に飾っている。亡くなったのは七夕の日、きっと天国で待っている、僕はお会いしたことがない大好きな“てっちゃん”(パートナー)と再会を喜んでいるに違いないと夜空を見上げて思った。

 年末に立ち寄った紀ノ国屋の入り口辺りで、また「要一郎さん!」と声をかけられたような気持ちになった。いつもは、年末に典美さんお手製の黒豆をお裾分けしてもらっていた。その黒豆は、土井善晴先生のレシピで作られ、豆がふっくらとして甘過ぎない味で、いつも何かの空き瓶に詰められてやって来た。僕はお節を作らないから、持て余した寂しさを抱えながら、典美さんの気配を感じる青山紀ノ国屋で黒豆を購入したのだった。

 姉妹や典美さんや僕の母が、あるいは僕も、同じ紀ノ国屋にいたのかもしれないと考えると、どこかロマンティックだ。それぞれ、スタイルのある女性だった。姉妹は二人とも我が道を行く、典美さんは周りの人達の個性を尊重する寛容さや何事にも偏らないバランス感覚の良さがあり、母は自分の審美眼を大事にしていた。僕はその一人一人から、受け継いだスタイルを心に日々を暮らす。共通して言えることは、自分のペースを守り、大切にしたい感覚を貫くことかもしれない。僕はまだまだ道半ば、教えを大事に精進しようと思っている。典美さん、またね!(了)

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著者略歴

  1. 麻生要一郎(あそう・よういちろう)

    1977年1月18日生まれ。茨城県水戸市出身。
    家庭的な味わいのケータリング弁当が好評。雑誌へのレシピ提供、食や暮らしについての執筆などを経て、20年に初の著書『僕の献立――本日もお疲れ様でした』を光文社から刊行。
    22年に『僕のいたわり飯』を刊行。

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