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「マーマレードの夕焼け」麻生要一郎

第11回 選ばなかった道

 選ばなかった「道」というのが、誰しも一つや、二つくらいは、あるのではないかと思う。右へ行こうか、それとも左へ行こうか、迷った挙句、結局右に進んだものの、あのとき左に進んでいたらと、後悔や未練はないけれど、立ち止まってふと考える瞬間がある。

 インタビューなどを受けると、家業の会社を辞め、島で宿を開業、引っ越したマンションの大家さんの養子に入るという、ちょっと変わった人生の出来事から、なんでも争わずに全てを受け止めて生きていると思われがちだが、実際にはたくさんの選ばなかった道があり、色々なものを退け、今を生きている。振り返ってみれば、それは真っ直ぐな歩みにも見られるが、そんな格好の良いものではなく、けもの道を進んでいくような苦難の連続であった。毎回、深い穴に落ちるような感覚で、じっと待っていると、天から垂れてくる蜘蛛の糸を必死で掴んだ結果、次の自分の役割が見えて来る。

 子供の頃、一緒に剣道を習っていた友人が、地元でイタリアンのお店を営んでいる事を、SNSで知った。小学生の習い事なので、もう35年以上の前のこと。それでも彼を鮮明に記憶していたのは、あちらは設計事務所の長男、こちらは建設会社の長男で、どこか近しい境遇であったからだと思う。彼のお店に行ってみたいと、車を走らせたが、一度目の挑戦は、営業時間をしっかり把握しておらず、未遂に終わった。再びの挑戦で「Cornu Copia」(つくば市)への訪問が実現した。広々とした店内、彼はガラス張りの厨房で忙しそうに鍋を振っていた。心の中で、うちの注文は後でいいからねと囁いてみるが、当然聞こえる訳はないし、だからと言って、わざわざ言いに行くのも妙である。僕もお店を何軒もやってきたから、メニューを見れば、お店の様子を眺めて、働いているスタッフの表情を見たら、彼がどういう思いを抱いているのかという事は一目瞭然。その思いは、ラテン語の“豊穣”を意味する店名にも込められている。働く仲間を大事に、地元への愛着、お客様に安心して食事を楽しんでもらいたいという思いがしみじみと伝わって来て、素直に感動した。勿論、実際には日々、たくさんの苦難や葛藤があるだろう。東京で食事をしていると、僕はよく「家賃の味がする」と口にして、周りが苦笑している。価格に対して、食材の原価よりも、家賃の割合が随分と多いような、そんな一皿に出くわすのだ。何でも、バランスが大切である。彼の店は、一品一品丁寧な仕事をして、素材も吟味、手間をかけて、澄んだ味がして美味しかった。僕は非常に満足して、そのまま静かに帰ろうかとも思ったが、他のお客様の注文も落ち着いたところで、お会計の際に「実はシェフと子供の頃に剣道で…」と話した。すると、彼が厨房から出て来てくれて、久しぶりの再会を果たす事が出来た。名字が麻生になった事、いまの仕事の様子を手短に伝え、自分の本を渡した。彼の方は、両親もお元気で、剣道の時に顔を合わせていた、おばあちゃんもお元気との事。その事が僕にとっては、なんだか奇跡のように感じられて、とても嬉しかった。剣道を習っていたあの日から、彼の人生はしっかり続いている。もちろんこちらも続いているのに違いはないが、随分凸凹している。父も母も亡くなり、そのあとに選んだ仕事だって様変わり、苗字まで変わった。剣道に通っていたあの頃は、まるで過去世かのように遠く感じた。そんな思いがけない、気づきを得て、彼の人生が、これからもあたたかな時間が続いて欲しいと、祈るように夜の高速道路を走り家に向かう。帰り際にもらった、大きなフォカッチャ、明日の仕事を増やしてしまったのではないかと、心配したけれど、とても嬉しかった。首都高に入って、スカイツリーが左手に見えた辺りで母に、彼は立派にやっていたよと心の中で報告した。彼の人生にも、きっと設計事務所を継ぐという道もあったはずだが、それぞれが食の道へと進み、自分の人生を歩んでいるのが何だか興味深く、嬉しかった。やっぱりどこか、通じ合うものがあったのだと改めて思った。

 父が亡くなり、学生生活も終えて、周囲の友達が希望を胸に新社会人になっていく様子を横目に、その道に進まなければならない運命から、入社した家業の建設会社。そこで過ごした数年は、修行のような日々だった。本を読んでも、インターネットを駆使しても、怒っている施主を落ち着かせる方法なんていうのはどこにも書いていない、杓子定規ではまるで太刀打ち出来ない事に日々立ち向かって、随分と鍛えられた。今も変わらずそこにいたら、どうしていたのだろうか。そもそも父が生きていたら、僕は会社を離れる事は出来なかっただろう。今頃は、年齢的に父が会長で、僕は社長、車はきっとレクサスにでも乗り、毎日重たい問題を抱えて奔走して、さぞかし苦労していただろうと想像する。しかし現実に父は、僕が19歳の時に亡くなっているから、それは選びようがない道。もし、そのあとの体制の会社に残っていたとしても、大変な事には全く変わりはない。そもそも大きな組織の代表に、僕は全く向いていないと今更ながらに思う。資金繰りも担当していたから、不安で毎日ちゃんと睡眠がとれずにいた。あれから、随分経つが、未だに15日の支払日、月末の給料支払日、手形の決済日の緊張感が頭から離れない。しかし会社は今でもちゃんと存続したまま、僕はそこから退く事が出来て、自分の人生をどうにか歩めている事は幸せだと、今では関係者に深く感謝している。

 父が亡くなってから数年して出会い、交際を続けた母の最愛だった恋人が、病床で「要一郎を、俺の目が黒いうちに、子会社の社長に据えたい」と言った事がある。何だか韓流ドラマのような展開だけど、宿やカフェを営んでいた、僕の不安定な身の上を心配しての言葉だった。もちろん、言葉の先には母への深い愛情があってのこと。親会社は外国車のディーラーを、複数ブランドやっていたのだが、その小会社は不動産開発を手がけ、当時は大規模な宅地造成をやっていた。しかし母は、彼がいなくなった後の事を考え「要一郎には、やりたい事をやらせてあげたい」と返事をして、断った。母は、自分の入籍すら断っていたのだから、当然の判断だった。彼が亡くなった後、相続で揉めて、遠くから見ていていも、それは大変な様子だった。親子共々、その渦中に入らなくて良かったとホッとした。彼が経営者として培ってきた事を間近で見ていただけに、その様子はとても悲しく見えた。もしその道に進んでいたら、どうなっていたのか、きっと人間関係に疲れて精神を消耗したことだろう。仕事に対して厳しかった彼が、僕の事を心配して言ってくれたその言葉は、ずっと心の支えになっている。いつかあの世で再会した折には、改めてお礼の言葉を伝えたい。

 その後に、母がお世話になっていた住職から、出家しないかとの提案があった。これもまた、面白い話だった。母の癌の闘病中に言われた事なので、心細い時期でもあり、僕は結構その気になっていた。お経も好きだし(その宗派のものはあまり好みではなかった)、何より見込まれただけあって適性があるような気もした。近くに住職不在のお寺があるので、まずは修行へ行き、戻ってきたらそこの住職になって、というような具体的なプランも提示された。檀家が何軒あれば、これぐらいの収入になって、食べるのに困らない、こちらも僕の不安定な身の上を案じてのこと。今までのような、宿や飲食もやりたければ、僧侶の立場を生かして、宿坊、料理の会をすれば良いとも言われた。しかし母が亡くなり、友人達がたくさん集まって来た時、冷静になり我に返った。まだまだ、俗世間で垢にまみれて生きていかなければ、皆に恩返しができないと感じたのだった。母が息をひきとる前、住職が「きっと安心するから、お母さんに今後のことを報告しよう」と言ったのだが、僕は出家しようと心に決めつつも、その申し出を断った。伝えたら、母が悲しむ気がしたのだ。しかし、今でも何かに行き詰まった時には、出家するのは良いかも知れないと思っている。目指すのは、水上勉か瀬戸内寂聴かと、理想は高い。

 まだまだ選ばなかった人生は、いくつもあるが、何か一つを選び違えたら今の自分はない。僕の人生の相棒にして、道先案内人(猫)とも言える、愛猫チョビは、そもそも島で宿を始めていなければ出会っていない。人とのご縁だけではじめた島の宿。チョビに出会っていなかったら、僕の人生は全く違うものになっていたはずである。同じようにチョビも、僕と出会っていなければ(と言っても初代飼い主は、宿の居候君)、島の野良猫のままだっただろう。そう考えると、よく一緒にいてくれたねと、一層愛しくなってしまう。宿の看板猫となって、その後は、僕の母や養親の姉妹、パートナー、様々な人に癒しを与え、出会いと別れを繰り返してきた。その存在感は、大きなもの。僕も含めて、どれだけの人がチョビの凛々しい大きな瞳に見つめられ、誰にも言えぬ本音を伝えただろうか。チョビの中には、そういったそれぞれの思いを託されているからか、猫らしく気ままなのに、その佇まいや行動はどこか使命感を帯びている感じがする。そう考えると、チョビにも、選ばなかった道があるのだ。

 今が充実していても、そうでないとしても、毎日人は何かを選び、今日を生きている。どっちの道へ進もうかという時、あまり真剣に考え込んだり、悩みすぎると、何か本質的な部分を見失う気がしている。僕は、どんな大きな選択も直感に従っている。例え選んだ道が、荒れ果てたけもの道だったとしても、やがてそこに綺麗な花が咲くと思えば、案外そうなるものである。

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著者略歴

  1. 麻生要一郎(あそう・よういちろう)

    1977年1月18日生まれ。茨城県水戸市出身。
    家庭的な味わいのケータリング弁当が好評。雑誌へのレシピ提供、食や暮らしについての執筆などを経て、20年に初の著書『僕の献立――本日もお疲れ様でした』を光文社から刊行。
    22年に『僕のいたわり飯』を刊行。

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