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「マーマレードの夕焼け」麻生要一郎

第20回 二つの「家」と祖父母の食卓

 幼稚園の卒園アルバムにあった"将来の夢"というページに、僕は「獣医さん」と書いていた。

 その頃の我が家には動物の気配は一切なくて、身近な動物と言ったら僕の半分くらいの背丈のクマのぬいぐるみだけ。幼稚園に行っても一人っ子の引っ込み思案、友達はいなかった。そんな中、唯一の友達だったクマのぬいぐるみの健康を思いやってのことだったのかもしれない。今となっては、なぜ獣医だったのかはっきりとした理由は分からない。

 よく考えてみると、それが純粋に思い描いた最初で最後の“夢”だった。我が家は、父方の祖父が一代で築いた建設会社を営み、父もその会社に在籍していた。祖父にとっては初孫であり、待望の男児誕生を喜び、両親の意向に関係なく、生まれる前に要一郎と名前を決定したそうだ。"要"の字は祖父と会社の名前に由来していることからも、その並々ならぬ期待がよく分かる。小学生になってからは、将来の夢に"家業の建設会社を継ぐ"と書いて、祖父を喜ばせていた。母は大人の顔色を伺う僕を、内心不憫に思っていたのかもしれない。僕は子供の頃から冷静に、現実だけを見ていた。通信簿にも、物事を客観的に見ているとか冷静ということが書かれていた。歌手や野球選手になりたいといった、昭和の子供が思い描くような夢を持つには、まず祖父の期待を押し退けなくてはいけない、僕にはそれが出来なかった。期待を押し退けようとするだけで、両親に迷惑がかかるような感じがしていたから。母方の祖父は、スーツやシャツを誂えるテーラーの仕事をしていた。身体が丈夫じゃなかったから、手に職をつけて自分のペースで出来る仕事を選んだと聞いている。高齢だったので、僕が幼稚園の頃は馴染みのお客様の仕事だけ受け、夫婦2人で静かに暮らしていた。祖父は戦争で負傷、顔の半分には黒っぽい火傷の跡が残っていた。そのことを僕は、髪型が違うような感覚で受け止めていた。しかし、親族が大勢集まる機会でもある会社関係の大々的な行事の時に、母方の祖父母の姿がいつも見えなかったのは、体裁を気にしてのことだと知ったのは中学生の頃。「じいじの火傷のことで、あっちゃんや要君が他の人から変な印象を受けるといけないと思ってね、私達は人前には出ないと決めたのよ」祖母は、いつもの静かな口調で、僕に詫びるように話したことをよく覚えている。誰かにそうして欲しいと言われたわけではない、ただ心ない人から何かそういうことを言われたのかもしれないとも思った。大好きな優しい祖父母が、何かに傷ついて、僕に遠慮した様子を悔しく思った。

 幼稚園生の頃、母が2週間ほど病気で入院したことがあった。いつものように、晩ごはんの支度をしていると母がとても優しく、でも悲しそうな表情をして「ママ、入院しなきゃいけないの、ごめんね」そう言って涙を流しながら抱きしめられたことを覚えている。何か重い病気なのかと心配したが、治療したら帰って来るからと分かりやすく説明をしてくれた。当時は父も忙しくて、子育てどころではない。父の帰りはいつも深夜で朝も早く、僕は毎日会うことが出来なかったから「次はパパいつ来るの?」と聞くと、周りの大人達はいつも笑っていた。僕は母が入院する期間、父方の祖父母の家に預けられることになった。母方の家ならばよく遊びに行っていたし、泊まるのも慣れているが、父方には集まることがあっても泊まったことはない。祖父と父も、仕事上の立場もあるし考えも違ってしっくり来ない。祖母と母は、姑と嫁として相性が良くなかった。肝心の祖父母も夫婦の関係性があまりよくないということは子供ながらに理解していた。平日は忙しくても、週末には二人で食事に行ったり、ディスコへ繰り出したりする仲が良い両親や母方の祖父母と比較して、日常のやり取りに含まれる冷たさを感じ取っていたのだ。母方の家にずっといられたら良いなあという思いで、祖母にどうなりそうか聞くと、どうにも歯切れの悪い答えだった。要するに、そうならば私たちも嬉しい、でもあちらの家を立てなきゃならないし、私たちからは何も言えないし……ということだ。状況を理解した僕は、カレンダーを1枚破ってもらって、入院と退院の日に丸をつけ、それまでの日にちの前半と後半にスケジュールを分けて、そこへ高野家、宮部家と書き込み、コピーしたものを父が両家に通達してくれた。もし、全日程が父方の家に滞在となったらたまらないし、母方だけと書きたいが、軋轢が生じても困る。両家に配慮してせめて半分ずつにしないといけないと思い、均等にスケジュールを分け、可愛い孫の立場を利用して、自分から提案することによって、自らの安心を手に入れたのだ。今思い出しても、我ながら良い判断だったと思う。父親も、幼い息子が自ら考え行動し、しかも全体を調和させようという、僕の思いに甚く感心していたと母が後になって教えてくれた。

 母が入院すると、自らのスケジュールに従いまずは母方の家へ滞在する。母方の祖母には、姉と妹がいた。姉は戦争で夫を亡くし、妹は離婚して一人になったため、水戸から少し離れた土浦に二人で暮らしていた。姉は日本舞踊を教えて、妹は三味線を弾く、子供の頃はそれを額面通りに受け取っていたが、その頃の土浦は色街で芸者をしていたのだった。二人はいつも着物姿でお姉さんがタバコをふかす姿が格好良かった。母が入院するときいて、僕が寂しくないように二人も応援に駆けつけてくれたのだ。夜は三味線が奏でられ皆で一緒に踊ると、翌日病院へ行っても僕は機嫌が良くて、帰り際にも笑顔で手を振り、祖父の古い三菱ミニカに乗って帰った。頼りないエンジン音で、狭い軽にぎゅうぎゅうに乗るのも楽しかった。家のそばにある、八百軒という小さな商店で祖母と買い物をするのも好きだった。魚売り場は生臭く、肉売り場は肉の匂いがした。母とよく行くきれいなスーパーに比べると、昔ながらの作りで決して綺麗な印象ではなかったが、祖母との会話にも人情味があった。「最近お見かけしないけど、お父さん元気なの?」「もう歳だからダメ」昔からの馴染みである店主との何気ない会話から、子供が一緒だからといって取り繕わない、祖母のその時の生の心情が感じられることが、僕は嬉しかった。

 夜ごはんはカレーやグラタンに唐揚げと、僕が好きなものを祖母が作ってくれた。お腹が空くといけないからと、夜食にお茶碗一杯分の小さなラーメンや小さなおにぎりも出てきた。本当に大事にされていると、端々から感じた。2階の寝室に上がって、寝るまで祖母が絵本を読んでくれた。僕の大事な友達クマのぬいぐるみも、安心して嬉しそうにしていた。翌週から父方の家へ移る予定が、日曜日の午前中に父方の祖父が待ちきれず迎えに来てしまった。父方の祖父のことも好きだったが黒いクラウンで乗り付け、態度にもどこか威圧的なものを感じた。運命には従うが、圧力には屈しないのが、今も昔も変わらない僕の信条である。母方の祖父母もやむなしという空気になったが、僕はスケジュール表を見せながら抗議をすると、祖父は参りましたという感じに退散した。その時に割烹着姿だった母方の祖母が、妙に嬉しそうだったのを今でも覚えている。祖母が台所に立ち、黒いごつごつした揚げ鍋で作る天ぷらも、僕の好物だった。海老もあったかもしれないが、さつまいも、かぼちゃ、いんげんしか記憶にない。余った天ぷらを翌日に甘辛く煮て食べるのも好きだった、時間をかけて大きなさつまいもの塊を揚げてくれる天婦羅屋もあるが、確かに珍しいし美味い、しかし祖母のさつまいもの天ぷらを台所でつまみ食いした記憶の中の味にはかなわない。最後に祖母が作ってくれた料理は、何だったのだろう。

 父方の祖父が車で迎えに来てくれて、予定通り月曜日に僕は母方の家を出た。大手ゼネコンに勤務する頃に祖父が自分で設計をして造った鉄筋コンクリートの家は立派だった。広い玄関の隣には暖炉のある応接間、その奥には掘り炬燵の和室、日本庭園が見える広い縁側。2階には寝室が数部屋と広いテラスがあった。毎日、祖父の帰りは遅かった。祖母と二人で一日を過ごすが、お昼は面倒だからと初日に言われてカップラーメンを差し出された。それが人生で初めての、インスタント食品であった。夜は近所の中華料理屋から出前の「タンメン」一択。岡持から店主が取り出すラップでしっかり蓋がされたタンメンは、最初は美味しかった。目の前では、祖母がタンメンをすすり、ウィスキーを飲みながら、酔っ払って一人で何かブツブツ言っていた。だんだん目が据わっていく様子は怖かったし、目を合わせない方が良いと思って、何も聞こえないふりをしてテレビを眺めていた。僕は、早く祖父が帰って来ないかなと思いながら不安な夜を過ごしたが、帰りは遅かった。母方の祖父母の家で、皆で囲んだ楽しく美味しい食卓が恋しかった。何度もあの頼りないミニカで助けに来てほしいと思った。暗い寝室に一人で、ベッドに入る。クマのぬいぐるみも不安そうで、二人でぎゅっとして、励まし合って朝を待った。

 朝になると、祖父もいて朝食を食べた。ごはんとお味噌汁、おかずに何があったかは覚えていない。父方の祖母が作った料理が何だったか、全く記憶にないのだ。ただ台所の片隅で、鰹節を削った記憶だけはある。ひょっとすると料理上手だったのかもしれない、祖父の仕事が忙しくて帰って来ないから、何も作らなくなったのだと、今は考えるようにしている。父方の家から病院へ行き、祖母と帰る時には、悲しそうな顔をして目にいっぱい涙を溜めている僕の姿に、母は胸が締め付けられる思いだったと言っていた。ファーストフードのお店が、今のように多くなかった時代、水戸の繁華街にあった伊勢甚という百貨店にマクドナルドが入っていた。フライドポテトが大好きだったけれど、母はこの手のものを毎回は食べさせてくれない。タンメンに飽きていた僕は祖母に、ここ美味しいよとそそのかすのである。祖母だって、同じ店の出前にも飽きているし、財布の紐が固い祖母にとっても、理想的な価格帯であった。両者の利害が一致し、途中からジャンクフード食べ放題に舵を切った。日曜日は祖父も休み、英才教育と称してゴルフの打ちっぱなしに連れて行かれた。運動が好きではなかった要一郎少年にとっては、楽しいことではなかったが、クラブに球が当たろうと、どっちへ球が飛んで行こうとも、祖父は可愛い孫と一緒に大好きなゴルフをする未来を思い描いていたのだから、夢見心地で機嫌が良かった。知り合いに会うと、僕がゴルフをやりたい設定で、嬉しそうに僕のことを自慢した。帰り道のトルテュウという洋食屋さんに、二人で寄ってカニクリームコロッケを食べるのが僕の報酬。祖父がそこで、何を食べていたのか、どんな話をしたのかは覚えていない。一つ確かなのは、滞在中に祖父母が揃って一緒に出かけたことは、一度もなかったということ。今でも時々、祖父が運転するクラウンの車内に漂うタバコの匂いや、カーラジオのジリジリとした音を思い出す。

 母が退院の日、父方の祖父が車で僕を家まで送ってくれると、既に母は自宅にいた。祖父が気遣う言葉をかけて帰った後に「ごめんね」と母は何度も言いながら僕を抱きしめた。何日、入院していたのか全く覚えていないけれど、きっと大した日数ではなかったと思う。でも僕にとっては、そして母にとっても凄く長い日数に思えた。

 両家の祖父母は、今の僕をどう思っているのだろうか?

 母方の祖父母は、きっと何も言わずにニコニコと見守ってくれているだろう。父方の祖父母は、あれだけ将来に期待した僕が結局会社を継がなかったことを怒っているかもしれない。いろいろあったけれど、会社は健全な形で存続している。母が入院した時、両方の家を行き来したことは、僕の人生に間違いなく大きな影響を与えている。誰かの喜びのために惜しまず尽くすこと、それは経済的に豊かどうかということではない。晩御飯はタンメンだけの倹約精神があったから、祖父は一代で立派な建設会社を築いたのだ。毎晩、タンメンに海老チリや酢豚も頼んでいたら、状況は違ったのかもしれない。どちらが良いとか、悪いとかいう話ではない。僕は、何不自由なく育ったことを両親だけではなく、両祖父母にも感謝している。今、誰かが毎夜うちの食卓にやって来るのは、母方の祖母の精神の影響があってのことかもしれないし、その食卓を維持するため、安い八百屋で良い野菜を買い、百貨店のタイムセールで目ざとく何かを見つけてくるのは、父方の祖母の倹約の教えかもしれない。天国という場所で、また皆で再会出来たら、あの日々のことを全員で笑って話したいと願っている。僕以外は皆が天国にいるけれど、僕が何かを成すまで、もうしばらく見守っていて欲しい。

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著者略歴

  1. 麻生要一郎(あそう・よういちろう)

    1977年1月18日生まれ。茨城県水戸市出身。
    家庭的な味わいのケータリング弁当が好評。雑誌へのレシピ提供、食や暮らしについての執筆などを経て、20年に初の著書『僕の献立――本日もお疲れ様でした』を光文社から刊行。
    22年に『僕のいたわり飯』を刊行。

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