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「マーマレードの夕焼け」麻生要一郎

第6回 想いをつなぐ台所

 母が亡くなってから8年が経ち、最後に何の料理を作ってくれたのか覚えていない。

 一方で、最後に外食をした時の事はちゃんと覚えている。六本木の「虎屋」で、お汁粉を食べた。母は癌の闘病中、もう最後の外出という状況の時、食べたいという思いとは裏腹に、一口食べるのが精一杯だった。そういう事は、しっかり記憶しているのに、何ヶ月かの闘病中、僕が作ったり、母が作ったり、そういった本来心に残っていそうな、愛憎の入り混じった台所の記憶というのは存外残っていないものである。

 我が家の食卓の品数が多いことを、褒めていただく事があるが、それは母の影響である。メインのおかずの他に、煮物や、和え物、ちょこちょこと何か副菜を添えてくれた。子供の頃、父は仕事が忙しく、食卓を囲むのはいつも決まって母と二人だった。時折、何かの拍子に父が早く帰ってくる時があっても、母はさっと何かを作ってきちんとした食事を出していた。当時は、そういうものだと思って見ていたけれど、自分がいざ食事を作る立場になってみると、凄い事だなあと改めて思う。だからと言って、いつ帰ってきても良いようにと、ストックの常備菜がいくつも冷蔵庫に入っているという訳でもなかった。日々の献立を手早く仕上げ、作り置きを好まないのも、母の影響だろうと思っている。作り置きというのは、便利なのだろうけれど、何か味気ない感じがするのだ。簡単でも良い、ただ切っただけで味噌を添えるとか、器に盛って塩をかけるだけでも良い、目の前の何かに向き合っている感じが、僕は欲しいと思ってしまう。

 母の料理は和食よりも洋食のメニューが多く、中でも子供の頃によく作ってくれたマカロニグラタンが、僕は大好きだった。ベシャメルソースを作り、マカロニと海老が入っていた。その様子も、側でずっと眺めていた。小麦粉がバターや牛乳、チーズと合わさり、美味しいグラタンに仕上がっていく感じが、いつも不思議で面白かったのだ。当時、使っていた丸いグラタン皿は、サイズ違いで大きめと小さめがあり、余ったものを小さめの器に入れておいて、翌日の夕食の時に焼いてもらえるのも、僕の小さな楽しみ。グラタンを焼く時、器にバターを塗るのが、僕の担当。今となっては、グラタンは僕の得意料理になっている。我が家に来る友人達にも、人気のメニュー。思い出が詰まった、大好きだったあのグラタン皿は、実家の片付けをした時には、もうどこにも見当たらなかった。

 母方の祖母は、僕が料理をしてみようと思うきっかけをくれた存在だ。

 両親が用事で出かける日、僕は母方の祖父母の家に預けられる事が多かった。夜ごはんには、よく天ぷらを揚げてくれて、海老とかイカもあったけれど、記憶に残っているのはさつまいもの天ぷら。衣に潜らせて油の中に入れると、ジュワーっと揚がる様子が楽しくて、いつも側でその様子を見ていた。摘み食いをさせてもらったさつまいもの、ほくほくとした美味しさや、「熱いからね」と心配そうに、見守る祖母の優しい眼差しが今でも記憶に残っている。お昼には「焼飯」を作ってくれる事が多かった。そして昼間でも薄暗い台所で、祖母が真っ黒な鉄のフライパンを振って炒める様子も、じっと眺めていた。具は、シーチキン、玉葱、ピーマン、にんじん、卵。当時、食わず嫌いが多かった僕が、野菜も食べられるようにと、祖母は全ての材料をとにかく細かく刻んで入れてくれていた。ピーマンは原型では絶対食べられなかったけれど、この焼飯では細かく刻んであったので、嫌がる事なく食べていた。ある時、自宅に一人でいて母の帰りが遅くなった時、自分で祖母の作る焼飯を再現しようと台所に立った。祖母に教わった通りの具を揃えて作ったのは、確か小学3年生の頃。自分が嫌いなピーマンも、きちんと刻んで入れていたのは、祖母への信頼の証とも言える。フライパンで炒めている時に、鉄の柄をうっかり握ってしまい、軽く火傷をした。しかし母は「危ないでしょ」と咎める事なく、注意点を教えてから、料理は出来た方が良いからねと、火傷しにくい扱い易いフライパンを買ってくれたのである。それ以来、僕はちょっとずつ料理を覚えていった。祖母の焼飯が、僕の料理の原点だと思っている。それは、ハレの日と言うより、日常のいつもの料理。

 養親になった姉妹は、僕が料理の仕事をしていくのに、大切な事を教えてくれたような気がしている。

 姉妹はよく、美味しいお刺身を食べさせてくれた。魚を丸ごと買ってきて、綺麗に卸して、頭や骨は潮汁に仕上げる。お皿に、庭先から摘んだ葉物をあしらって、盛り付けてくれた。昭和初期に発刊された和食料理本さながらの盛り付け方、現代の感覚とはまた違う、迫力があり僕はその感じが好きだった。あら炊きをした時には、このお汁を使って、おからを炊くと美味しいのよと教えてくれた。言われた通りにやってみると、合理的で美味しく仕上がった。僕は、姉妹と出会う事で、魚の扱い方を学んだ。

 今頃の季節、姉妹は「塩鰤」を作ってくれた。魚屋さんに頼んで鰤を丸ごと取り寄せ、姉がよく研がれた小さな包丁を使って器用に3枚に卸し、さくどりした身に、きつめに塩をして熟成させる。水分が程よく抜けたら食べ頃で、醤油ではなくポン酢で食べる。端っこの方は、正月のお雑煮に野菜と共に入れる。スーパーの店先に並んでいるような小さな鰤の身では、塩をしたところで、干からびたようになってしまうので、大きな一尾から切り出していくのがポイントだ。当時は、すっかり甘えて食べさせてもらっていたけれど、自分で全てをやった時に大変だったし、どういう思いで切り出していたのかなと考えたら、少し涙が溢れた。きっと、僕を喜ばせようと思って、やってくれていたんだなあと。あまりに当然の結論なのだけれど、分かっているようで、分かっていない事、当たり前になり過ぎていて、気がついていない事が、台所にはたくさん潜んでいるものだと再認識をした。

 亡くなった父の晩年の趣味は「釣り」だった。

 釣り糸を垂れる時間が好きで、釣れた成果物はおまけのようなもの、そして釣った魚を配り歩くのも楽しかったようだ。週末は早朝から釣りに出かけ、釣った魚の一部を我が家に置き、またどこかへ嬉しそうに消えていくのである。「今日のカサゴは美味しそうだろう」と言いながら、一緒に食べる訳でもない。釣った後に、釣り宿のようなところで、仲間と食べる事で満足していたのかも知れない。父の盛大な葬儀の時に「よく家にタコを持ってきてくださって」とお礼を言う方もあったが、我が家にタコを持ち帰った事は一度もなかった。おそらく、それぞれの好みを把握して、振り分けていたのかも知れない。一度、横須賀へアジ釣りに出かけた事があった。僕は小さな船にあまり強くなく、楽しい記憶としては残っていない。もし釣りをするなら、港で釣るのが良い。魚を捌きながら、父の事を思い出しては、釣りでもしてみようかなと思う時もあるが、未だ実行できずにいる。

 どこかへ持って行くほどでもないような、地味な魚というのも我が家に残る。そういう魚は、母が手際良く卸して、冷凍庫にしまっていた。そのため、冷凍庫に行き場のない魚がたくさん。その地味な魚の代表が「イシモチ」だった。塩焼きにして酢橘を絞って食べると、淡白な味わいでなかなか美味しい。今も、魚屋で見かけると、つい懐かしい友人に会ったような気持ちになって手が伸びる。

 島で宿をやっていた頃、メインディッシュは金目鯛の煮付けだった。

 島でちょっと出の余所者が、地元の魚を手に入れるのは一苦労である。そこで、馴染みの面倒見の良い、スーパーの社長を捕まえて「金目鯛、金目鯛、金目鯛」と責め立てるのである。小さな宿とはいえ、その日のお客様が5組いたら5尾煮なければならない、盛り付けで失敗しては一大事なので、大きな鍋でいっぺんに煮るのではなく、取り出すのが楽なように1尾ずつフライパンで煮ていく。お酒をたくさん使って煮るのがポイント、事前にある程度火を通しておき、提供する前に煮詰める。いつの間にか金目鯛の煮付けは、僕のスペシャリテとなっていた。大きな目玉の真っ赤な魚、煮汁で艶やかになった様はとても美しく、食卓をいつも華やかにしてくれた。

 たくさん煮たけれど、自分の口に入る事はあまりなかった。賄いの食卓に並ぶ時も、あまり箸を付けなかった。嫌いとかではない、毎日何匹も扱うものだから、すっかり飽きていて、食べようという気にならなかったのだ。一緒に宿を支え合った、同志のような存在である。スタッフは毎年入れ替わっていたが、金目鯛だけはずっと変わらずにいてくれた。この魚は丸ごと煮るのが良いのであって、たまに魚屋で切り身にされているのを目にすると何だか気の毒な感じがしてしまう。

 今の我が家の台所は、ごく普通なものである。

 家人との日々の食事、そして本の撮影、雑誌の取材もいくつも受けた、思い入れのある台所。たくさんの友人達を迎えて、その出会いを繋いでくれた。家人とは出会って8年目、毎日一緒に食事をしているけれど、家人にはじめて作った料理が何だったかはもう覚えていないのだが、得意の唐揚げでも揚げたのではないだろうか。グラタンもたくさん焼いたし、天ぷらも焼飯も作った、刺身もたくさん捌いたし、金目鯛もたくさん煮た、唐揚げもたくさん揚げた。このクリスマスは、家人と弟のような友人と、一緒に食卓を囲んだ。そして、イベント続きで忙しい友人のところへカブのポタージュを作って届けたり、クリスマスプレゼントを抱えて来てくれたアシスタントのしのちゃんには、焼く予定がないのに買っていた丸鶏を持たせた。いつも誰かの事を考えて、買い物をしたり、料理をしたりしている。自分では食べないスープを作ったり、自分が食べる訳でもない丸鶏を買っておいたりするのが、僕らしいと、クリスマスケーキを食べて満足しつつ思った。

 誰かとの関わりを通じた、台所の記憶の積み重ねが、今の僕を作っているんだと思う。お正月に向かう、師走の食品売り場の雰囲気が好きである。大晦日は、何を食べようか。

 皆様、良い新年をお迎え下さい。

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著者略歴

  1. 麻生要一郎(あそう・よういちろう)

    1977年1月18日生まれ。茨城県水戸市出身。
    家庭的な味わいのケータリング弁当が好評。雑誌へのレシピ提供、食や暮らしについての執筆などを経て、20年に初の著書『僕の献立――本日もお疲れ様でした』を光文社から刊行。
    22年に『僕のいたわり飯』を刊行。

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