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「マーマレードの夕焼け」麻生要一郎

第3回 年末年始の食卓

 秋刀魚や栗、松茸が店先に並び始めた頃、我が家のおせち料理の撮影をしていただく機会があった。仕事の依頼を受けたのは、気温が35度を超えるような暑さの頃で、随分気の早い事と思ったけれど、撮影を終えてみれば、そんなに先の事でもないのである。

 この家に来てからの7年間、養親になった姉妹と年末年始を過ごしてきた。最初の頃は姉妹とも揃っていたのだが、妹が療養の為に入院し、その妹が亡くなり、今年は姉が骨折を契機に病院暮らしとなってしまい、今年は一緒に暮らすパートナーとチョビ(猫)と、水入らずでお正月を迎える事になった。姉妹と過ごすお正月の前の年は、母も健在で実家もあった。真っ新なお正月をどう過ごそうか、百貨店やホテルにおせちの案内が並び始めた今、年末年始の食卓に思いを馳せている。

 実家にいて父がまだ健在の頃、建設会社の社長という事もあり、交友関係が広く、取引先の百貨店や地元のホテルに飲食店から果てはコンビニまで、お付き合いでいくつもおせちを買い求めた。家族で食べる分の1つを残し、取引先の児童養護施設や介護施設等々にお届けをする。従って年末年始も忙しく、手をかけず簡単に済ませるのが我が家の慣例。大晦日、紅白歌合戦が始まった頃に母が作り始めるお煮しめの、八頭が僕の好物。元旦には、焼いた四角い餅が入った関東風のお雑煮、お煮しめとおせちが並ぶ。僕が、子供の頃からおせちの中で好きなのは、栗きんとん、次点は伊達巻、蒲鉾と続いて、他はあまり興味がない。黒豆に関しては、一年中いつでも食べている。こう書き並べてみると、おせちは伝統的な形式に則っているので、何十年経っても変わり映えのしない、お馴染みの顔ぶれである。十分食べさせてもらいながら、何に不満があったのか、大人になったら栗きんとんをたくさん食べると心に決めていたが、大人になれば、そもそもそんなにたくさん食べるものではないという事を理解するのである。

 養子に入ったこの家のお正月は少々風変わり。初めて一緒にお正月を過ごした時、大晦日には長年付き合いのある京都のお店から取り寄せた、鰻と鰻の八幡巻が並ぶ、年越し鰻。僕の生まれは水戸で、鰻屋の多い町であるが、今はふっくらとした関東風よりも、しっかり焼かれた関西風の鰻が舌にあうようになった。元旦には、鯛の塩焼き、蒲鉾、豚バラ肉の入った自家製の昆布巻き、塩鰤、丸餅の入ったお雑煮が並ぶ。豚バラ肉の昆布巻きは、昆布を水で戻し、火にかけて昆布出汁をとり、引き上げた昆布を使い塊の豚バラ肉を切り出したものを巻いて、昆布出汁、酒、醤油、黒砂糖で煮るのだが、誰がそんなに食べるのかという量を、寸胴鍋いっぱいに作っていた。適量を作って欲しいものだと毎年願うのだが、この家にたくさん人が集っていた頃の賑やかな気配がそこにあるのだと、僕は思っていた。

 塩鰤は、一般的には馴染みがないかも知れないが、鰤1尾を柵どりして、塩を強めに塗しキッチンペーパーに包んで一日寝かせる。水分が抜ける事により、身が締まって大変美味しい。スーパーに並んでいる切れ端のような身に塩をしたのでは、締まり過ぎで美味しくならない。食卓に供する時は、山葵と醤油よりも、酢橘かポン酢の相性が良い。そして、あらの部分と昆布で出汁をとって、野菜と丸餅を加えたものが、姉妹流のお雑煮。「九州ではこれが本式なのよ」と、九州がルーツの彼女達は嬉しそうに言っていたが、九州出身の方に尋ねてみても未だ頷く人に出会っていない。今も時折、姉妹が揃って台所に立っている後ろ姿を思い出す。その度に母が亡くなり、一人になってしまった僕を、養子に迎え入れてくれた事を、改めて感謝するのである。

 彼女達の父親は文芸評論家で、羽振りの良い家の育ちだった事もあり、大変な食道楽だった。ちょっと食事をしに行くと、関西へ出かけてはご贔屓の店を訪ね歩いた。年末に関西へ出かけると、帰りの新幹線にあわせて、料理屋さんがお重を持たせてくれたそうである。もちろん東京でのご贔屓のお店もお正月にとお重を届けてくれるらしく、いくつもお重が並んだそうだ。当の本人は、年末から温泉旅館へ出かけてしまうので、お重は御相伴に預かるつもりで、お酒を抱えてやって来る文士たちの格好の酒の肴となる。姉妹のお正月の食卓に、一般的なおせち料理が並ばないのは、上等なおせちをその頃に、すっかり食べ飽きてしまった証なのである。

 料理を生業にする僕に、姉妹はある時「お料理を仕事にするのは良いけれど、お願いだからおせちを売るなんていうみっともない事は絶対にやめてね。昔は、ご贔屓のお客様に今年もお世話になりました、お正月はお休みを頂戴しますから、このお重をお召し上がり下さい、来年もどうぞよろしくお願いしますと、おせちをお渡ししたものなのよ。だから、もしあなたがお料理をする中で、本当にお世話になった人に出会ったら、その時は一番良い材料を使って、よく研究して、手間を惜しまずに作って、お届けをしなさいね。」と話してくれた。僕は、おせちの広告やカタログを見ると姉妹のこの話を思い出す。毎年言われているうちに、煮物に味が染み込むように、僕の中にその考えがすっかり浸透して、どこかの料理屋のおせちを頼むと言うのは何となく気が咎めるのである。

 もう一つ年末で思い出すのが、年越し蕎麦について。友人が主催する、アットホームな雰囲気のコンサートが年末に催された。会場で年越し蕎麦を振る舞う企画が持ち上がり、よく考えれば無謀な事なのだが、ついつい楽しい気持ちになって、二つ返事で引き受けてしまった。準備を進めるうちに、想定していた人数をはるかに超えてしまい、段取りを考えるうちに、だんだん気が重くなっていく。会場にある2つのIHを使用して、1つは麺を茹で、もう1つは出汁を沸かして、仕上げに具を色々とのせるおかめ仕立ての蕎麦を考案した。しかし、当日に寸胴で湯を沸かそうとしてもなかなか沸かず、2つ同時に使うと音響機材の関係もあってブレーカーが落ちてしまう。万事休すとはこの事、しかし幸いにも会場から自宅が近かったので、会場のIHは出汁をあたためる事に専念。僕は大量の麺を抱えてタクシーで自宅へ飛んで帰り、急いでお湯を沸かして全ての麺を茹で、バットを何枚も重ねて、再びタクシーに飛び乗り会場へ戻った。入場の際に配るはずが当然間に合わず、コンサートは出汁の香りと共に進行、思い出深い一夜となった。終わってから、打ち上げに関係者で食べたお蕎麦の味、その情景は忘れ難いものがあった。既に伸びきった蕎麦を何杯もお代わりをしてくれる人もいて、その苦労が報われた感じがした。その日は30日だったが、僕はすっかり年越しをした気分で、翌日の31日を持て余し気味に過ごした。忘れられない、年越し蕎麦の思い出。

 2015年のお正月、僕は友人のお店の立ち上げで忙しく過ごしていた。その時、母は実家でチョビ(猫)と過ごしていたが、乳癌の再発で身体に色々な症状が出始め、異変を感じて年末に病院を訪れていたのであった。周りの友人からは「要一郎君に連絡をした方が良いのでは?」と言われても、心配をかけたくないとだけ言っていたそうだ。きっとチョビには、不安な胸中を話していたはずである。闘病の末、それから3ヶ月後に母は亡くなった。あの時に、実家に帰っていれば、そう思う事もある。最後のお正月を不安で寂しい気持ちで過ごさせてしまった、罪悪感がいつまでも心の中にある。もちろん、その時は最後のお正月になるなんて事は考えもしなかった、当たり前のように続くと思っていた。あの八頭の味は、もう食べられない。僕の方が余程丁寧に作るのだけれど、あの味にはならない。しかし、くよくよと過去を振り返る事を母は性格的に望まないだろうと気持ちを切り替えて、今の事を大切に考えるようにしている。

 昨年は、大晦日を姉と過ごし、年が明けたら穴八幡のお札を貼って、今年もよろしくねと伝えてから、自室に戻ってお札を貼った。パートナーと「ゆく年くる年」を見ながら、元朝参りに出かける支度をして、着膨れしながら赤坂の豊川稲荷まで歩いた。境内のお店が夜中まで営業していて、ビールケースを椅子代わりに、お酒や味噌田楽を供している。僕はその光景にあたたかな何かが感じられて、好きなのである。僕らも、甘酒を飲み、焚き火にあたって暖をとった。元旦だけは、パンとコーヒーは取りやめ、お雑煮を作って、南青山のお母さんと慕うDEE’S HALLの典美さんから毎年お裾分けいただく黒豆と田作り、それから自分で用意した、栗きんとんと伊達巻と蒲鉾を並べる。食べ終わると、また姉のところへ出向く。夕食を済ませて夜が更けた頃、また自室に戻ってパートナーと過ごす。姉は5階、僕らは2階、行き来の忙しい年末年始。パートナーの営むお店は、お正月の休みが元旦だけなので、帰省も出来ずにいるのだから、一緒にゆっくりしたいなあと思いながら、毎年忙しく過ぎて行くのが現実だった。

 色々と振り返りながら、改めて今年の年末年始はどう過ごそうかなかと思う。皆が、お正月をどう過ごしていたのか、自分の事で精一杯、そんな事を考える余裕もなかった。大晦日は、友人たちと皆でカウントダウンするのも楽しそう。年越し蕎麦にするのか、年越し鰻にするのかも、迷いどころである。母や、姉妹が残してくれた“味”を大切にしながら、真っ新なお正月の支度をしようと思う。パートナーとチョビ(猫)の2人と1匹、気兼ねなく過ごし、明けましておめでとう!今年もよろしく!と言い合えれば、それで十分だと思っている。

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著者略歴

  1. 麻生要一郎(あそう・よういちろう)

    1977年1月18日生まれ。茨城県水戸市出身。
    家庭的な味わいのケータリング弁当が好評。雑誌へのレシピ提供、食や暮らしについての執筆などを経て、20年に初の著書『僕の献立――本日もお疲れ様でした』を光文社から刊行。
    22年に『僕のいたわり飯』を刊行。

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