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「マーマレードの夕焼け」麻生要一郎

第12回 片付けの行方

 僕は片付けが苦手なくせに、人生の節目のような大きな片付けをしなければならないことが、しばしばある。朝食用の食卓は、僕の執務デスクも兼ねている。書類と本が絶妙なバランスで積み重ねられ、たまに整理をしてやらないと、崩れ落ちるか、食卓全てを侵食してしまいそう。しかし、あの書類は確かここにというのは大体正確で、本と書類の隙間から引っ張り出しては、我々は通じ合っていると、くだらぬ言い訳を自分にしている。

 今まで最も大変だったのは、母が亡くなった後に誰も暮らさなくなり、手放すことにした実家の片付け。苦心の末にどうにか終わったが、他にも運営していた宿を廃業した時の後片付けも、なかなか大変だった。現在は養子に入った姉妹の家と管理しているマンション、その縁で成り行き上、手にすることになった草津のマンション、現在進行形も多い。

 実家の片付けは、母の行き届いた整理整頓のお陰で、苦労が少なかったように思う。母の服はモノトーンが多く、クローゼットの中も、お店のようにアウター、ジャケット、ブラウス、スカート、パンツと、カテゴリー分けがしてあり、続いて色毎に仕分けがされていた。書類や、本に至るまで、僕とは大違いの整理術。衣類の類はまず、友人達に片見分けをした。未使用のものは、好きそうな方へ託し、あとはリサイクルショップ、寄付、それから家を引き渡すまでのゴミ収集日をチェックして、袋詰めしたものを順次処分していった。しかし、家を一軒空にするのには、相当な量のものを処分しなければいけないのだと実感した。我が家は、父親が亡くなった翌年に家を建て替えることになったので、居住期間は18年くらいと比較的短かったし、整理が行き届いていたお陰で、物量は少なかった。問題なのは、大量にあった写真、アルバムの処分であった。とにかく厳選しようと考え、両親の結婚式や新婚旅行の写真、若い時の二人の仲睦まじい様子、僕が生まれた頃のアルバムだけを手元に残すことに決めて、あとは抜粋しながら、紙袋に入れてゴミ袋へ。直接入れたって良いけれど、ゴミ捨て場で、ゴミ袋が何かの拍子でやぶけて、自分の写真が散乱したのでは具合が悪い。自分の人生を、葬り去っているような感じもしたけれど、大嫌いな運動会の写真なんて、自分で見返すなんてことはまずないだろう。広い実家から、都心の狭いマンションへの引っ越し、とにかくすっきりして、持っていけるものだけと決めた。そう急がずに、レンタル倉庫にひとまず置いてはと言う友人もいたが、数年経って結局捨てることになる。新しいスタートをすると決めた時、気持ちの切り替え、区切りとして、片付けをしたことは実に有意義だった。そして、いつか使うかもしれないなんていうものは大体使わないし、関心のないものへの言い訳なのだと改めて知ることが出来た。

 捨てて良いのか、どうなのか。捨てると決めても、何ゴミなのか分からない。片付けをするとそういう壁にぶち当たるもの。例えば、金属と木材で作られたCHANELと刻印のあるハンガーは一体何ゴミなのだろうか。養親になった姉妹の家は、マンションの5階と6階にあり広く、妹が亡くなった後、姉はのちのち僕に迷惑をかけまいと片付けを始めた。しかし、整理整頓が苦手な上、居住が48年を経過していることから、その荷物は膨大。中途半端な気持ちで片付けを始めたので、泥棒が家探したかの様相、全く収集がつかなかった。要らないものを真っ直ぐゴミ袋に入れてくれれば良いが、一つ一つの思い出を語り、それは情緒があり感慨深いけれど、右手に持っていたものを、ただ左に置くことの繰り返しとなる。そして、翌日にはすっかり忘れ、また左から右に戻す事になってしまう。どうにもならず、気まぐれに違う箱を開けては、その繰り返しを続けて、どんどん散らかるのである。そして思い出を語っているうちに、ゴミ袋へ入れた方が良いものも、突然価値が蘇ってしまう事がある。高級なブランドのシルクのブラウスも、突然「これあの娘(僕の友人)にあげたら、喜ぶかしら?」と言い出す。本音である「喜ばない」という答えは、日常生活に支障をきたす恐れがあり言い難い。正確には、気持ちは嬉しい、でもモノは要らないというのが、そういったことの原則だと思う。ファッションの流行は、周り回っているとは言え、様々な工夫が施され、現代へと落とし込まれている。そして長年、タンスの中で蓄積された樟脳臭さは、拭いきれないものがある。宝石が入っているような箱の中に、松ぼっくり、どんぐり、綺麗な落ち葉、どこかの店のマッチが入っていたりする。ジャケットのポケットには、小銭や爪楊枝が入っている。一回着ただけだからと、クローゼットにそのまま戻しているのをよく目にした、それを着たのを忘れて、何度か繰り返してきたに違いない服の山にため息を吐きたくなる。しかし、そこに何とも言えぬ、余情がある。もし、クローゼットが綺麗に整頓され、全てがクリーニングに出されて、小銭や爪楊枝が毎回きちんと始末がされているならば、僕は養子にはなれなかっただろうと思うから。偶然の巡り合わせで出会って、僕は松ぼっくり、どんぐり、爪楊枝と同じように、彼女達に拾われたのだから。そのことを、深く思い知る対話の時間となっている。

 草津は姉妹達の縁がある人のマンションを、色々な経緯があり引き継ぐことになった。そこは真っ新な部屋でなく、荷物がそのままの状態だったので、行くのも気が重くて、なかなか足を運べずにいた。自宅から草津のマンションまでは車で3時間ちょっと。休憩等を挟むと、3時間30分というのは、なかなかの距離。新幹線に乗れば、好きな京都へも楽に行けてしまう。愛猫チョビが寂しがるといけないから、我が家はどこへ行くにも日帰りするので、行きたい場所の選択肢は色々あって、憂鬱な地への訪問は、どうしても後回しになってしまっていた。バブル期に建てられた、リゾートマンションというのは期待が薄かった。前居住者は姉妹にとって縁があっても、僕にとっては知らない人。ゴミ屋敷なのだろうかと覚悟、軍手に除菌グッズ一式や掃除道具を携えた。手帳の5月のページに大きな文字で、草津へ行くと書いておいた、月末にやっと重い腰を上げて出かけることにした。

 関越道を走り、渋川伊香保インターを降りると、草津まではしばらく一般道となるが、透き通るような青空のおかげで、山の景色がなかなか良かった。渓流釣りでもしたら気持ちが良さそうな、美しい吾妻渓谷を横目にスイスイと走り、八ッ場ダムのほとりの道の駅で簡単に昼食をとった。コンビニもほとんどなく、人工的なものが目に入らない山道を抜けると、突然高い建物が見え始める。草津のリゾートホテルやマンション群である、都心はそれらに埋め尽くされているが、こういう場所に突如コンクリートの塊が現れると、どうも異様な感じがして気が滅入る。管理事務所に挨拶をして、覚悟を決めて部屋に入ると、すっきり整理された部屋で、拍子抜けした。いくつかある箪笥には着物がたくさん入っていて、他の荷物類もきれいに整えられていた。不要なものをゴミ袋に入れて、ゴミ置き場に出した。薄暗い館内は古ぼけていて、活気がない。今回はひとまず現状確認、長居する感じでもないから、次回もう少し具体的な処分にかかろうと、再び管理事務所へ挨拶を済ませて、街を散策しようと湯畑方面に出かけた。想像はしていたけれど、寂しげな街並み、外国人観光客が多かったが、お茶をするような店も見つからず、ただ彷徨い、適当な温泉にだけ浸かって草津を出発した。喫茶店でも良い、蕎麦屋でも良い、ちょっと気持ちを寄せる店が見つかればと思うけれど、そういう出会いはなかった。再び車を走らせて、結局往復で7時間程を車内で過ごしたことになる。どこか空気の良い場所に家があっても良いけれど、車で1時間30分を超えない位が良いと感じた。

 そんな中、フリーマーケットイベントに立て続けに2回参加した。感度の高い主催者のもと、良いお客様に恵まれ、どちらも開店前には行列が出来るほど盛況であった。もう使わなくなったお皿や、民藝の類も出品した。姉妹宅に大量にある、こけしと郷土人形、その行き先に僕は頭を悩ませていたのだけれど、このイベントによって、どうやらその行き先が決まりそうなのである。少しでも動かしたら祟りが起きるのではないかと心配していたのだが、皆一緒にお引っ越しとなりそうな方向性が決まった。縁とは面白いものである。その、こけしの引っ越しについては、また改めて書きたいと思う。一度目のフリマの主催者は、南青山に長年暮らすギャラリーのオーナーで、彼女はこの秋にその場所を引き払う事に決めている。僕にとっては、その場所は東京の実家、彼女の存在は南青山の母といったところで、心の拠り所となっていた。彼女の周りには、そういう友人達が大勢いて。70代前半の自分が元気なうちに、持ち物も、必要としてくれている人へ手渡していこうと、猫を抱えて奮闘している。彼女は、若い頃にセツモードセミナーへと通った。セツでは「美学を学んだ」という彼女の言葉通り、彼女の生き方には、その美学が全てにおいて貫かれている。本当は周りの皆と同じように、行かないでよ、なんて言いたいところだけれど、彼女の美学を何より尊重し、それを自分なりに受け継いで行くことが何よりの孝行だと思っている。フリマで荷物を整理したつもりが、彼女の出品していた大きな塗りの盆や、お皿も受け継ぎ、アトリエ用にとソファー、書斎机も譲り受ける。この机で、コツコツ書き物をして、いつか何かの賞でもとれたら良いなと、欲が出た。何年後かは知らないが「あの人が使っている机、私が彼にあげたのよ」なんて、彼女に言ってもらえたら嬉しいから。

 マンションに一部屋、空きが出るので、また新たな片付けが始まろうとしている。片付け三昧な日々はまだまだ終わりそうにない。

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著者略歴

  1. 麻生要一郎(あそう・よういちろう)

    1977年1月18日生まれ。茨城県水戸市出身。
    家庭的な味わいのケータリング弁当が好評。雑誌へのレシピ提供、食や暮らしについての執筆などを経て、20年に初の著書『僕の献立――本日もお疲れ様でした』を光文社から刊行。
    22年に『僕のいたわり飯』を刊行。

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