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「マーマレードの夕焼け」麻生要一郎

第4回 ピラティスから遡る、ヘルシーvsアンチヘルシーな生活

 友人に薦められて、最近ピラティスを始めた。

 僕は家族を皆、病気で亡くしている。父は44歳でくも膜下出血、母は62歳で乳癌、祖父は77歳で甲状腺癌。そして養親となった姉妹のうち、妹は78歳でアルツハイマー型認知症とパーキンソン症候群で身体が動かなくなり寝たきり、数年闘病した末に老衰で亡くなった。姉の方は89歳で大腿骨を骨折して、歩けぬまま病院暮らしになっている。健康である事は、僕にとって重要なテーマ。人生100年時代と言われて久しいが、その道のりは様々な厳しさを含んでいるように思えてならない。僕も気が付けば、父の年齢を超えている。いつ何が起こっても、不思議ではないのである。

 もちろん誰だって、病気になりたくてなった訳ではないが、日々の心掛けは大事だと思っている。食生活も、家で食べる事が多く、濃い味付けではない、酒は飲まない、健康に良いと謳われるものは何でも取り入れてみるので、バランスは良い方だと自負している。しかし、料理をする仕事の日は延々立ちっぱなし、書く仕事の日は延々座りっぱなしとなる。歩く日は1万歩を超える日も少なくないが、歩かない日は150歩という日もざらにある。弟のような存在である「FOOT WORKS」の森氏の健やかさに惹かれて、家の中でも、外出の時にも、ジョギングの時にも、彼の作ったインソールを愛用して数年が経つ。そのおかげで、地面への接着面が安定して、随分体調が良くなり、頭痛も無くなった。同じ姿勢をずっとしているのは身体に悪いと、身体を診る方はアドバイスをくれるけれど、こればかりはどうにもならない。8月だったか、料理の仕事が立て込んだ時に、激しい腰痛に見舞われた。ぎっくり腰というのでもない、ベッドで横になったら起き上がるのがとにかく辛い、靴下を履くのも一苦労、歩幅が開かず歩行が困難。見るに見兼ねた友人達がとっておきの整体師等々を紹介してくれて、元より身体を見てもらっているセラピストの面々のケアのおかげで、すっと起き上がれるようになった。色々な要因はあるにせよ、やはり運動不足というのは良くないと痛感した。

 僕はそもそも運動というものに縁がない。小学校の頃に、父の希望で剣道をしぶしぶ習った事がある。防具が臭いし、妙な掛け声を上げなければならないのが、悩みであった。「やーーーっ」ならまだ良いが「きょえーーーっ」みたいな声を上げられると、子供ながらに帰りたくなってしまう。由緒正しき真面目な道場に身を置いてしまったせいで、全国大会への出場を前に数日間の合宿があった。田畑が広がるのどかな場所にある、剣道場も備えた農業学校に、軟禁されるのである。そこで出てくる料理が、本当に不味かった、他の子供も不味いと言いながらも、お腹が減れば食べてしまう、しかし子供の頃の僕は食わず嫌いなものも多く、2泊3日の合宿の間、白いご飯は食べるにしても、おかずの類をほとんど口にしなかった。当番で面倒を見に来ている父兄の呆れ顔は、今でも鮮明に記憶している。最終日に母が迎えに来た時には、他の父兄から我儘、頑固、過保護と、散々嫌味を言われたそうである。当然、お腹はペコペコ、そのまま洋食屋さんに連れて行ってもらい、大好きなカニクリームコロッケを食べた事を覚えている。剣道が上手いとか強いとかそういう事ではなく、余計な事をして道場で名を上げたが、3年通ったところで限界を感じて辞めた。中学、高校と部活も、ずっと帰宅部を貫いた。当然、体育の授業も好きではない。高校の体育の授業で、何クラスか合同でマラソンをやった時の事。1周5キロの湖を走る授業で、スタートする時に僕らは先生の目の届かない後ろの方に構えた。スタートの合図とともに、身を屈めて茂みに入り込むのである。周辺には道路や駐車場も多い、公園もあるので隠れ場所には困らない。そして、生徒の早い集団が戻ってきて、少し落ち着いた頃、まるで走ってきたかのように、適当に顔を水で濡らしてゴールした。そんな事ばかりやっていたのだから、どうしようもない。

 家業の建設会社を継ぎかけていた頃、ストレス発散の楽しみは食い道楽で、フレンチばかり食べ続けていたら、当然の事ながら自分がフォアグラのようになっていた。当時のフレンチは今よりもどっしりとしたメニューが主流で、前菜にはフォアグラのテリーヌ、メインは鴨のコンフィや牛肉の赤ワイン煮込みのようなチョイス。パンにバターをしっかり塗って、デザートはワゴンからお好きなものをなんて言われたら、想像を絶するカロリーを摂取する事になる。しかも建設業に身を置いていると、早食いになるのだ。よく行っていたフレンチのお店でフランス人のシェフが「もっとゆっくり食べなさい」とわざわざ出てきた程。ある時、仲の良い友人が、久しぶりに会うと、何だかシュッとしていて驚いた。一体、どうしたのかと問いただすと、ジムに通い始めたのだと言う。つい先日まで、同じようなものを喜んで食べていたのに、デザートの時に「糖質を控えている」という驚愕の発言をしたのである。僕は、デザートを食べるフォークを落としそうになった。これは何かの暗示かも知れないと考えを改めて、彼に紹介してもらい、六本木にある高級ジムへ入会する事にした。メンテナンスルームのような場所もあり、始まりと終わりに、ストレッチから指導してくれ、マッサージやアイシングまでしてくれる、至れり尽くせりなジムだった。トレーナーになりたての初々しい青年が、僕の担当について、一生懸命指導をしてくれた。トレーニングの効果も現れて、身体にもメリハリがついた。体に変化を与えるため、栄養士の指導も受けながら、食事制限にも挑戦した。鶏の胸肉、きのこ、葉っぱをムシャムシャ食べて、フォアグラや鴨のコンフィともさようならをした。当時は、住んでいたのが茨城だったので、ジムに通うために愛車のBMWでわざわざ高速を飛ばして六本木まで行くのである。その感じも、振り返ってみると、何だか少しずれていて我ながら面白い。週末の夜に友人と、久しぶりに軽めのフレンチでも食べようと、待ち合わせをしていたら、僕の前を友人が通り過ぎるのである。声を掛けると、まるでお化けを見るような驚きよう。「顎がシャープすぎる」。褒められているのか、何だか分からないが、とても心配された。事情を話しても、ただただ心配され「少しふっくらしている方が要ちゃんぽい」。そう言うばかりであった。ある時、同業者の集まりに出かけ、会議が終わると、先輩にお茶に誘われて「何かあるなら、俺でよければ力になるから」そう言われた。悩みがあるのか、病気なのかと心配された。事情を話しても、表面上納得したふりはしてくれたが、何か隠していると目が物語っている。しかし、身体に変化があるのは楽しいし、何より身軽だった。ある日、いつものようにジムに出かけ、吊るされたロープを使って行う腹筋トレーニングをトレーナーの青年に見守られながらやっていると、ジムの代表がこちらをじっと見ている。この腹筋、意識の仕方が難しく、実はちょっと苦手だった上に、あまりにずっと見られているので冷や汗が出た。すると恐ろしい形相になった代表が「腹筋がちゃんと出来ていないじゃないか、お前は何を指導している!」と、迫って来た。慌てて、店長の女性が「私が代わります」と言いながら飛んできて、彼は側にしょんぼり座って、恐ろしい形相の代表もこちらを見ている。その中で、再び僕は腹筋をする羽目になった。冷や汗ビッチョリになりながら、腹筋をなんとか終えた時、彼はもうどこかへ消えていた。終わってから、次回の予約を取る時、彼が涙目で謝りに出てきてくれた。貴方は悪くない、僕はとても感謝しているし、満足しているから、次回もよろしくと言ってジムを出た。しかし翌日にそのジムから電話があって、彼は研修に戻すから、別のトレーナーに変更になりますとの連絡があった。僕は、すっかり気が抜けて、退会届けを提出した。だいたい「100キロも離れたジムに通うのはヘルシーではない」そう思った。

 その後は、島で宿をやっている時、夕焼けを眺めながら浜辺をジョギングしたり、ヨガをやってみたり。今は運動不足を感じたら、家の近所を軽く走り、近くのプールでのんびり泳いだりする程度であった。ボクシングを始めてみようかと思った事もあるが、コロナの関係で頓挫し、機を逃している。今まで、ピラティスをやろうと思った事は一度もなかったのだが、セルフケアの本まで出版した友人が、ピラティスさえやっていれば!というので、紹介を受けて試しに行く事にした。初めて行く日に改めて友人の本をめくって見てみると、ピラティスマシンに逆さ吊りのような格好をしている友人のページを開いて、自信がなくなった。最初から、こうならないとは思うけれど、こうなる自信がないと思ったからだ。一回目の今日は付き添って見守るという友人の熱視線を受けながら、スタート。最初に前屈をするとやはり身体が硬い、膝が曲がった状態じゃないと指先が床に届かない。しかし「ここに足を引っ掛けて、そのままこちら側に伸ばしましょう」と、優しく促され簡単な動きを繰り返しているうちに、時間があっという間に過ぎていった。最後に前屈をすると、膝を曲げたりしていないのに、さっきよりも身体が柔らかく指が床に届く。姿勢が良くなった感じがして、身長が少し伸びたような気持ちになっていた。呼吸も深くなり、視界もクリア。途中、友人が写真を撮っていてくれたのだけれど、なかなか様になっているではないか。身体の意識の持っていき方が上手いと先生にも褒められて、俄然やる気が出た。一回、また一回と通う毎に、何か身体の変化が蓄積されている。久しぶりに感じる、身体を動かす事の楽しさ。しばらくの間、ピラティスを続けてみよう。

 ピンピンコロリが理想的だけれど、現実はそう上手くいかない。養親の姉が通院の度、先生から「転ばないで下さいね」と言われていた。心筋梗塞をやってから、血液がサラサラになる薬を服用しているからで、怪我をすると血が止まりにくいという事だった。車で迎えに行くと「先生はそう言うけれど、好きで転ぶ人いないわよねえ」。長いタバコを燻らせながら、そう言っていた。しかし、本人の負けん気とは裏腹に、何もないところでただ転んで、大腿骨を骨折したのである。歩くのが嫌いだから、ほとんど歩かずにいた彼女には、踏ん張る力がもう無くなっていた。病院へ届け物をした帰りに、いつもの豆腐屋に寄ると、白髪のご婦人が「年寄りが転んだら終わりだからねえ、運動も兼ねて、毎日歩いてここへ来るのよ」そう微笑んだ。慎重に一歩一歩踏みしめながら歩く、ご婦人の背中を見送った。

 転ばないように気をつける意識も大事だが、いざと言う時に踏ん張れる力も大事なのである。それは、どこか人生に似ている。

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著者略歴

  1. 麻生要一郎(あそう・よういちろう)

    1977年1月18日生まれ。茨城県水戸市出身。
    家庭的な味わいのケータリング弁当が好評。雑誌へのレシピ提供、食や暮らしについての執筆などを経て、20年に初の著書『僕の献立――本日もお疲れ様でした』を光文社から刊行。
    22年に『僕のいたわり飯』を刊行。

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