白水社のwebマガジン

MENU

「マーマレードの夕焼け」麻生要一郎

第19回 新しい暮らしへの一歩

 誰も住まなくなった姉妹の部屋を片付けはじめて1年くらいが経った頃、部屋を見渡してみると、ものは変わらず多いが、彼女達の気配が失われていく様子に、どこか寂しさを感じた。

 何かを書いたメモ帳、いつ開けたか分からない七味や山椒の小瓶、使いかけのマニキュア、化粧品の類、本、灰皿、煙草にライター、何日分かの新聞、姉妹と食事をするときには、いろいろなものをかき分けてスペースを作らなければならなかった。たくさんのものが並べられていた食卓の上にはもう何も置かれていない。磨いても消えぬ、何かが置かれていた跡がついている。化粧品からもれた何かがそうしているのか、詳しいことは分からない。その痕跡を目にするたび、あのままにしておけば良かったのかなと一瞬思い、すぐに打ち消すようにこれで良かったのだと気持ちを切り替える。それはその痕跡を通して、姉妹のことを考えてしまうからに違いない。妹が亡くなる前、施設にもう少し会いに行ってあげたら良かったかな(コロナ禍で面会がかなり限定的だった)、姉ともう少し一緒に出かけて歩くようにしていたら転んで骨折したりせず、今も元気にこの食卓に一緒に座っていたかもしれないとか、考え出すときりがない。愛煙家の姉が救急車に乗る直前まで吸っていた、ウィンストンのロング、まだ開けてない煙草の箱を処分するのは気楽だったけれど、吸いかけの箱を捨てるのには、持ち主の気配を感じてしまい、ゴミ袋に入れるのが躊躇われた。

 マンションの5階、共有部のエレベーターと階段をぐるりと囲み、ワンフロアを占有するロの字型をした姉妹の部屋は、僕たちが住んでいる2階の部屋の3倍くらいの広さがある。周囲の建物は低層の住宅が多く、景観を遮るものもなく眺望が良いし、風の通りも良い。こう書いただけでも、この部屋をリノベーションした方が良いことは明確。姉も「私がいなくなったら、あなたここ直して住みなさいよ」と言っていたし、何も遠慮することはない。頭の中では分かっている、でもそこにあるモノ達が、どこか恨めしそうな感じで佇んでいたり、タバコの匂いや、良い思い出だけではない様々な感情が蘇ってきたりしては憂鬱になり「まあ、いつかね」と、呟くだけで、どうにも腰が上がらなかった。

 その頃、僕はマンションの1階に秘密の部屋が存在することに気がついた。まるでハリーポッターの物語のようだけれど、1階に4部屋ある事務所用賃貸スペース、写真家のスタジオ、僕のアトリエ、アパレルの倉庫、そして残るもう1部屋も同じアパレルの会社が倉庫として使っているものだと勘違いしていた。しかし、姉妹が家にいなくなってから、いろいろ調べると実際に使っていたのは1部屋。鍵を探して恐る恐る開けてみると、そこは昭和のまま止まっている事務所だった。重たいスチールデスク、鼠色をしたキャスター付きの椅子、ドラフター、何も入っていない重たい金庫、古ぼけたコピー機、懐かしいステンレスの灰皿、書類の山、どういう経緯でこうなったのかは、分からない。あまりに自然に止まっていたから、姉妹と人間関係がきちんとあった代表が突然亡くなって、きっと落ち着いたら整理しますと言われたまま、手付かずになったのだと想像する。何はともあれ、この部屋をどうにかしなければならないのは、確かなこと。燃えるゴミ、燃えないゴミ、頑張って整理して捨てても、やはり大物をどうにかしないとならないので、業者さんに捨ててもらった。壁に飾られていた、煤けた建物の竣工写真や図面から、設計事務所だったことがうかがえる。僕も建設会社の跡取りだったこともあってか、近い業界にシンパシーを感じ、埃臭い部屋の片付けが不思議と嫌な気分にはならなかった。一番、汚れていたトイレの掃除は、仲の良い友人がやってくれたので、ありがたかった。この部屋もお金をかけず適当にリフォームして貸し出せば、倉庫としてすぐに契約は決まるし、管理も楽。でもここがかつて設計事務所だったことから、僕にはあるひらめきが浮かんでいた。

 笹谷崇人氏(以下、ささやん)は、内装工事を手がける友人、株式会社saabという屋号で設計だけに留まらず施工まで手掛けていて、共通の友人も多い。ちょうど秘密の部屋を片付け始めた頃、彼がお世話になっているお客様や友人達に、お中元代わりに僕のお弁当を食べさせたいと頼んでくれた。なかなか粋なことをするなと僕は思っていたし、以心伝心とはこういうことじゃないだろうかと嬉しくなった。まさか彼が事務所を探しているとは思いもしなかったけれど、無理のない形でこの部屋を誰かに事務所として使ってもらえたらと思っていた。この時期にお弁当を頼んでくれて、しかもわざわざ取りに来てくれる、タイミングが全てを物語っている。僕のアトリエの斜め向かい、一緒に食卓を囲む様子もイメージ出来た。加えて築50年の老朽化著しいマンションを維持していくのは、一人ではどうにも心細い。雨漏りのような面倒な工事なら、他所に頼むにしても「どう思う?」と、相談出来るだけで心強い。そして建設会社の跡取りとして僕が経験したこと、今のマンションの大家業として出来ることもあるだろう。互いの関係性の中で彼の仕事にも何か貢献できる気もした。

 お弁当を受け取りに来た彼に、部屋を見てもうと、借りる方向で検討してもらえることになった。もちろん突然の話で迷いもあったと思うが、要望があれば全て受け入れるつもりで打診したこと。お弁当の代金を事前に伝えていたが、領収書は要らないと言って封筒を渡された。話に夢中になり、帰ったあとに封筒をあけると伝えた金額よりも、随分多く入っていた。金額じゃなくて、その気持ちが嬉しかった。簡略な契約のもと、古びた事務所の解体工事を依頼したところから、関係はスタートした。

 引き続き5階の片付けを進めても、どうやってこの部屋に入れたのかと思うような大きな家具も多く、なかなかスッキリした印象にならない。僕にしたら随分ものが減ったと思えても、他の誰かにしたら凄い物量だと驚かれる。それ故、ここに住もうというイメージがわかない。ささやんに5階を見てもらうと、広いし日当たりも良い、リフォームして住めば良いのにと言われた。そりゃそうだ。そう言われるとその気になるけれど、いざ一人になるとまた元々の部屋の空気に気持ちを持っていかれてしまい、いつか、いつかと思い始めて、進まぬ片付けをまた始めるのだった。内心、変化を拒み、終わらせたくないと思っていたのかもしれない。

 イメージが沸かないと言い続ける僕に、ささやんがある日バールを片手に部屋の一部をぶっ壊してくれた。家具を解体、壁紙もびりびりと剥がして、僕の中のイメージが変わるように、何もない真っ新な壁を作って見せてくれたのだ。すると霧が晴れるように、イメージがみるみる変わり「ここに暮らしたい!」とはっきり思うことが出来た。信頼するささやんだからこそ、その境地へ導けたのだろう。もし他の誰かがバールを持って現れたら、ちょっと待ってねと止めたかもしれない、まして業者さんが仕事の一環でやろうとしたら即座にお帰りいただく。良いことも、そうでもないことも含めて、たくさんの思い出が詰まった部屋。姉妹に初めて会ったのもこの部屋、妹が亡くなったことを姉に報告して思わず僕が泣いてしまい慰められた日のこと、一緒に何かを食べて喧嘩もした、大晦日を一緒に何回も過ごし「今年もよろしく!」と言った、全てはこの部屋から始まった。でも、姉妹たちはもっと前向きな考え方を好むだろう。「いつまでも、散らかった部屋で何をしているのよ」と笑われている気がした。僕がいつまでも、思い出にしがみつき、片付かないものに溢れた部屋に拘る必要はないのだ。そんなことを真っ新な壁を眺めながら思った。

 そんな経緯で重い腰が上がって、解体工事をすることに決めると、どんどんものを処分した。もう二度と手に入らないというものばかりなのかもしれないが、とにかく次のステップに進むと心に決めて、気が遠くなるようなものの中から、大事なものだけ見つけることに専念した。解体工事も無事に終わって、すっきりとしたスケルトンの部屋になると、気持ちが良かった。玄関を入ったところの斜めの天井、見晴らしが良い窓、風が気持ちよく通り抜けて、日当たりが良いこと。この部屋の好きな部分だけが見えている。プランも決まって、工事はスタート、完成に向けて2階の現在の住まいも片付けなければならない。でもこの部屋に今暮らしているのは、チョビと僕と家人の3人。誰かがいなくなるわけではない、そのまま5階に移り新しい暮らしを始めていくのだから、何も悲しいことなんてない、複雑な思いに悩まされることはない。

 ものを減らして、スッキリと暮らそう。

 きっと誰もが経験するであろう、生まれ育った時の実家を取り壊したり、引っ越しだったり、初めの頃の僕のように踏ん切りがつかずに、どうするわけではないけれど持て余している状況。5階のダイニングテーブルを見ると、暑い夏の日に姉が食べきれない量の冷やし中華を作ってくれたことを真っ先に思い出す。麺は4玉、錦糸卵は卵8個分、ハムやきゅうりも山盛り。なんでこんなにたくさんの量を作るのかと不思議に思ったけれど、姉はダイニングテーブルを通してお父様が健在でたくさん人が集まり楽しかった頃を思い出していたのだと思う。物がそこにあるだけで、いろいろなことを思い出してしまう。楽しかったことや、今はいない誰かの面影、あの時に言えなかったことの後悔。僕が19歳の頃に父が亡くなって、1年も経たないうちに、家業の建設会社が住宅の仕事も始めるようになり、モデルハウスを兼ねた実家を建て替えた。大人達が、父の面影が残るそれまでの実家では残された母や僕が辛いからと言っていたのだけれど、僕にはその意味がよく分からなかった。父の思い出が残っている方が良いのにと思ったし、何だか父の存在がなかったことにされるみたいで、ちょっと悲しい気持ちもあった。でも今ならば、その時に大人達が話していたことがよく分かる、それでは本当の意味で前に進むことができない。あっという間に建て替えが決まって、仮住まいに引越し、新しい実家が完成したらまた引越し、慌ただしかったので悲しみの余韻に浸る暇がなかった。どこにもかしこにも、父の面影があっては、母がもっと辛かっただろうなと思った。

 5階のリビングの大きな窓から見える景色が好きだと、ささやんに伝えた。チョビも、その前で気持ち良さそうに寝ていた。8枚の引違い窓で構成されていたが、新しく1枚のフックス窓に生まれ変わる。飽きることがないその景色さえあれば、この家に絵は不要かもしれない。“理想の家を作るには3回建てないと辿り着かない”みたいなことを何かで読んだ。自分で家を作るのはこれが初めて。ささやんとは、出会ってから、連日1階にある僕のアトリエで夕食をともにしている。キッチンを中心とした我が家の暮らしや、僕は片付けが得意じゃないこと、様々な考え方など、全てを共有出来ているのは、家作りにもきっと生かされるだろう。完成までにはまだ時間がかかるけれど、僕の中ではある意味ではもう完成しているのだ。ここに住むと決めた時、全てをささやんに任せると決めたから。暑い中、毎日工事もしてくれているから、僕も家人も、最初にお風呂を完成させて、シャワーを浴びながら頑張ってとささやんに言っている。「引渡し前に僕がバスルームを使っては申し訳ない」…と彼は苦笑いするが、ここは「皆の家」なのだ。夏の終わりから始まる、新しい暮らしが楽しみだ。

バックナンバー

著者略歴

  1. 麻生要一郎(あそう・よういちろう)

    1977年1月18日生まれ。茨城県水戸市出身。
    家庭的な味わいのケータリング弁当が好評。雑誌へのレシピ提供、食や暮らしについての執筆などを経て、20年に初の著書『僕の献立――本日もお疲れ様でした』を光文社から刊行。
    22年に『僕のいたわり飯』を刊行。

フランス関連情報

雑誌「ふらんす」最新号

ふらんす 2024年9月号

ふらんす 2024年9月号

詳しくはこちら 定期購読のご案内

ランキング

閉じる