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「マーマレードの夕焼け」麻生要一郎

第18回 ドラクエ介護の日々、チョコレートケーキの記憶

 ぼんやりと間接照明だけをつけた、薄暗い部屋のソファーで横になり、疲れきっていた僕はそこから動くことができなかった。

 その日は夕方から、家族のような友人、坂本美雨ちゃんのコンサートへ蔵前に出かける予定だった。前々から誘ってくれていて、その日の朝までは行く予定だった。彼女が好きだったギャラリーとして使われていた蔵の建物が、その歴史に幕を下ろす日に行われる特別なコンサート。家から会場までは電車で30分もあれば着くというのに、ものすごく遠く感じた。開場の時間になっても、僕はソファーに横になったまま。立ち上がりたくても、立ち上がれない、今はただ静かに横になって自分を取り戻したい、そう思って「ごめん、今日は行けそうにない」と力のないLINEを送りながら、そんな自分を情けなく思って余計に落ち込んだ。

 今のマンションに引っ越してから、老姉妹の養子になり、妹、姉の順番で介護が必要になった。おそらく6年ぐらいの間、僕は毎日お昼前頃に姉妹の暮らす家に行って、自分の部屋に戻ってくるのが夕方という生活をしていた。もちろん日によって早めに戻れる日もあったけど、誰かとランチやお茶、どこかへ旅行するといった自由な時間は皆無だった。お茶に誘われたって、その時間の様子でという生返事。家人が休みの日に一緒に出かけるランチも、いつも中途半端な時間になって、まるで早めの夜ごはんのようだった。

 同じマンションの5階にある、養親の姉の家に上がるのは11時頃。そこから時代劇専門チャンネルで、古い時代劇を一緒に見るのが恒例だった。姉は同世代の俳優達と親交があり、その素性にも詳しく「この人は新国劇にいたから、ほら他の人達とぜんぜん立ち回りが違うでしょ」といった具合に、延々と解説が続く。「○○さん懐かしいなあ、ねえ、この人まだ生きてる?」そう言われて検索してみると、亡くなっていることが多い。僕のせいではないけれど、調べてしまうと、何か彼女の大切な思い出を傷つけている気がして辛かった。それが見終わったら、今度は姉の長年の趣味であるドラゴンクエストをやらねばならない。僕が子供の頃にやったドラクエは、とにかく強いのを倒したらゲームクリア。しかし、現在のオンライン型ドラクエは、何を倒してもストーリーは終わらず、延々と続く。そしてゲームの中には友達がいるし、その世界の中で土地を買って、家を建て好みの家具を揃えることが出来るし、釣竿やリールを買って釣りをするとか、とにかく現実社会で出来るようなありとあらゆることを、ゲームの中で楽しむことができてしまう、仮想現実の世界が無限に広がっていた。

 出会った頃、80代と70代の姉妹が咥えタバコをしながら、爆音でドラクエをする姿はかなり奇妙だった。もともと姉妹は出かけるのが好きだったので、全国のいろいろな場所を旅していた。しかし妹がくも膜下出血を患ってから、後遺症が少し残ったこともあり、なかなか出かけられなくなってしまった。もう少し良くなったら、春になったら、涼しくなったら、なんて言っているうちにすっかり腰が重くなってしまったのだろう。僕が養子になってからも、京都へ行こうと言って、同じように先送りを繰り返しているうち、一緒に行けず仕舞いだった。そんな姉妹を心配した知人が、暇つぶしに麻雀のゲームでもと紹介したことが、ゲームをはじめたきっかけだった。やがて麻雀ゲームに飽きてしまい、何か面白いものはないかと探している時、ドラクエにハマったのだそう。最初は妹が操作をしていたけれど、妹が病院暮らしになったあたりから、僕が担当することになった。よく姉が隣から余計な口出しをしては「だったら自分でやってよ!うるさいわね!」と、妹が怒っていた。当時はゲームでそんなに癇癪起こさなくてもと思っていたが、いざ自分が当事者になれば、その心境をよく理解することができた。しかし僕の立場では、何も言い返せずにイライラするのが精一杯、怒るわけにもいかなかった。

 ボスキャラを倒しても終わりにならず、日々なんらかの達成すべきクエストがあり、それを達成しなければ、僕に自由時間は訪れない。だからと言っていざ早く達成したから「じゃあこれにて失礼します」とは出来ない。なぜならば、僕は姉に付き合わされているのではなくて、自発的に楽しくやっていることになっているのだから、切り上げるような終わり方にはせず、もう少し余韻を楽しまないといけないのだ。ルーラで、どこかの地方に飛んで、何かをやっつけてクエストが達成されても「もう少しこの辺りをぶらぶらしようか?」なんて言われる。そういうやりとりを繰り返していると、彼女にとってこの時間はゲームというより、僕と一緒に旅行をしている時間なのだということに気づく。そう思ったとき、ゲームのちょっとしたこともむげには出来ない気持ちになった。そうこうしているうち、ゲームを上手に着地させて終わりにして、会話も良いところで切り上げるとだいたい夕方となる。しかし帰るタイミングで、何だかちょっと寂しそうだなと思うと、夕方に再放送している『必殺仕事人』を一緒に見たりする。ドラマが終わる頃には、彼女達の部屋の大きな窓から見える首都高速4号線は交通量が増えて、行き交う車のテールランプが曲線を描きながら光っている。「また明日」と部屋に戻っても、ヘトヘトになってしまい、出かける気力もなくなってしまう。何も蔵前に行けなかった日が特別なのではない、それが僕の日常だったのだ。

 姉の場合には、何かをしてあげたいというタイプだったので、僕が何かをするというよりは、究極の受け身でいることが求められ、話をしたい、何かを共有したい、そんな思いが姉は強かった。確かに、高度経済成長期の時代を生き抜いた彼女のストーリーは面白かった。赤坂のニューラテンクォーターの話、銀座や青山でやっていたお店の話、全てがドラマティックで面白い。ちょっとの時間だけだったら楽しいのかもしれない。だけど、毎日、全てをその時代に設定されるのは、結構しんどいものである。僕は現代に生きたい、今を生きている友達にもっと会いたいし、今時のランチも食べたい、コンサートにも行きたい!そんなふうに思っていたのも事実である。自分の時間に戻っても、生活に休みや区切りはない。用事や買い物を頼まれたりなんてこともよくあった。そういう時にパッと行けるように、タクシーで10分もあれば帰れるようなところへ行くのがせいぜい。時々、どうしてもの用事がある時には、水戸へお墓参りに行くと言って時間を作った。それでまとまった時間を作っても、どこかそわそわと落ち着かない気持ちだった。現時点から振り返れば、もっと上手なやり方があったのかもしれないけれど、渦中ではそれが精一杯のやり方だった。きっとこの連載を読んでいる方には、同じ気持ちや状況の人も実は多いのではないだろうか。自分に大きな制約をして尽くしているのに、感謝されるわけではなく、それがまるで当たり前だと思われてしまう、やり場のない気持ち、しかしそういうときだからこそ感じとることが出来る、喜びだってある。本当に楽しそうに思い出話をしてくれた時、不意に改まってありがとうと言ってくれたりする時がそうなのかもしれない。

 認知症が進んで、パーキンソン症候群で身体が動かなくなった妹が、入院していた病室で突然「要ちゃん、あなたにお姉ちゃんのこと残してごめんなさい。私がみなきゃいけないのにね、でも本当に我儘だし自分勝手だから、全部言いなりになったらあなたが壊れちゃうから、言うこと全部聞かないでいいのよ、怒っていいの、私もそうしてきたから。要ちゃん、あなた優しいから私は心配なの。」不意打ちされ、思わず僕は泣いてしまった。涙を流した僕の頭を自由が効かない手で撫でながら「ありがとう、泣かないで…」妹の目にも涙が浮かんでいた。帰り道、金色に色づいた銀杏並木の美しさを鮮明に覚えている。

 妹がその病院へ入院するまでに、自宅で過ごした時間は実務的な介護が大変だった。出会った頃は、くも膜下出血の後遺症で左側が少しだけ不自由さがありつつも、自分で歩くことが出来ていた。しかし、しばらくすると信号などで立ち止まろうと思っても、2、3歩余計に足が進んでしまう。そうかと思えば歩き出そうとすると、足が前に出ない。その度に姉は「何してるのよ!」と、イライラしていた。イライラされると、本人もイライラしてしまって余計に身体が動かない。僕は、右足に手を置いてこの足を前にと伝えると、「こっちね」と言いながら、足が動き出す。定期的な大学病院への通院には姉妹だけで行っていたから、ある時に僕も同行した。すると、診察室ではそういう症状を全く伝えずに、妹は元気な姿をアピールして、先生に褒められていた。口を挟んで気分を台無しにしてはいけないと思って、僕は主治医に手紙を書いた。こういう症状がある、でも僕から聞いたとは言わずに、先生から検査を提案して欲しいと。先生が状況を理解してその通りにことが運んで、検査をしてみると、アルツハイマー型認知症とパーキンソン症候群という診断だった。

 すぐに介護認定の手続きを申請し、調査に来た人が「お名前は?」「いま、住んでいるところは?」等と質問する、こんな質問怒るだろうなあと思っていると「あなたのご覧になってる、手元の紙に全部書いてあるんでしょ? そんなわかりきったような質問、失礼よ!」と、やはり怒った。仲裁しつつ、残りの質問を手短にしてもらったが、妹のイライラは限界に達し「要ちゃん、この失礼な方もうお帰りいただいて!」と言い出して終了。それからケアマネジャーさんに依頼、自宅に介護ベッドを設置、訪問入浴、ヘルパーさん等のサービスを頼んだ。デイサービスも提案され、「皆でお話ししたり、リハビリや歌を歌ったり…」と説明されていたが、途中で必要ないと一蹴されていた。半年くらい自宅で奮闘した。妹のオムツを替えるとき、姉は僕にやらせるのが悪いと思うらしく、出来るわけがないのに一人で作業をやり出す。すると、オムツを脱がしきれず、交換未遂に終わる。結果として、ひどい状態のときに呼ばれることになり、大惨事で途方に暮れるのだった。寝返りをうたないでずっと同じ姿勢でいたので、床ずれが出来てしまったことにも苦労させられた。だんだんそこが膿んでしまい、菌が入って熱が出たり、もちろんズキズキと痛みがあるので本人も辛そうだった。床ずれがいかに大変かということを、もっと世の中の人は覚えていた方が良いと思う。訪問の医師を頼むようになり、家にいては床ずれが悪化するばかりだという結論になって、一般の病院へ入院をしてから、療養型の病院へと転院をした。そこの病院は、何箇所かを見学したのちに決めたところで、スタッフも若くて活気があって、本当に献身的に面倒を見てくれたので、ありがたかった。最後の最後まで、誠実に面倒を見てくれた。それを証明するかのように亡くなった時の表情が、本当に穏やかっだった。

 姉も骨折を機に、動けなくなってしまったので、同じ病院に入った。入院した初日に、担当の先生が「私、妹さんのことも診ていました。やはり似てらっしゃいますね!」と話しかけると、姉は僕のほうを向いて「この人は何の話してるの?」とでも言いたげだった、僕は頷いておけばいいよという表情をして、首を縦に振ったら、姉はにっこり微笑んで先生に向かって得意げに頷いて見せた。その後に、先生からも看護士さんからも、妹さんのことは忘れてしまっているのでしょうかと、認知状況の確認があった。でも姉からすれば、自分よりも8歳下の、ずっと一緒に生きてきた、姉妹であり相棒であり、どこか娘のようでもあった存在。自分より先に逝ってしまったことなど、忘れようがないし、でもそんな耐え難いことは覚えていたくないだろう。「もし、話に出てきたら頷いてください。」僕はそう答えた。

 ある日、看護師さんから「麻生さんがお食事を全く召し上がらなくて、好物は何かありますか?」と尋ねられた。おそらく、病院では栄養バランスを考えた食事が供されているのだろう。姉の入院前の食事に規則正しさはない。好きな時に、好きなものを、好きなだけ。塩分も、糖分も無制限。「好きなものは、鰻、すごくレアに焼いた牛肉、生牡蠣、熟成させた鰤の刺身、寿司、維新號の肉まん、モロゾフのプリン、ユーハイムかトップスのチョコレートケーキ、アイスクリーム、チョコレート、ブリーチーズ、砂糖と牛乳をたっぷり入れたコーヒー…」と続けたあたりで、看護師さんも僕も笑い出してしまった。そりゃ病院のごはんなんて食べないですね、お好きなものを食べていただけるように先生と相談しておきますねと言ってくれて、時々彼女の好物を届けている。チョコレートケーキが食べたい! と連絡があった時、京王百貨店の中にあるユーハイムへ行き「ショコザーネ」を買って、いつも使っていたケーキのお皿とフォークも一緒に病院へ届けた。しばらくすると、病室から電話がかかってきて「要ちゃん早速、買ってきてくれてありがとう。パパが生きている頃はね、お誕生日にケーキとメッセージカードをユーハイムが送ってくれていたのよ、神戸のお店にもよく行っていたからね〜」と大好きなパパのことを誇らしげに語っていた。「神戸の商店街の福引で、七面鳥が当たったこともあったわね、あの時は要ちゃんいなかった?」食べ物から、様々な記憶や思い出が鮮やかに蘇る。七面鳥が当たったのはきっと随分昔の話で、僕はいなかったが、あまりにも機嫌が良いので一緒にいたような気持ちになった。嬉しそうに「あなたも、チョビちゃんも、チョコレートケーキ食べた?」と聞く姉の声がとても優しかった。

 姉が一番会いたいと思っているのはチョビ。チョビの可愛い写真をハガキにして、メッセージを添えて病院へ郵送している。姉は届いたハガキを担当の看護師さん達に見せながら「私の息子なの」と言って自慢しているらしい。僕とチョビがごっちゃになっているかもしれない。でも喜んでくれているならば、そんな嬉しいことはない。

 介護は環境や、その人のキャラクター、関係性、抱えている病気などが様々で、同じ状況なんてないのだけれど、支える側の心情はどこか共通しているように思う。今、どこへも行けない、自由がない、不安で息が詰まるような日々を過ごしている方もたくさんいるのかもしれない。でも、その日々はやがて懐かしい記憶となり、必ず楽しい気持ちでコンサートに行ける日がまたやってくる。僕は今ウキウキと手帳に予定を書き込んでは、失われた時間を取り戻している。しかしやがては、僕も介護をされる側になるのが人生。そんな自戒の念も込めながら、今日も病院への手紙を書いている。

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著者略歴

  1. 麻生要一郎(あそう・よういちろう)

    1977年1月18日生まれ。茨城県水戸市出身。
    家庭的な味わいのケータリング弁当が好評。雑誌へのレシピ提供、食や暮らしについての執筆などを経て、20年に初の著書『僕の献立――本日もお疲れ様でした』を光文社から刊行。
    22年に『僕のいたわり飯』を刊行。

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