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連載インタビュー「外国語をめぐる書店」

スペイン語専門オンライン書店 ミランフ洋書店 宇野和美さん(第1回)

 最初に翻訳した本が刊行されたのが一九九五年。扱う言語はスペイン語で、スペインのものもラテンアメリカのものも手がけ、その数は六十冊以上にも上る。取り上げるジャンルも幅広いが、とりわけ絵本と児童書、つまり「子どもの本」が多い。スペイン語の翻訳者、児童書の翻訳者といういずれからも、第一人者といえるのが、宇野和美さんだ。翻訳者のなかには「宇野さんの訳す本ならば間違いない」と信頼を寄せる人もいる。独自の選書眼で、多くの良書の翻訳を送り出してきた。

 その宇野さんには、もうひとつの顔がある。スペイン語の子どもの本専門のオンライン書店「ミランフ洋書店」の店主だ。スペイン語の書籍を扱う店は他にもあるが、ミランフ洋書店は、ラインナップに絵本や童話、児童文学やYA(ヤングアダルト)が充実しているのが大きな特徴だ。それは宇野さんの翻訳の仕事とこの店が切り離せないからだ。本人はミランフ洋書店は「翻訳のスピンオフ」だという。翻訳という本編で届ける本に対して、スピンオフでは誰にどんな本を届けようとしているのだろうか。

 

翻訳に憧れて

 宇野さんがスペイン語に出会ったのは大学生のときだった。英語の勉強が好きだったので、大学でも外国語を学びたいと思った。せっかくなら英語以外の言語をと考え、話者も多く、かつメジャーすぎないスペイン語を選んだ。ちなみに、募集定員が少なすぎず、合格しやすいだろうという打算も働いた。つまりは深い理由があったわけではなく、なかば偶然に出会った言語がスペイン語だったのだ。

 外国語学部の学生ですと人に言うと、語学を勉強して何をするのか、とよく聞かれる。単純に言語を学ぶこと自体が好きな人もいるのだが、語学は何かをするための手段だと考えるのがふつうとも言える。この質問に対する宇野さんの答えは「スペイン語で本を読めるようになりたい」だ。子どものときから読書好き、海外の小説にも親しむ中で、中学生のときに翻訳家という仕事があると気づいた。「外国のことばを自分が日本語に直す。それで日本の読者が読めるようになるってすごいな」。翻訳家への漠然とした憧れが生まれた。なので、大学で勉強してスペイン語を読むのは楽しかった。一方で会話のほうは苦手で、これはのちにスペインに留学するまで尾を引いたようだ。

 当時、宇野さんが学ぶ東京外国語大学スペイン語学科では、教授の牛島信明さんがスペイン文学、ラテンアメリカ文学を翻訳し刊行していた。翻訳をしている先生がいる、と気になった宇野さんは、牛島研究室に足を運ぶようにした。二年生の夏休みには、自分でも読める本はないかとアドバイスをもらいに行った。最初に薦められたのが、ピオ・バローハのLos amores tardíos(『遅かりし愛』、未邦訳)、次にはエルネスト・サバトの『トンネル』(高見英一訳、国書刊行会)。どちらも百ページほどの薄い本だった。文法的にも語彙的にもまだまだわからないところが多く、読みこなせてはいなかった。それでも読むのは好きで、苦痛ではなかった。

 三年生から牛島先生の文学講読の授業が始まったが、「一ページを読むのに辞書を何回引くかという感じで、ここまでしてこれだけしかわからない」という力だった。それでも学ぶうちに読むスピードも上がり、理解もできるようになっていき、卒論では現代文学をやりたいと牛島先生に相談し、アナ・マリア・マトゥーテの三部作に取り組んだ。

 ちなみに、原書を読むのに宇野さんが活用した辞書がある。「マリア・モリネール・スペイン語用法辞書(Diccionario de uso del español)」だ。二巻構成の大きな辞書で、コロケーション(ある語が、どの語と一緒に使われるか)や成句の解説が充実しているのが特徴になっている。図書館や先生の研究室にはもちろん備え付けてあるが、これを自分の手元に置きたいと、アルバイトでお金を貯めた。そして毎月のようにのぞいていたイタリア、スペイン、ポルトガル書籍専門の老舗イタリア書房で買った。

 

児童書との出会い

 宇野さんは四年間でスペイン語の力をつけ、一応は文学を読むという経験も積んだ。卒業後の進路は、翻訳をしたいという気持ちは強くあったが、一方で親のすねをかじりたくない、自立したいという気持ちも強かった。それで大学院には進学せず、就職の道を選んだ。本が好きということで出版社に入社したが、本にかかわる仕事であればいつか翻訳にもつながるかな、というぼんやりとした期待もあった。

 社内では辞書好きというアピールが功を奏して、新しくできた学習辞典の部署に配属されたのはよかったが、これが激務だった。働きながらスペイン語の勉強と目論んでいたが、そんな時間はとれない。それでも、翻訳への熱意だけは燃やし続けていた。

 しかし翻訳をするといっても、自分はいったいどんな本が訳せるだろうか。

 宇野さんが大学を卒業したのが一九八三年で、この時期には集英社がラテンアメリカ文学の全集を刊行するなど、六〇年代に始まるラテンアメリカ文学のブームの大作家の作品が次々と訳されていた。しかし「ラテンアメリカのは自分は読んだことはないし、アカデミックな世界で活躍している方が訳しているから入る余地もないし、入れる気もしない。でもスペインの文学は出している出版社もない。それで児童文学はどうかなと」。八〇年代までに児童文学の作品はちょこちょこと出ているが、コンスタントではない。面白い作品があれば、自分が翻訳者として入っていく余地があるのではという期待を抱いた。

 そこでスペインの児童文学をリサーチするために宇野さんがとった方法がユニークだ。一九八八年に新婚旅行でスペインを訪れたのだが、そのときに書店で売れ筋のもの十冊を買い求めたのだ。その十冊でまずは検討をつけようとのねらいだ。

 訪れたのはマドリードにあるカサ・デル・リブロ(Casa del Libro)本店。スペインの老舗かつ大手書店で、繁華街のグラン・ビア通りに現在も店を構えている。学生時代に牛島先生に教えてもらって唯一知っているから、という理由で向かったに過ぎなかったのだが、これがよい結果につながった。たまたま児童書売り場にいた店員に「スペインの作家でよく読まれているものを教えてください」と声をかけた。いま思えば、書店員だからといって本に詳しいとも限らないし、急なお願いだったが、運よく、その店員は文庫くらいの手軽なサイズの本をぱぱっと選んでくれた。

 「たまたまですが、フランコ独裁時代が終わって、八〇年代は検閲がなくなって押さえられていた児童文学がわっと出た。ちょうどその時期の作品を教えてもらったんだなと、いまになって思う」と振り返るように、児童書に目をつけたのは成功だった。出版社で働いた経験から備わった「みんながやっているものでなく、新しい分野で勝負を」という勘がどうやら生きた。面白いと思う作家がいれば、その作家のほかの作品にも手を伸ばすという方法でスペインの児童書を読み始めた。

 もちろん、それですぐに翻訳の仕事ができるわけではない。しかも、出産を機に会社を退職し、子育ての真っただ中に突入するところだった。当時、雑誌の広告などで「子育てをしながらあいた時間に翻訳の勉強を」という謳い文句を目にして、自分もそんなふうにと考えたが、現実は甘くない。子どもの世話で精一杯の状況が続く。

 半年ほどたったところで「やばい、これはできない。作戦を変えなきゃ」と思い立つ。自分の時間を作るために子どもを保育園に入れたい。そのためには働く必要がある。前職の辞典編集部で、外注スタッフとして仕事をもらった。このとき、上司にあたる人の理解があり、実際には週三日の勤務内容だが、書類上では週五日ということにして提出してくれた。おかげで平日は子どもを保育園に預け、週二日は自分の勉強に充てられた。さらに前職の児童書部門の先輩に将来子どもの本を翻訳したいと相談して、児童書の校正の仕事や、翻訳のリーディングの仕事をもらうようにして、チャンスをうかがっていた。そうしてその人脈から、『アドリア海の奇跡』(徳間書店)が刊行できることになった。作者のジョアン・マヌエル・ジズベルトは、最初買った十冊の作家のひとりだった。

 

須賀敦子さんのことばに導かれて

 最初の翻訳に続けて翌年の一九九六年にも絵本の翻訳が刊行できた。ただ、どちらもラッキーな形で出せたが、次の見通しはない。長男の後、長女、次男と続けて出産しケア労働で余裕がなく、スペイン語もまだ十分にできない、児童書のことももっと知りたい。そんな欲求不満を抱えていた時期に、宇野さんはイタリア文学の翻訳家で作家の須賀敦子さんのことばに出会う。

 河出書房新社の文藝別冊の須賀さんの追悼特集を読んでいると、作家の森まゆみさんが須賀さんとのエピソードを記していた。読んだ途端、宇野さんは雷が落ちたような衝撃を受けた。須賀さんが森さんに対して、あなたみたいな人は一度ヨーロッパに行ったらいい、子ども三人連れて行っちゃえばいい、と勧めたというのだ。「わたしは森さんのような人ではないけど、でも子どもを連れて行くくらい価値のあることなのか。それを須賀敦子さんが保証してくれたという気持ちになって」と振り返る。

 訳書を出したとはいえ、文学の専門家でもない主婦だ。それでもなんとか留学する手立てはないか。それも、外国人向けの語学講座ではなく、大学できちんと児童文学を学びたい。調べた末、バルセロナ自治大学で児童文学を専門とする先生がいることがわかり、手紙を送り、学びたい熱意を伝えた。拍子抜けするほどにすんなりと受け入れられて、大学の学位があるならと、大学院に入れることになった。

 次に家族を説得しなければいけない。その説得材料とするために、スペイン外務省の奨学金に申し込んだ。「望ましい」とされていた年齢制限は超えていたが、あくまで目安のはずと思い切って申請してみると、これも無事通った。夫や親は呆れて驚愕しながらも、それで理解したというのか諦めてくれた。だが、夫を日本に残し子どもは連れていくつもりだったが、なるべく無理強いはしたくない。下の二人はまだ幼くなにもわからないからか、一緒にスペインに行くことに抵抗はなかった。かわいそうなのはこのとき小学四年生の長男で、最初は日本に残ると言っていたが、結局ついてきてくれることになった。宇野さんも「この子には負担をかけちゃったな」とは感じている。

 留学一年目はとにかく大変だった。子どもが学校に行っている間はいいが、帰宅後や週末は子どもにかかりきり。加えて、相変わらず会話は苦手だった。最初の訳書を翻訳中、著者に会いに行ったのだが、それを牛島先生に報告すると「こんなにスペイン語をしゃべれない人が訳しているのかってびっくりされちゃいますよ」と言われ、さらに留学を受け入れてくれた先生にも「こんなにしゃべれないとは思わなかった」と驚かれたそうだ。手紙のやりとりでは問題がなかっただけに、驚きが大きかったのだろう。宇野さんはこのエピソードを笑いながら明かしてくれる。子どもたちはストレスからかきょうだいげんかが絶えず、正直自分のできなさ加減に泣きたい毎日だったが、日本の家族にはつらいとは間違えても言えなかったという。

 二年で終えるつもりの留学だったが、子育てをしながらではかどらない。学んだ証拠を学位というかたちで残したいという気持ちも強まり、修士論文を完成させるために期間を半年延ばした。この二年半でスペイン語の力もついたうえ、多くの人と知り合うことができた。「留学しなかったら、いまここにはいなかった」と語る経験ができた。


棚貸書店「西日暮里BOOK APARTMENT」で店番をしながら、カウンターで翻訳に勤しむことも

(第2回につづく)

【お話を聞いた人】

宇野和美(うの・かずみ)
翻訳家、スペイン語の子どもの本専門ネット書店「ミランフ洋書店」店主。訳書に、グアダルーペ・ネッテル『花びらとその他の不穏な物語』『赤い魚の夫婦』(ともに現代書館)、アナ・マリア・マトゥーテ『小鳥たち マトゥーテ短篇選』(東宣出版)など多数。

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