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連載インタビュー「外国語をめぐる書店」

中国・アジアの本 内山書店 内山深さん(第1回)

 本の街、東京の神保町で半世紀以上、中国専門書店の看板を掲げているのが内山書店だ。この地に社屋を移築したのが一九六八年だが、そのルーツはさらにさかのぼることができる。一九一七年、上海で内山完造とその妻美喜が、自宅の玄関先で聖書などキリスト教関係の書籍を販売したことから始まり次第に事業を拡大、一九三五年には、完造の弟である嘉吉(かきつ)が、東京内山書店として世田谷区に新店舗を開業。日本の敗戦とともに上海の店舗は閉鎖されるが、東京店がいまの内山書店につながっている。

 上海時代には店は日中の文化人が集まるサロンの役割を果たしていた。最も知られたエピソードとしては、店主の完造は魯迅と深い親交を結び、彼を庇護もしていたことだろう。当時の日中友好の精神をいまに象徴的に伝えるのが、現在の店舗でも掲げられている店名の看板だ。この「内山書店」の文字は、日本に留学した文学者で歴史家の郭沫若の揮毫による。

 百年以上の歴史を誇り、日中友好の架け橋となるという使命をもつ。まさに伝統と由緒のある書店といえる。一方で、その存在感に懐疑的な人がいる。それこそ内山深さん、現在の内山書店の社長本人である。二〇一八年に四代目として会社を継いだ。「内山書店は歴史があって、中国のことを勉強している人ならだれでも知っているよね、というのは狭い範囲のこと」と自覚をもっている。

祖父、父に続き会社を継いだ、いうなれば最も内側の人間である内山さんが、このような考えをもつに至った理由は何だろうか。

 

中国で喧嘩をするために中国語を

 内山さんの父は先代の社長、籬(まがき)氏で、祖父は東京の内山書店を興した嘉吉である。ちょうど内山さんが生まれた頃に、父が社長に就いた。とはいえ、中国との出会いには、最初から家族の影響があったというわけではなかった。まず幼い頃は父がどんな仕事をしているのか知らなかった。小学校中学年にもなると、どうやら中国関係の本屋をやっているらしいと理解はしていた。

 中国を直接体験したのは中学生になる直前だった。親戚一同、父親のきょうだい家族みんなで中国に旅行をしたのだ。一九八〇年代の当時、中国はまだまだ発展途上にあったので、内山さんは「基本的な感想としては、汚い」という印象をもった。お腹も壊してしまった。有名どころの観光地を回ったのでそれは楽しかったが、あまりいい国とは思えなかった。

 高校生のときには、父が社長をしているということはもちろん理解できていた。内山さんには双子の兄がいる。父からふたりに対して直接に継いでほしいと言われることはなく、聞かれるとしても将来どうするかという程度に過ぎず、兄ともどうするかを話し合うこともなかった。やがて大学受験を迎えると、内山さんもお兄さんも浪人をするのだが、もう一年浪人をすることになった内山さんより一足先に、お兄さんは英文科への進学を決めてしまった。ということは、どうやら兄には家業を継ぐつもりはないらしいと見て取った内山さんは「なんとなく自分が継ぐのかな」と考えるようになった。大学に入ってから中国語を勉強しよう、ということで、社会学部に進み、第一外国語として中国語を履修した。

 家族旅行以来、中国には特によい印象も関心もなかったが、大学生のときにも旅行し、これが勉強に本腰を入れようというきっかけになった。とはいえ、旅行を決めたのは内山さん自身ではなく、一緒に中国語を履修している友達ふたりで、それに誘われて乗ったかたちだったという。最初の旅行とちがい、ツアーコンダクターや通訳もいない、自分たち三人だけでの旅行は得ることが多かった。最も大きかったのはぼったくりに遭ったことだという。

 「まずタクシーですよね。メーターなんてないので、最初に乗ったときに何百元と言われて、黙って支払っちゃう」

 高いなとは思ってはいたが、二回目に乗ったタクシーではもう少し安く済んだので、これは最初はぼられたかな、と気づいた。現地に留学していた知り合いと会ったときにこの話をして「一回目はぼられたと思う」と言うと、「いや、それは二回目もぼられているから」。本当はもっと安いのであって、一回目と二回目は騙された程度のちがいでしかなかったのだ。

 あるいは街で入った小籠包店でのこと。ひとつのセイロに小籠包が十個入って十元とあるので、これは安いと、三人それぞれが一セイロを注文した。いざ精算となると、店の奥からこれまで接客していたのとは別の人が出てきて、一人百元だと告げてきた。小籠包ひとつが十元であり、一セイロでは百元になるというのだ。

 「一セイロで十元と書いてあると、日本語では言いましたよ。でも中国語ではやっぱり言い返せないので。泣く泣くみんな払いましたね」

 最初の旅行といい、これで中国を嫌いになってもおかしくはなさそうだが、内山さんは嫌だとは思わなかったという。むしろ、コミュニケーションが大事なのだ、こういうときに言い返すために中国語を勉強しなくてはいけないと意識が改まった。「ある種、中国人と喧嘩するために中国語を勉強するという、そういうノリでした」。

 

生きた中国語に触れる

 四年生になる頃には、飯田橋にある日中学院の夜間のクラスに通い始めた。その頃までには会社を継ぐ考えは決まっていた。そして大学卒業後、まだ中国語の勉強が必要と考え、北京大学の語学コースに留学した。

 日本で学んでいる間、勉強そのものは淡々としたもので、「大きな挫折はなかったが、特に面白味を感じたわけでもなかった」と振り返る。それが留学したことで「これはやっぱり難しいな」と変わった。教科書で習った言いたいこと、言うべきことを話してみる。それに対してことばは返ってくるが、それは教科書どおりではなく、言っていることが半分もわからないのだ。その原因はというと「やっぱり語彙力が違いました。日本で勉強する単語の量では足りなかったんですね」。

 何気ない、身の回りにあるものの単語は、意外と教科書では出てこない。自己紹介や切符の買い方は中国語でわかるのに、ごみを捨てる、アイロンをかけるというような、日々の暮らしに密着した表現がわからない。たとえば初めて食堂に行った内山さんは、注文の仕方がわからずカウンターで尋ねた。「食券を買ってきて」と言われるが、そもそも日本で食券を買う機会がなかったので、食券という単語自体を初めて聞いた。「やっぱり生活してみて初めて知る言葉が多かったんです」。

 発音がよくなかったというのも現地で気づいたことだ。当時、煙草を吸っていたので売店にライターを買い求めに行った。ところが店の人に通じない。実物を見せてこれがほしい、と伝えてようやく「ああ、ライターね」とわかってもらえた。発音が悪かったのだと思い知らされた。

 「学校ではわかったつもりになっていたけど、現地に行くとこちらのいうことも伝わらないし、向こうの言うこともわからないし、というのは本当に身に染みて感じましたね」

 日本の教室では、生徒が頑張って話したら、多少は不十分でも先生は汲み取って理解してくれた。現地で生活する人たち相手ではそうはいかない。言いたいことにあわせて適切な単語を選び、発音もはっきりさせないといけない。

 会話が通じる、理解できるなと手ごたえを感じられたのは、留学して三か月ほど経ってからだった。留学生寮での生活も、日本語をなるべく使わず、中国語でコミュニケーションするためにはよい環境だった。いくつかある寮の棟のうち、内山さんが選んだのは安くて二人部屋の三号楼。最初のルームメイトはアルメニア人、次はカメルーン人。隣の部屋は韓国人、その隣はボリビア人。世界中から学生が集まっており、みんな勉強中の中国語でしゃべって意思疎通をしていた。

 寮の仲間たちとは、勉強だけでなく一緒に料理するなどの時間も過ごした。寮の近くの市場に行き、生きている鶏を買う。すると店の人が、ぐつぐつ煮えたお湯が張ってあるドラム缶に、その鶏の脚をつかんで生きたまま突っ込む。すると、羽根が抜けやすくなる。それを持って帰り、寮の共同調理場で首を落として、料理する。なかなか強烈なエピソードだが、「あの時は結局鍋にしたんだっけ?」と内山さんはにこやかに語る。楽しい思い出になっていることが伝わってくる。日本で座学だけで学ぶのとは、体験も含めて違う手ごたえがあるのだろう。

 楽しい留学生活ではあったが、前回、前々回の滞在と同じようにやはり、中国の嫌な部分も味わった。留学してすぐの頃、内山さんは自転車を買った。店の人に鍵を二つ付けたほうがいいと助言され、その通りにした。しかし、一週間もしないうちにもう盗まれてしまった。続けて二台目を買ったのだが、それも一か月はもたなかった。三台目は、買わないことにした。


内山書店の入口


店内には上海時代の写真が飾られている


中国語の教材の棚はもちろん充実

(第2回につづく)

【お話を聞いた人】

内山深(うちやま・しん)
中国、アジアの専門書店、内山書店の代表取締役。
内山書店店舗情報:〒101-0051 東京都千代田区神田神保町1-15 TEL:03-3294-0671営業時間:火~土10:00-19:00 日11:00-18:00 月・祝休み
webサイトからの購入も可能 http://www.uchiyama-shoten.co.jp/

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