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連載インタビュー「外国語をめぐる書店」

フランス語専門オンライン書店 レシャピートル 榎本恵美さん(第1回)

 二〇二二年二月、創業七十五年の歴史を誇る書店が閉店した。フランス語書籍専門書店「欧明社」だ。戦後すぐ、東京大学仏文科の教授らの勧めで創業された欧明社は、飯田橋に本店を置き、フランス語学習の東京でのメッカともいえる東京日仏学院(アンスティチュ・フランセ)やアテネ・フランセにも店舗を構えた。日本のフランス語、フランス文化にとって重要な拠点であったことは、フランス政府から三つの勲章を授けられ、フランス出版協会からも日本で唯一の認定証を授与されたことからもわかる。

 日本のフランコフォンにとって重要な拠点が失われたことは確かだが、そのエッセンスを知る新しい場所が生まれたのは、よいニュースだ。二十年にわたり欧明社に勤め、選書を筆頭にした役割を担ってきた榎本恵美さんが、自身でフランス語書籍専門店をオンラインで開業したのだ。屋号は「レシャピートル」。フランス語で「シャ」はネコ、「ピートル」はおどけたという意味だ。フランス語がわかる人なら、本の章を表す「シャピートル」との掛け言葉になっていることに気づくだろう。

フランス語専門書店を立ち上げた榎本さんだが、「はじめはサルトルのHuis clos(『出口なし』)のお問い合わせに、「ユニクロですか?」と珍回答をしていました」というように、はじめから本のスペシャリストというわけではなかった。

 

お客さんに鍛えられて

 いまでこそ毎日の仕事でフランス語漬けの日々を送る榎本さんだが、実は語学面でははじめはまったくの劣等生だった。フランスの本や映画が好き、という程度の動機で、大学の第二外国語でフランス語を履修したのが学び始めだった。ただしやる気はほとんどなかった。「成績順に前から席が決まるクラスだったのですが、わたしは一番後ろ。本当にだめだめな学生でした」と振り返る。それでも、フランスの映画や本への憧れは強く、いつか留学したいという気持ちを徐々に募らせた。

 大学卒業後は、好きな本にかかわる仕事をしたいと出版社で働いた。五年ほどでお金が貯まると、夢だったフランス留学を叶えた。留学前に語学学校の夜のクラスに通ってはいたが、なかなか力はつかず、留学先でも下のレベルから始めた。一年の留学を終えて帰国した後、やはり本にまつわる仕事をと探しているとき、偶然に欧明社のアルバイトの求人を見つけた。フランスと本、どちらも自分が好きな分野だと応募し、採用された。働き始めた当時については「いろいろな業務がデジタル化していく変遷期で、もともといたスタッフでは対応できないところを任されまして、そのことで自分の居場所ができた感触もあって、楽しかったですね」と振り返る。

 アルバイトから始まり、気づけば二十年のキャリアを積んだ。本の仕入れ、フランスの出版社とのメールでのやりとりなど、この中で先輩たちに教わりながら実践的なフランス語の力を身につけていった。

 選書をするための知識はどうだろうか。榎本さんは大学でフランス文学を専攻したわけでもないので、先に書いたように働き始めはお客さんの問い合わせに答える知識もなかった。それが最後には、二万冊以上の本が並ぶ欧明社本店の棚の中で、どこになにが置いてあるか「AIレベルで把握できていた」と言えるほどに熟知していた。これは先輩社員からの教えもあるが、むしろ「お客様がわたしをここまで育ててくれた」ということである。

 榎本さんの中では、本は具体的なお客さんの顔と紐づけて記憶されている。プルーストの大作『失われた時を求めて』全編の朗読を収録した圧巻の百十一枚組のCDを、昼休みの度に来店して眺めていた老紳士は、クリスマスの日に「清水の舞台から飛び降りるよ」と笑顔で購入した。このCDをなんと数セットも購入した別のお客さんもいた。あるフランス人教授はフランスで最も権威のある文学賞「ゴンクール賞」の受賞作家は「大成しない」と豪語し、受賞作が並ぶ秋に必ず来店してくれた。少年のように目を輝かせながら、パトリック・モディアノのノーベル文学賞が決まるよりも前に、その文体の素晴らしさを教えてくれた教授もいた。ほかにも、モーパッサンの短編を収集する方、ヴェルレーヌの詩をアート作品とコラボレートする女性もいた。「フランス文学への多用なアプローチがあることを知り、お客様から話を聞いて知識を増やしていくことがとても楽しかった」という。これらの人々のエピソードを聞くだけでも、その楽しさが垣間見える。

 自分を育ててくれた店がなくなると聞かされたのは、榎本さんにとっても青天の霹靂で、同僚と肩を抱き合って泣いたという。今後自分はどうするか、なにができるのか。閉店の作業に追われる中で自問を繰り返していた。実は、面倒見のよい版元からは「うちに来ないか」という誘いももらった。しかし、榎本さんの頭からは「これからどこでフランス語書籍を買えばいいのか」という多くのお客さんの声が、そして顔が離れなかった。

もちろん、本自体を買うことは、ネット書店を利用すれば可能だし、洋書を取り扱う大型書店もある。だが、そういうところでは専門書や自分にあった語学教材はどのように選べばいいのか、アドバイスを得ることは難しい。フランス語書籍に精通したスタッフが選書し、それを勧めてくれる場を求める読者は必ずいるのだ。

「わたしは自分から何かを具体的に計画するような主体性はないタイプです。お客様の声があって、それに家族の後押しがあって、その流れに乗って財布と相談して、自分で店をやってみようかと」

 閉店のことを聞かされたのが六月。夏から開店のために必要なことを調べ始めた。口座の開設や税関の申告など、これまでの経験があるのでスムーズにできるかと思っていたが、やはり会社組織と個人事業主とでは勝手がちがう。お金のやりくりと合わせて、かなりの準備が必要になった。

 二〇二二年四月一日。いよいよ店を始めようと、フランスへの注文を出し始めた。ところがそこにロシアのウクライナ侵攻による航空便の減便、燃料費高騰に急激な円安が重なった。仕入れようと思った商品がなかなか届かない。結局、最初の四月分の注文が届いたのは七月七日の七夕だった。「この時期は本当に生きた心地がしなかったですね。このままお店をやっていけるのかと気持ちが落ち込みました。でも、自分にできることをやろう、自分で自分を励まして、コツコツとやろうと決めました」。いまは注文から納品までの流れが確立でき、スムーズに仕入れができるようになった。

自宅の一室で在庫を管理する

 

日本の読者にあわせた選書を

「レシャピートル」はいまのところ実店舗は持たず、webサイトで商品の販売を行っている。選書から本の紹介、受注、発送まで榎本さん一人で行っている。取り扱い商品は、少しずつ増やしていて現在五〇〇点ほど。ひとりで棚卸、在庫管理、販売、発送まで行うのでまだ仕入れたものの、販売の準備ができていないものもある。

日本の一般的な書店では、「出版取次」という卸売りの会社があり、自動的に新刊が書店に納品されるシステムがあるが、レシャピートルではこの方法はとっていない。取り扱う本はすべて榎本さんがセレクションしている。選書の基準はどうしているのだろうか。

「まずこれまでの経験でわかっているのが、フランスで売れたものがそのまま日本で売れることはないということです」との回答は少し意外だ。もちろんフランスのランキングなどは確認する。そのうえで榎本さんが重視するのは、本からお客様をまず思いつくかどうか。「プルーストの本であれば、あの人が興味があるかな、などと本と人との紐づけが思い浮かぶ本は売れるんですね。実際にはその人が買わなくても、SNSで紹介すると他のお客様が買ってくれることもあります」という。では顧客リストなど作っているかというと、それはしていない。あくまでお客さんとの具体的なやりとりを通して知った、その人ごとの関心のありどころをもとにしているらしい。榎本さんの頭の中にあるいわば「顧客AI」は、データではなくエピソードで構成されているのだ。

 オンライン書店なので、SNSでの発信が重要だ。榎本さんは注文して届いた本は真っ先に目を通す。そこで自分自身が面白いと感じたことを大切にして、商品紹介に反映する。「心の声をそのまま文字にしているだけ」と言うが、むしろその率直さが宣伝色を感じさせず、まっすぐに本の特徴や魅力を届けてくれるように感じる。

このプレゼンテーションはある種、悪魔的な魅力を持っている。というのは、「リピーターのお客さんからクレームがついちゃうんですよ。これ以上魅力的な本を入れないで、今月はもうお金がないんですって」と笑いながら明かしてくれた。

 日本とフランスの違いへの配慮は、好まれる内容にとどまらない。榎本さんが感じてきたのは日仏での本という商品やビジネスに対する文化、価値観の違いだという。

「日本人は本に対して潔癖さ、完璧さを求める方が少なくありません。ページが折れていたりするとダメージ品と思う方がいます。それが洋書で三千円や四千円払った本だとなるとなおさらです」

 これに対して、フランスでは本として読めればまったく問題ない、という意識だ。なので、クレームを入れても理解してもらえない。日本では商品としてなかなか受け入れられないという事情を細かに説明しなくてはいけない。

 ビジネスの面でいえば、日本と比べるとフランスは適当なところが多いのも悩まされるところだ。ヴァカンスなどで担当者の不在が多く、エラーも多い。たとえば注文した通りの数での入荷がない。そしてそれを先方に指摘しても「あら、そうだった? 本当だ」と謝ることもなく、何事もなかったかのように振舞われる。榎本さんは呆れつつも、これは能力や資質の問題ではなく、あくまで仕事に対する考え方、文化の違いなのだと理解しているという。つまり、そこでいちいち腹を立ててもしょうがないし、仕事は進まない。対処法として、「昨日も確認したけど、十冊注文したからね、と細かく伝えるわけです」いまでは自分から予防線を張るように心がけている。工夫して考えた解決策だろうが、榎本さんは「処世術」だと表現する。これは誰かが教えてくれるわけではなくて、自分で仕事をするなかでぶつかった問題で、文化の違いだからよいメソッドはもちろんない。そういう榎本さんの実感のこもった表現だろう。(第2回につづく)

【お話を聞いた人】

榎本恵美(えのもと・えみ)
フランス語専門オンライン書店「レシャピートル」書店主。フランス人夫、長男、長女、猫二匹と暮らしている。店名は「おどけたネコたち」とChapitre「(本の)章」のJeu de mots言葉遊びから。モットーは「わくわくするような遊び心のある書店」。

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