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加賀野井秀一「メルロ=ポンティを読む」

第7回 他者はどのようにして認識されるのか ─ 記号解読と幼児のほほえみ ─

 前回見てきたように、私であって私でない「身体」は、身体図式として皮膚表面をはるかに越えて広がりながら、私の知らないところで私を、そっとこの世に繫ぎとめていてくれる。私たちは、ともすると、「私」という主体がこの身体を所有していると考えがちだが、そうではない。メルロ=ポンティによれば、主体はむしろこの身体の方なのであって、私とはその身体につかのま実現される高い統合度の謂いであったのだ。

 こうした「身体」概念の変容は、近代思想に特徴的な「主(体)-客(体)」図式や、他者認識のアポリアを解く有力な思考法となるだろう。

 そもそも私とは何なのか。(日本式に)鼻の頭を指さしながら「私」と言おうと、(西洋式に)胸のあたりを示しながら「私」と言おうと、もちろん鼻や胸が私であるはずはない。ためしに(昔の刑罰のように)鼻をそぎ落し、(シャイロックが望んだように)胸の肉を切り取って並べてみれば、それはもはや私とは無縁の不気味な肉塊でしかないだろう。当然ながら、同じことは手についても足についても言えるわけで、結局、私とは、いわばそうした身体もしくは肉体の背後にいる「精神」とか「心」とかいうものだと考えざるを得なくなるのである。

 だがそうなると、とたんに、次々と問題が生じてくる。精神は身体に宿るとでも言うべきだろうが、はたしてどこに宿るのか。心臓に? 脳に? それとも全身にまんべんなく? さらにまた、精神が身体のような物質性をもたないとすれば、そんなものがどうやって身体に働きかけることができるのか? これこそ、デカルトがあの「われ惟うゆえにわれ在りJe pense donc je suis」の境地から心身二元論を打ち立てたために、その後、マールブランシュやスピノザが苦労して解くはめになった問題群にほかならない。

 そればかりではない。そんな形で心や体を考え始めると、にわかに「他者認識」の問題も頭をもたげてくることになるだろう。私はあなたを見る。だが、私はどうやってあなたが私と同じ一人の人間だと認識することができるのか。デカルトの「オートマトンautomate」の挿話のように、私はどのようにして、そこにいるあなたがコートを羽織った自動人形ではなく、心の宿った一人の人間であると分かるのか。考えれば考えるほど、一筋縄ではいかない問題になってくる。

 この時、私たちはおおよそ、それを一種の「記号解読」のプロセスとみなしているのではないだろうか。つまり、私には他人の身体しか見えないが、それでも私は、私自身が自分の感じているものを他人の身体の上に投影し、そこから彼の心をおしはかるのだと考えているのではないか。

 だとすれば、ここでは他者認識という問題が、四つの項を持った一つの系として立てられていることになる。まず第一に「私の心理作用」があり、第二に、私が触覚や体感によっていだく「私の身体像」もしくは「身体の内受容的イメージ」がある。そして第三に「私に見えているような他人の身体」があり、第四に、他人がその身体によって示す所作を通して、私が仮定したり想像したりする限りでの「他人の心理作用」があることになるわけだ。しかし、本当にそうだろうか。

 こうした考え方には、すぐさま不都合な事実があげられる。心理学者のポール・ギョームやアンリ・ヴァロンによれば、幼児は、自分に向けられたほほえみに対して、ごく早い時期から──髄鞘形成がなされる生後三か月よりも以前から──ほほえみ返すことがあるという。もしもこの時、幼児が自分に向けられたほほえみの意味を記号解読し、みずからそれに応答しようとしているのだとすれば、それは到底ありえないことになるだろう。

 生後三か月の幼児には、まだ自分自身の視覚像も完備していないし、筋肉的感覚や内受容的感覚とそうした視覚像との対応関係も定かではない。当然ながら、どう筋肉を緊張させればほほえみになるのか知るよしもない。ましてや、他人のほほえみが好意を示していることも、その好意を抱く精神なるものが他人の身体の背後にあることなども分かるはずはないのである。そこで私たちは、多くの場合、ほほえみの交歓を、むしろ偶然に符合した筋肉のひきつりに過ぎなかったとして、旧来の他者認識の発想に回収してしまおうとするわけだが、これが誤り。実は大前提となっている記号解釈による他者認識の方にこそ問題があり、まさしくそこに暗黙の誤った前提が横たわっているのだ、とメルロ=ポンティは喝破する。

古典期のあらゆる心理学者たちの暗黙の相互理解を支えていた一点は、次のことでした。つまり、心理作用とか心的なものとは、当人にのみ与えられているものだ・・・・・・・・・・・・・、ということです。(『眼と精神』所収「幼児の対人関係」p.129)

 彼はこれを「古典心理学の躓きの石」とするのだが、事はそこにとどまらない。ひょっとするとそれは近代哲学の全般に、いや、さらにはプラトニスムの全影響下に共通する躓きの石であったのかもしれず、どうやらメルロ=ポンティは、これを身体論の側面から突破しようと考えていたらしいのだ。だが、どのようにして?

 つまるところ、心理作用や心的なものを個々人の内に閉じ込めず、誰もが記号解釈なしに他者と交流し合えることを証明しなければならないわけだが、その手法についてはまた次回。今回はヘミングウェイ流に、ジョン・ダンの詩を引用して暗示するにとどめておこう。「何ぴとも一島嶼(しょ)にはあらず、何ぴともみずからにして全きはなし……」

◇初出=『ふらんす』2018年10月号

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著者略歴

  1. 加賀野井秀一(かがのい・しゅういち)

    中央大学教授。著書『メルロ=ポンティ 触発する思想』『猟奇博物館へようこそ』、監訳『メルロ=ポンティ哲学者事典』

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