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加賀野井秀一「メルロ=ポンティを読む」

第10回 知覚から言語へ ─ 二人の間に、偶然にも愛の言葉がもたらされたら ─

 ラカンの言う「鏡像段階stade du miroir」を経た幼児には、理想的・虚構的・想像的自我が出現し、以後、言語が大きく関わってくることになる──と、前回はおおよそ、そんなところにまで言及しておいたわけだが、それにしても、言語とは不思議な存在だ。

 定家のように「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮」と詠んでみれば、実際、そこにはもはや花も紅葉もありはしないのに、それらが髣髴(ほうふつ)とするだろう。あるいはまた、「一万角形」というものは、およそ思い描くこともできないのに、その意味は理解される。さらに、「四角い丸」なども言語矛盾でありながら、独自の効果をあげつらうことができるのである。

 いずれこうした言語の力が、私たちの「知覚」や「身体」が出会う森羅万象を越えたところで、あの幼児が新たに獲得した理想的・虚構的・想像的自我を支えることになるのは見易い道理であるだろう。言語が切り開くそんな新たな次元について、メルロ=ポンティは、すでに彼の知覚理論の真っただ中で、はっきりと言及していたのだった。

したがって実存は、自分自身の非=存在の経験的支えとして、パロール〔parole 言葉〕を創造するのである。パロールは、自然的存在に対する私たちの実存の過剰部分なのだ。だが、表現行為が言語的世界や文化的世界を構成し、〔自然的存在の〕彼方へ向かおうとしていたものを、再び存在へとつき戻す。そこから、手持ちの意味を既得の財産ででもあるかのように享受する〈語られたパロール〉も生まれてくる。こうした獲得物から出発して、他の真正な表現行為──作家や芸術家や哲学者の表現行為──が可能となるのである。(『知覚の現象学』所収「表現としての身体と言葉」)

 私たちは「自然的存在」を超過しており、言語はその「過剰部分」なのであって、言うならば、私たちの周囲にはW・H・オーデンが展開するような「第二の世界(セカンダリー・ワールド)」がしつらえられているのである。自然的存在としての山があり川があるように、そこには、既得の言語としての「山」があり「川」がある。なんならそれをソシュール流に既得の言語体系としての「ラング〔langue 言語〕」と呼ぶのもよろしかろう。私たちの身体が、自然の山や川のはざまで活動するように、私たちの非=存在を支える言語的身体とも言うべきパロールの表現行為が、「山」「川」のはざまで営まれる。私たちは「峨々たる山」に圧倒され、「山懐」に憩い、「川岸のベンチ」で談笑しながら、そうしたパロールの織りなす文化的世界を自然的世界の上に投影してもいるのである。

 すでにして「言語相対論」は、個々人が使用するラングによって世界が別様に切り取られることを示してきた。ニワトリの「コケコッコー」が「ココリコー」(フランス語)や「コッカドゥルルー」(英語)と聞き取られたり、虹の色が「四色」(ショナ語)や「二色」(バッサ語)に識別されたりするところから始まり、さらには、「蝶」も「蛾」もフランス語では「papillon」であったり、「水」も「湯」も英語では「water」であったりすることまで、色々と考察されてきた(もちろん必要に応じてフランス語にも英語にもpapillon de nuit やcold water があることは付言しておこう)。同じ風景を前にしても、使用している言語によって、人それぞれに異なる世界を見ているとは、何と面白い現象だろうか。とはいえ、これらすべては、すでに各国語の中で特化され、既得の体系をなしているラングの姿である。

 メルロ=ポンティが強調するのは、そこではない。彼が追究しようとしているのは、そうした「獲得物」としてのラングから出発し、パロール活動によって、それらに首尾一貫した変形を加え、個々の辞項を伸び縮みさせながら、未だ誰もが表現し得なかった意味を出現させ、定着させる「真正な表現行為」なのだ。

 たとえば、アンリ・ゲオンがモーツァルトの音楽をtristesse allante〔駆け抜ける悲しみ〕と表現した時、あるいは、ボードレールがAdieu, vive clarté de nos étés trop courts !〔さらば、短か過ぎし我らが夏の輝きよ〕といった一節を口ずさんだ時、はたまた、パスカルがLe silence éternel de ces espaces infinis mʼeffraie.〔これら無限の空間の永遠の沈黙は私を恐れさせる〕と書きつけた時、私たちの言語世界に、おそらくは、まったく新しい一つの存在が加わったのに違いない。

 こうした新たな表現の登場は、あたかも図形の中に補助線が引かれたかのようにして、別の次元を開くこととなり、当然ながらそれは、その後の私たちの新たな行為の始まりをも示すことになる。だからこそ、『パルムの僧院』の一節で、モスカ伯爵は、サン・セヴェリーナ夫人とファブリスとの間に、ある一つの言葉がもたらされることを、あれほどにも恐れたのではなかったか。

落ち着かねばならない。乱暴な態度をとると、虚栄心を傷つけられただけでも、公爵夫人は彼を追ってベルジラーテへ行ってしまうかもしれない。そしてそこで、もしくは旅の途中で、偶然にも一つの言葉がもたらされ、それがお互いに感じていることに名を与えるかもしれない。さてそうなったら、たちまち、とんでもない結果が生じることになるだろう。(スタンダール『パルムの僧院』第1 部第7 章)

 先の引用でさりげなく示されていたように、「作家や芸術家や哲学者の表現行為」も、まさにそのようなものでなければならない。メルロ=ポンティのそんな確信は、やがて彼自身の哲学用語をもまた、大きく変貌させてゆくのである。

◇初出=『ふらんす』2019年1月号

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著者略歴

  1. 加賀野井秀一(かがのい・しゅういち)

    中央大学教授。著書『メルロ=ポンティ 触発する思想』『猟奇博物館へようこそ』、監訳『メルロ=ポンティ哲学者事典』

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