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加賀野井秀一「メルロ=ポンティを読む」

第5回 「神の盲目」と「アリストテレスの錯覚」

 知覚は真理へのプロセスであり、哲学もまた途上にある。前回見たように、メルロ=ポンティとともに歩めば、当然そういうことになるのだが、ここにはまた、私たちが「身体」を持つという重要な事実も含意されている。

 私たちは、世界のただなかにあって、世界を知覚している。そしてそれは、いつも「ここから」なのであり、この「ここ」が、まずは私たちが世界内に投錨した地点としての身体を意識させてくれることになる。私は独自のパースペクティヴをとりながら、ここから世界を見る。さもなければ、そもそも世界が見えるということもありえない。

 たとえば、立方体は、等しい六つの正方形によって囲まれているわけだが、それをそのようなものとして「見る」ことはできない。角度によって、いずれかの面は背後に隠れたり、菱形や平行四辺形になったりするだろう。いや、遍在する神ならば、同時にあらゆる角度から見そなわす、などと言ってみても詮ないこと。同時にあらゆる角度から見られたものの像とは、はたしてどんな代物なのか。「見る」とは、もとより、どこか限定された場所から、これまた限定された物の側面を見るということではないのか。さもなければ、「山の稜線」も「リンゴの輪郭」も、すべては失われてしまうにちがいない。あえて言うならば、遍在する神は、むしろ盲目であることになるだろう。

 では、立方体とは、さまざまな角度を介し、さまざまな地点から眺められた断片的な像を、事後的に知性が総合したものだ、とでも言うべきだろうか。だがそうなれば、これら断片的な像が、ただ一つの同じ立方体の諸側面であることを、いったい何が保証してくれるというのか云々、と、面倒な議論はこの程度にしておきたいが、実は、こうした知覚の成立根拠や対象物の同一性を担保してくれるのも、やはり前回見た知覚の「図-地」構造なのである。この「図-地」の反転や推移の連続性が、言わば世界が成立する根拠となっており、それを大元のところで支えているのが身体なのだ、とメルロ=ポンティは考える。

 もっとも、この身体をすぐさま日常的な「切れば血の出るこの体」といったところに矮小化させないためには、幼いころ誰もが戯れたことのあるあの「アリストテレスの錯覚」と呼ばれる体験を思い出していただきたい。そう、たとえば食指と中指とを交差させ、間に鉛筆を1本置くと、それが2本あるかのように感じられるというあの体験である。他愛ない遊びではあるけれど、よくよく考えてみれば意味深長。これは、私たちの身体と世界とが表裏の関係にあり、前者の混乱がそのまま後者の混乱をひき起こすのだという事実のまぎれもない証左となっている。つまり、私たちの通常の身体の構えでは、食指の親指側と中指の薬指側とが協働することはなく、そんな状況を無理やり作れば、世界もまたおかしな二重化をこうむってしまうというわけだ。 いかがだろうか、こうしてみると世界は、独自に組織化された身体の裏面として成立しているということになるだろう。メルロ=ポンティはこの身体の組織化を、一つの「体系(システム)」もしくは一つの「図式(シェマ)」のようなものと考え、心理学者ヘンリー・ヘッドやパウル・シルダーらの表現を借りて「身体図式schéma corporel」と名づけている。

 身体図式とは、まずは自己身体の構えについての包括的な自覚である。私たちは蚊にさされても、それが右腕の先から何センチの所などと定位する必要もなく、即座にたたいたり搔いたりすることができる。あるいはまた、卓上のグラスを取る際にも、椅子の背にもたれたまま腕をのばして取ることも、体を前傾させて取ることも、意識せずして自在にできる。つまり身体は、一つの体系のように、瞬時に、ある身体部位の運動を他の部位の運動に翻訳したり、ある感覚を他の感覚に置き換えたりすることができるのである。アリストテレスの錯覚とは、結局、この身体図式の狂いで生じるものにほかならない。

外的知覚と身体の知覚とは一緒に変化するが、それというのも、両者は同一の作用の二つの面だからである。[…]アリストテレスの錯覚はまずもって身体図式の障害なのだ。 (『知覚の現象学』Ⅱ, p.6)

 こうして、知覚する私は「身体」という座を持ち、この座が限定されているがゆえに、かえって世界を「見えるもの」にしていること、また、その身体は独自に組織化されて「身体図式」をなしており、この身体図式のおかげで、世界もまたこのような安定した姿を見せているということが、ともに理解されるようになるだろう。つまるところ、私の身体は世界の内にありながら、世界は身体によって裏打ちされているのである。

 メルロ=ポンティはここから、その「身体図式」がもたらす豊かな哲学的意味を展開していくのだが、それについては、また次回。

◇初出=『ふらんす』2018年8月号

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著者略歴

  1. 加賀野井秀一(かがのい・しゅういち)

    中央大学教授。著書『メルロ=ポンティ 触発する思想』『猟奇博物館へようこそ』、監訳『メルロ=ポンティ哲学者事典』

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