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加賀野井秀一「メルロ=ポンティを読む」

第8回 あなたの痛みで私は泣いていた ─ 他者と癒合的社会性をめぐって ─

 私はあなたを見る。だが、私はどうやってあなたが私と同じ一人の人間だと認識することができるのか?

 デカルトの「オートマトン」の挿話から、サルトルの「地獄」としての他人、あるいはレヴィナスの「顔」としての他者に至るまで、「他者認識」の問題は、解き難い謎として哲学者たちに課せられてきた。これを記号解読のプロセスと見る限り、解明はもはや絶望的であることは前稿で触れたとおり。ではさて、メルロ=ポンティは、どんな方策を採るのだろうか。

 1949年、彼はリヨン大学を辞し、パリ大学文学部(ソルボンヌ)の助教授として迎えられることになるのだが、何とそれは、児童心理学および教育心理学のポストだった。当時のフランスでは哲学のステイタスが高く、心理学者が哲学を教えることはできないが、哲学者は心理学を教えられたのである。当然ながら、この人選には心理学者たちも心おだやかならず、どうせ講壇哲学者が、事情に疎い荒唐無稽な説を展開するのだろうと、シニカルに構えていたふしもあるが、いざメルロ=ポンティの講義が始まってみると、誰もがその内容に魅了されてしまったという。

 この講義には、ピアジェにワロン、ギョームにメイリと、当時、最先端にあった研究者たちの成果が盛り込まれ、おかげで、心理学者も溜飲を下げたようだが、この機会はまた、メルロ=ポンティにとっても僥倖となる。他者認識の問題に、ワロンの研究成果が思いもかけぬ光を投げかけてくれたのだ。

 児童心理学においては現在もなお、ピアジェJean Piaget とワロンHenri Wallon は、その基本姿勢の二大典型と目されている。簡単に言ってしまえば、ピアジェは、自己中心性の中で孤立していた幼児が、コミュニケーション能力の発達に応じて周囲に開かれていくという立場をとり、ワロンは反対に、自他未分化の状態を生きていた幼児が、次第に自他のしきりを発見していくという立場をとっている。心理作用が当人にのみ与えられていると考えがちな私たちの常識からすれば、当然ピアジェの立場が優勢になりそうだが、これはやはり、他者認識の難問を抱え込むことになるだろう。

 ワロンによれば、そうではない。幼児の知覚は、まずは内受容的なところから始まる。外界に関わるすべての知覚は、まだ萌芽的なものに過ぎず、幼児の世界はせいぜい「口腔的」なものあたりから探索され始めると言ってもいいだろう。つまり、口によって含まれたり探られたりする空間が、幼児にとってはぎりぎりの世界なのである。この世界は、果たして幼児の内にあるのか、外にあるのか。ワロンはこれを「呼吸的」身体とも呼んでいる。

 やがて神経接続が進み、髄鞘形成が行なわれるようになるにつれて、幼児にはだんだんと知覚が芽生え、世界は次第に広がりを見せてくる。もちろん、体位の平衡も知覚には欠かせない。世界の統一的な現われと身体図式の統一とは表裏の関係にあり、体位の平衡がとれなければ、その裏側の知覚も満足になされるはずはないからである(8月号の本連載第5回目で触れた「アリストテレスの錯覚」を思い出していただきたい)。

 このようにして幼児は、自律した「私」として意識的に世界との関係を取り結ぶはるか以前から、匿名の私として、その身体図式を整えながら、世界に住みつき、世界を世界たらしめつつ、すでに決定的な形で世界に関わっている。身体図式の未整備な私は、まだ統一的な意識によって住まわれてはいないし、この皮膚内に閉じ込められてもいない。おかげで、幼児はやすやすと他人の生を生きたり、同時に複数の存在であったりすることができるのだ。他の子供の傷口を見ながら、それを自分の痛みと感じて泣いてしまったり、自分が幾人もの人間になって互いに話をしてみたり、事例をあげればきりがない。幼年期は、まずはこうした自他未分化の状態から始まるわけだが、ワロンはこれを称して「癒合的社会性sociabilité syncrétique」と呼ぶ。

 したがって、この立場をとるならば、問題は、もはやデカルト流の「あの皮袋に閉じ込められたオートマトンが、いかにして心理作用によって住まわれていると判断するのか」ではなくて、むしろ「心理作用が、いかにしてこの皮袋やあの皮袋に閉じ込められていると感じられるに至るのか」ということになるだろう。つまりメルロ=ポンティは、ちょうどベルクソンが、物質にイマージュを付加するのではなく、物質をイマージュ総体からの縮減として引き出そうとしたように、自我に他者を付加するのではなく、自他未分化の総体から両者を分割しようとするのである。まさにコペルニクス的転換!

 ともあれ、やがて幼児にも、みずからの孤独と出会うべき時が訪れる。

最初、幼児は、誰もが互いに孤立し合っていることなど思ってもみなかったのですが、自分自身の身体の客観化が、彼に、自分が他人と異なるものであり、「島国のようになっていること」を教え、それに対応して他人もまたそうであることを教えてくれるわけです。(『眼と精神』所収「幼児の対人関係」p.137)

 では、この身体の客観化が進み、幼児が孤独と出会わねばならなくなる時はどのようにして訪れるのか。それを知るためにも、次回は少しく、あのパリ・フロイト派精神分析学の創始者、ジャック・ラカンに登場してもらうことにしよう。

◇初出=『ふらんす』2018年11月号

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著者略歴

  1. 加賀野井秀一(かがのい・しゅういち)

    中央大学教授。著書『メルロ=ポンティ 触発する思想』『猟奇博物館へようこそ』、監訳『メルロ=ポンティ哲学者事典』

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