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加賀野井秀一「メルロ=ポンティを読む」

第4回 「幽霊の正体見たり、枯れ尾花」

 前回は、メルロ=ポンティが哲学の根拠を「知覚」の上に置いたこと、また、その知覚の対象が「図(ず)-地(じ)」関係のゲシュタルト(形態)として現われることなどお話ししてきたが、その後、ある読者からご質問をいただいた。

 それによると、知覚は、デカルトの指摘を待つまでもなく「幽霊の正体見たり、枯れ尾花」というほど誤りやすいもの。そんなところに根拠を置くのはいかがなものか。あるいは、知覚対象は「地の上の図」として現われ、「すでに一つの意味を担っている」ということだったが、私たちには、ぼんやりした「五里霧中」の風景や「何だか判然としないもの」などが与えられることもある。そもそも、そこに精神分析的な「無意識」などが関わってくれば、図が図として成り立たなかったり、図の意味が一義的でなかったりすることもありはしないか、等々。なるほど、的を射たご質問。それならばというわけで、今回はひとつ、知覚をめぐる興味深いトピックから始め、少しばかりメルロ=ポンティの理論を展開しながら、斜めからご質問にお答えしてみよう。

 彼は、例えば視覚について、いかにも彼らしい口調でこんなことを語っている。

視野champ visuel の周辺にある領域は容易に記述しがたいものだが、しかし、それが黒でも灰色でもないことは確かである。つまり、そこには「未決定の視像」、「何だか分からないものの視像」があり、極端に言えば〔その境界を越えれば〕、私の背後にあるものでも視覚的に現前していないわけではないのである。(『知覚の現象学』Ⅰ, 33)

 そう、もっと極端に言えば、私たちは「背後も見ている」ことになる。ここで前回の理屈を思い出していただきたいのだが、知覚の「図-地」構造において、私が友人の顔を「図」として捉えている時には、彼の体も、二人の間に置かれたテーブルも、その顔から遠ざかるにつれ、次第に曖昧化する「地」として眠り込んでいた。だが、ひとたび私がテーブル上のワイングラスに目を注ぐと、今度は、突如としてグラスが精彩を帯び、その他のものが眠り込む。全てはそんなぐあいに推移していたのである。ここから私の視覚をズームアウトさせ、全体を満遍なく眺めるようにすれば、おおよそこれが視野というものになるだろう。だが、この視野も、さらにその周辺、さらにその外側へと「地」を連ね、それはついに私の背後にまで広がっているというわけだ。

 こうした「図-地」構造の推移こそが、「私の背後にあるものでも視覚的に現前」させ、ひいては、私たちが堅固な世界の内にいることを確信させるのであって、ここに障害が起こると、「自分の背後で世界がまだそこに在るかどうかを見るために」(同書63)後をふり返るヒステリー患者が現われることにもなってくる。

 もうお分かりだろうが、こうした知覚において、図と地はつねに転換可能であり、図はどれほど鮮明でも曖昧でもかまわず、「霧中」の風景はぼんやりしたものとして、「何だか判然としないもの」もまたそのようなものとして、ひとまとまりになっており、それが下意識のものであろうが、無意識のものであろうが、はたまた多義的なものであろうが、いっこうにかまわないのである。図は曖昧なままに留まっていることもあるし、お望みとあれば、この図の細部を新たに図として浮き上がらせ、とめどなく精密化してゆくこともできるだろう。その際、それがどの程度まで精密化されるかは、当の知覚が、対象の持つどんな意味をどこまで追求するかにかかっている。通常、私たちは親しい人の顔を瞬時に識別し、その表情を一挙に理解しているが、いざ、その顔の造作がどのような配置になっているのか問われると答に窮してしまうのではあるまいか。それが旧知の美容師さんならば、眉の形状や唇の色まで、見事に指摘するにちがいない。これこそまさに、顔という図が担う意味の種々相や多義性を表わすものであるだろう。

 さらにまた、この知覚のプロセスでは、たしかに「枯れ尾花」を「幽霊」に見誤ることもあるだろうが、それですら必ずしも凶兆とは限るまい。なぜだろうか。ここでもまたメルロ=ポンティは、彼一流の語り口で、こんなふうに説明する。

私たちが錯覚について語るからには、私たちはすでに錯覚を錯覚として認めていたはずであり、また、私たちがそうすることができたのは、ただ、その同じ瞬間に真なるものとcomme vrai 証明されるような何らかの知覚の名においてのみであり、したがって、懐疑とか誤謬を犯す懸念とかは、同時に誤謬を誤謬として暴露する能力が私たちにあることを確言するものであって、私たちを根本的に真理からde la vérité ひき離してしまうものではあり得ないわけだろう。私たちは〔はじめからすでに〕真理のなかに居るのであり、〔私たちの持つ〕明証性がそのまま「真理体験」なのだ。知覚の本質を求めるとは、知覚というものはあたまから真なるものと前提されるようなものではなく、ただ私たちにとって真理への接近として定義づけられるものだと、こう宣言することである。 (『知覚の現象学』Ⅰ, 17)

 いかがだろうか。つまるところ、知覚はプロセスであり「真理への接近」なのであって、そうだとすれば、知覚に根拠を置くメルロ=ポンティの哲学もまた、常に更新されてゆく「途上の」哲学であるということになるだろう。知覚は一瞬たりとも休むことがなく、思考はまるで生まれたての状態でしか存在し得ないかのように歩みを進めてゆく。「哲学とは、自分自身の端緒のつねに更新されてゆく経験である」(同書13)というメルロ=ポンティの有名な言葉は、彼自身の哲学を凝縮したものとしても、けだし至言であるだろう。

◇初出=『ふらんす』2018年7月号

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著者略歴

  1. 加賀野井秀一(かがのい・しゅういち)

    中央大学教授。著書『メルロ=ポンティ 触発する思想』『猟奇博物館へようこそ』、監訳『メルロ=ポンティ哲学者事典』

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