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加賀野井秀一「メルロ=ポンティを読む」

第6回 アヴェ・ヴェルム・コルプス ─ 演奏家と身体と眠り ─

 身体はこの世界への私たちの投錨点であり、世界は身体によって裏打ちされている。前回はそんなことをお話ししながら、メルロ=ポンティの知覚理論から身体論へと橋渡しをしてきたが、今回はこの「身体」に焦点を合わせ、じっくり考えてみることにしよう。

 私たちの身体が「切れば血の出るこの体」にはとどまらず、独自に組織化されて「身体図式」をなしていることはすでに見たけれど、さらにこの図式が、私たちの皮膚表面をはるかに越えて広がっていることも確認しておかねばならない。

 眉間のあたりに何かを近づけると、たとえそれが皮膚に触れなくても、眉間の奥に一種いやな感覚が生じるのは誰もが経験するところだろう。また、車で狭いゲートを通る時など、私たちは思わず肩をすぼめ、車体の部分にまで身体を拡張しているのではないだろうか。いや、それを言うならば、むしろ盲人の使う杖を引き合いに出すのが適切かもしれない。メルロ=ポンティはこう言っていた。

杖が親しい道具になってしまうと、その人にとって触覚的対象の世界は遠くから始まるようになり、つまり、手の表皮から始まるのでなく、杖の先端から始まることになるわけだ。〔…〕杖はもはや盲人の知覚する対象ではなく、盲人がそれでもってavec lequel 知覚する道具である。それは身体の付属物であり、身体的綜合の延長なのである。 (『知覚の現象学』Ⅰ , p.253)

 そんな感じで身体図式は皮膚表面を越えて広がり、道具をもその一部に組み込んでしまう。確かに私たちは幼少時から、日常的な手足の使用法を越えて、さらに速く走ったり高く跳んだりする能力を磨き、ダンスや武術の所作を会得し、ピアノやパソコンのキーボード操作に習熟することによって、身体図式を常に新たに拡張してきた。もちろんそこには、病気や加齢による負の変化もあるだろうが、とにかく私たちは、日々、新たな身体図式の組み換えを行なってきたのである。

 こうして、すでに確立され習慣化した身体を、メルロ=ポンティは「習慣的身体corps habituel」もしくは「客観的身体corps objectif」と呼び、さらに新たな組み換えを行ないつつある身体を「現勢的身体corps actuel」もしくは「現象的身体corps phénoménal」と呼んでいる。当然ながら、現勢的身体は習慣的身体の地盤の上に生じてくるのである。

 その際、これらの身体図式がどの程度にまで整備されているかによって、個々の身体の統合度の高さを語ることもできるだろう。たとえば、一人のチェリストが晴れの舞台に立つ場合、彼の全身全霊はひとえに演奏へと傾けられており、身体の統合度は最高レベルに達しているにちがいない。少々、頭が痛かろうが、高血圧のリスクがあろうが、そんなことはどうでもいい。今や演奏家はチェロと一体化し、その行為は、ある種の生命的無頓着とでもいうべきもので満たされ、彼はすべてを賭して、ひたすら高度な「精神」の世界をさまようことができるのである。

 ところが、演奏会が終わると、とたんにこの統合度は緩和され、再び頭痛も感じられるようになるだろう。やがて彼は、自宅に帰ろうとして立ち上がり、ふと脳卒中に見舞われる。こうして病院のベッドに横たわることになった彼の統合度はますます低減し、ついに彼は、生命の維持にのみ執着し、呼吸するだけの「身体」になってしまう。

 さらに、不幸にもこれが彼の致命傷となれば、呼吸も止まり、脈は絶え、とうとうこの生命体は一塊の「物質」と化することになるわけだ。

 いかがだろう。こんなふうに考えてみると、いわゆる「精神」「身体」「物質」といったものも、メルロ=ポンティの言う「身体」の統合度という側面から、ひとしなみに捉え返せるのではないだろうか。日頃、私たちは、「精神が身体を統御する」とか「精神一到何事か成らざらん」などと強がってみたりもするのだが、メルロ=ポンティによれば、結局、精神は身体によって支えられているのであり、むしろ精神とは統合度の高められた身体の謂いなのである。

 そんなわけで、私たちの意志や意識の極限は、いつも身体の内懐に救い取られている。プルーストの一節をも連想させるような「眠り」についてのメルロ=ポンティの記述は、端的にこのことを物語っているだろう。

睡眠に際し、私はベッドに左向きに横たわり、膝を曲げ、眼を閉じ、ゆるやかに呼吸し、さまざまな企てを自分から遠ざける。ところが、私の意志や意識の力がおよぶのは、そこまでである。あたかもディオニュソスの密儀で、信者たちがディオニュソスの生活場面をまねることによってこの神を招来させるかのように、私は睡眠者の息づかいやその姿勢を模倣することによって睡眠の訪れを呼び寄せる。〔…〕私は、もはや五官の無記名な覚醒状態によってしか世界に属していない、まなざしもなければほとんど思考もないあの肉塊にまでなってしまうのに成功するわけだ。〔…〕おそらくは、この最後の絆によって覚醒というものが可能となり、半ば開かれたこうした門戸によって、事物が睡眠者の中に再び入り、睡眠者は世界へと立ち戻ってくるのである。 (『知覚の現象学』Ⅰ , pp.270-271)

 そう、身体は私であって私でなく、この「五官の無記名な覚醒状態によって」私の知らぬところで私をこの世に繫ぎ止め、再び真の覚醒をもたらしてくれるのだ。何たる恩寵、何たる至福。

 身体をたたえよ!モーツアルトの「アヴェ・ヴェルム・コルプスAve verum corpus」とともに。

◇初出=『ふらんす』2018年9月号

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著者略歴

  1. 加賀野井秀一(かがのい・しゅういち)

    中央大学教授。著書『メルロ=ポンティ 触発する思想』『猟奇博物館へようこそ』、監訳『メルロ=ポンティ哲学者事典』

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