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加賀野井秀一「メルロ=ポンティを読む」

第12回(最終回) 「我、アルカディアにもあり」 ─ メルロ=ポンティのノスタルジックな優しさ ─

 個々の哲学者によって構築された記号の組織体においては、構成要素のひとつひとつが、百の文字盤上の百の指針のように、彼の体系に従って同一の偏倚を示しており、その偏倚の総体が哲学者のスタイルとなる。前回は、おおよそそんなところに言及していたわけだが、さて、いよいよ連載も最終回。そろそろメルロ=ポンティに特有のさらに密やかなスタイルについて語り、その魅力をお話しすべき頃合いであるだろう。

 メルロ=ポンティの行論は、理路整然。明晰かつ緻密にして、哲学的側面からは取り立ててあげつらうことはない。ただ、面白いことに、随所にひどく具体的な情景が挿入され、それが私たちを、抽象的な思考から常に現実世界へと引き戻す仕掛けになっているのである。これは拙著『メルロ=ポンティ 触発する思想』(白水社)でも触れておいたことだが、たとえば彼は、ウィーン学派の思考を批判し、フッサールの説く「事物そのものへ(ツー・デン・ザッヘン・ゼルブスト)」とたち帰ろうとする時にも、一方では、ひたすら抽象的な議論を進めながら、同時に、読者をその幼年時代の山野へと誘い、具体的な世界の只中に解き放ちながら説得してしまうのだ。

事物そのものへとたち帰るとは、認識がいつもそれについて語っているあの認識以前の世界へとたち帰ることであって、一切の科学的規定は、この世界に対しては抽象的・記号的・従属的でしかなく、それはあたかも、森とか草原とか川とかがどういうものであるかを私たちに初めて教えてくれた風景に対して、地理学がそうであるのと同じことである。(『知覚の現象学』Ⅰ , p.4)

 あるいはまた、そこにきわめて示唆的な一節が挿入されることもあり、これが私たちに、ふと人生の何たるかを考えさせるよすがにもなってくる。

作家が、絵画や画家のことを考える場合、彼はいくらか、作家に対する読者のような位置を、その場にいない女性のことを考える恋人のような位置を占めている。私たちは、作品をもとにして作家を思い描くわけだし、恋人は、不在の女性を、彼女が最も混じり気のない形で自分を表わしているようないくつかの言葉や態度のうちに要約している。彼女に再会すると、彼は、スタンダールのあの有名な「なんだ、これだけのことか」という科白をくり返したくなるのである。作家と近づきになった場合、私たちは、その作家の[…]本質や、疵ひとつない言葉を、眼前の彼の中に常には見出せないからと言って、愚かにもがっかりしたりするのである。何だ、この人は、こんなことに時間を使っているのか? こんなひどい家に住んでいるのか? これが彼の友人たちでこれが生活を共にしている女性なのか?[…]─だが、これらはみな、夢想に過ぎない。それどころか、羨望や秘められた憎悪に過ぎない。超人などいはしないし、人間としての生をおくる必要のないような人間もいはしないこと、愛する女性や作家や画家の秘密は、その経験的な生活を超えた何かの中にはなく、その平凡な経験とすっかり混じり合っているということ 、それらを理解した後に、初めて人は適切な場所に立って感嘆に身を委せることができるのだ。(『シーニュ』Ⅰ , p.87)

 いささか引用が長くなってしまったが、味読していただければ、私の地の文などなくもがな。おかげで、この私は、メルロ=ポンティの享年を過ぎたら、ことごとく彼の書物を捨て去って、たった一人で旅に出ようと考えていたのだが、こうした彼の片言からも離れ難く、馬齢を重ねた今になっても、なおこの決意が果たせない。そして、その忸怩(じくじ)たる思いとともに去来するのも、また彼の一節なのである。

青年は、「あり得べき者」であったとき、多くのことをなしたのであり、いつまでもそこにいる成熟した人間の方は、何もしなかったように見えるのだ。創造する信念が私の内で涸れているがゆえに、現実が記憶の中でしか形作られないがゆえに、私が充実を見出すのは、幼年時代の事物の内においてであり、また失われた友人の内においてである。(同書p.38)

 珍しく回顧的(レトロスペクティヴ)になったメルロ=ポンティの視線の先に、もう一つ連想されるのは、彼自身によって区分されたあの「青年である二つの仕方」でもあるだろう。彼は、サルトルとニザンとの思索のコントラストをこんなふうに特徴づけていた。

この事実は、青年である二つの仕方があり、両者は相手を容易には理解し得ないということを物語っている。まず、幼年時代によって魅惑されたある種の人々がいる。幼年時代が取り憑き、特権的なさまざまな可能性の次元において、彼らを魔法にかけたままにしておくのだ。また、幼年時代によって、大人の生活の方へ投げ出された別種の人間がいる。彼らは、自分には過去がなく、あらゆる可能性のすぐそばにいると思っている。サルトルは後者の人間に属していたので、彼の友人となることは容易ではなかった。(同書p.35)

 こうして私たちは、ようやく気づくことになるのだが、メルロ=ポンティの論述には明らかに一種の失楽園的なスタイルが顔を覗かせている。そのためか、彼の思索のプロセスには、しばしば過去の具体的な情景がフラッシュバックのように回帰してくるのだろうし、同時に、復楽園を断念し、大人の諦観に至ろうとする試みからは、あの示唆的な物言いが生じてもくるのだろう。モーツァルトの音楽が「駆け抜ける悲しみ」であるならば、メルロ=ポンティの思想は、さしずめ「ノスタルジックな優しさ」とでも言うべきか。おそらく読者諸兄姉も、ひとたびこの優しさに搦め取られてしまうと、そこから抜け出すのは至難の業となるだろう。

◇初出=『ふらんす』2019年3月号

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著者略歴

  1. 加賀野井秀一(かがのい・しゅういち)

    中央大学教授。著書『メルロ=ポンティ 触発する思想』『猟奇博物館へようこそ』、監訳『メルロ=ポンティ哲学者事典』

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