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加賀野井秀一「メルロ=ポンティを読む」

第1回 多摩都市モノレールと「ああそうか体験」

 昨年来、私たちが『メルロ=ポンティ哲学者事典』(白水社)全4巻をさみだれ式に刊行してきたところに、折よく、法政大学出版局からも『メルロ=ポンティ読本』が公刊される運びとなり、久々にメルロ=ポンティ・ブームが再来したかの感がある。それにしてもこの哲学者、わざわざ私たちが音頭をとらなくても、常にかなりのファンがいて、深く静かに読み継がれているらしい。それも思いがけぬジャンルにまで広がって……。

 すでにメルロ=ポンティの心酔者とおぼしきわが友人には、哲学者、文学者はもとより、画家あり、ダンサーあり、身体施術者ありだったが、ここしばらくは、精神分析家、心療内科の医師、看護師といった方々の間に、彼の身体論が広く浸透するようになってきている。先日も私は、その身体論を参考にしてドクター論文を書いたという若き体育の先生と一献傾け、脱領域のおしゃべりを楽しんだものだった。

 でもなぜ、これほどまでにメルロ=ポンティの思想は、私たちの心を捉えて離さないのか。その問いに対する一つの答えとして、かつて私は拙著『メルロ=ポンティ 触発する思想』(白水社)を上梓し、そこで森有正さんの示唆的な言葉(「いいですね、あの人のものは、何というか、こう、私たちの心を開いてくれる……」)を借りて、彼の思想が持つ類い稀なる「触発力」に注目した。

 そこで論じた事柄には、未だに寸分違(たが)うところはないのだが、今回は、これをさらに敷衍し、やや個人的な好みをも交えながら、彼の魅力に迫ってみたいと考えている。

 まずは、きわめて卑近な私の体験談から始めよう。ある日私は、八王子キャンパス(中央大学)での授業に向け、多摩都市モノレールの最後部に乗ってぼんやりと後方の車窓を眺めているうちに、何やら不思議な感覚に襲われてしまった。駅に着くたびにアナウンスが響き、人々があわただしく乗降すると、やがて車両は静かに次の駅に向かう。それにつれ、今しがた喧噪に包まれていた「この駅」は、次第に後方に遠ざかり、やがて「あの駅」となって、ついには彼方に消え去っていく。

 これは果たして「ここ」が「あそこ」になる空間移動の問題なのか、それとも「いま」が「さっき」になる時間推移の問題なのか。いや、そもそも、このありありとした「ここ」や「いま」が、あのぼんやりした「あそこ」や「さっき」になり、さらには「なくなってしまう」とはどういうことなのか……とりとめもなくそんなことを考えながら、私の脳裡には、ふと、メルロ=ポンティの一節が浮かび上がってきた。

「同時性simultanéité ということが言われるとき、それは時間temps を意味するものなのか、空間espace を意味するものなのか? 私から地平線に走るこの線は、私のまなざしの動きを運ぶレールである。地平線に建つその家は、過ぎ去った物として、あるいは望まれた物として燦然と輝いている。逆に私の過去にも、それ自体の空間と、道筋と、特定の名を持つ土地と、記念碑とが場を占めている。継起的なものと同時的なものとが交叉しながらもはっきりと区別される秩序のもとに、また、一列ずつ付け加わってくる共時態の連なりのもとに、名のない網状組織が、空間的時間や点的出来事の配置が、見出される……」(『シーニュ』序)

 そうだ、あそこで語られていたのは、まさにこういうことだったのだ、と咄嗟に私は了解した。ことほどさように、メルロ=ポンティの表現には少なからずこうした「ああそうか体験Aha-Erlebnis〔フランス語だとexpérience-eurêka かな〕」を誘発する側面があり、それはとりもなおさず彼の哲学が、一方では、私たち凡俗の徒と同じ日々の生活に裏打ちされていることの証左になるとともに、他方では、こうした彼の一節が、「腑に落ちる」まで私たちの内であてどなく漂い続けられるだけの印象的なスタイルを持っていることの証左ともなるのである。

 時空間の交叉について語るこの箇所においても、彼の表現は、私の散文的な記述などとは一線を画しており、その手にかかると「地平線に建つ家la maison à lʼhorizon」が、どこかポエティックに、彼方で「燦然と輝いてluit solennellement」いたり、「私の過去mon passé」が、どこかノスタルジックに、「特定の名を持つ土地ses lieuxdits」や「記念碑ses monuments」を想起させたりするのである。さすがに「哲学とは、世界を見ることを学び直すことである」(『知覚の現象学』序)と言ってのける哲学者の面目躍如というべきか。

 ともあれ、そうした微妙なニュアンスが、彼の緻密な行論のそこかしこにちりばめられているとすれば、私たちはひたすら論理の結構を追っているつもりでいながら、その実、同時にサブリミナル効果のようにして、彼のこの独自のスタイルを享受していることにもなるだろう。あたかもそれは、プルーストの読者たちが『失われた時を求めて』の「眠り」の場面や「マドレーヌ菓子」の場面で既視体験を重ね、やがてすっかり彼の魅力に取り憑かれてしまうようなものなのだ。つまるところ、メルロ=ポンティを好むとは、その思想内容とともに、こうしたポエティックでノスタルジックな彼のスタイルにも共鳴するということであり、そんな彼の文章を読むとは、それらすべてを含んだ彼の世界への関わり方を、行間にまるごと読み込んでいくことに他ならない。次回は、まず、そのメルロ=ポンティの根本的なスタイルに焦点をあててみよう。

◇初出=『ふらんす』2018年4月号

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著者略歴

  1. 加賀野井秀一(かがのい・しゅういち)

    中央大学教授。著書『メルロ=ポンティ 触発する思想』『猟奇博物館へようこそ』、監訳『メルロ=ポンティ哲学者事典』

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