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加賀野井秀一「メルロ=ポンティを読む」

第9回 メルロ=ポンティとジャック・ラカン ─ 鏡像段階をめぐって ─

 幼児が自他未分化の「癒合的社会性」を生きているところから、どのようにして自己と他者との境界線が引かれるようになるのか?──これが前回から持ち越されている問いだったが、その契機となるのは「鏡像段階stade du miroir」。発想の源はジャック・ラカンに負っている。

 ラカンといえば構造主義者の一人にも数えられるが、むしろ大切なのは、パリ・フロイト派を旗揚げし、それをコーズ・フロイディエンヌ学派にまで牽引していったカリスマ精神分析家としての側面であるだろう。奇矯な振る舞いを見せたさまざまな逸話も残っているけれど、どうしてなかなか、メルロ=ポンティ逝去の知らせを受けた時など、しごくまっとうに涙を流し、彼のセミネールでも弔辞を述べている。それもそのはず、彼らは、かなり親密な友人同士だったようで、二人それぞれの娘たちも、一緒にヴァカンスに出かけるほど仲が良かったという。

 そんな仲もあってだろうか、メルロ=ポンティは、ラカンの全業績の中でも最上位に置かれるべき作品の一つ、「〈私〉機能を形成するものとしての鏡像段階」に世間にはるかに先駆けて目をつけ、さらに掘り下げ、これをワロンの言う癒合的社会性を乗り越えるための契機としたのである。

 ところで、この鏡像段階とは、いったいどういうものなのか。それは、およそ生後6か月以降の幼児が経験する出来事なのだが、彼が初めて鏡と出会い、その中に自分自身の像を認めるようになると生じる特別な相phase のことである。たとえばチンパンジーであれば、鏡に映った自分の姿を見ても、ひとたびその鏡像が生きたものではないということを確かめさえすれば、それで事足れりとなるけれど、人間の子供はそうではない。ラカンは、幼児が「ああそうか体験 Aha-Erlebnis」の際の輝くような表情とともに自分の姿をそれと認知するのだと言う。そして、幼児はこの像に対し、精神分析学で言うところの「同一視 identification」を行ない、これによって彼の内には決定的な変容が生じてくることになるだろう。

子供ははしゃぎながら、〔自分のものとして〕引受ける像の動きと、鏡に写るその周囲との関係、つまりこの虚像的な複合とこれが裏づける現実──それが自分自身の体であれ、人間であれ、さらには自分のそばにあるもろもろの対象であれ──との関係を体験するのです。(『エクリ』上、宮本・佐々木他訳p.125)

 つまるところ、鏡とともに、幼児はまず、自分自身の視像があること、また、ひいては自分自身の統一像があることを学び、みずからが内受容性の側面だけではなく外面をも持っていることを知るようになる。だが、こうした自身の像は、自己認識を可能にしてくれると同時に、一種の自己疎外をもたらすことにもなるだろう。私は、私によって生きられている(自我の)現実性から引きはがされ、絶えず理想的・虚構的・想像的自我に関わることとなるのである。内受容的自我から可視的自我への移行、それはとりもなおさず、精神分析学で言う「自我」から「超自我」への移行でもあるわけだ。

 そうした次第で、メルロ=ポンティは、このラカンの基本的な発想を換骨奪胎し、次のような表現にまとめている。

鏡像は、「私なるものが初め或る原初的形態のままそこに立ち現われ、やがて自他を同一視するという弁証法の中であわただしくおのれを客観化していく、その『象徴的母胎』」にほかなりません。(「幼児の対人関係」『眼と精神』所収pp.163-164。ただし、括弧で引用の形をとっている部分は『エクリ』とはまるで違っている)

 もっとも、鏡像は、自己疎外や自己の客観化というレベルだけではなく、ひいては他人による私の疎外までも示唆しているわけで、メルロ=ポンティはさらに次のように続けることとなる。

そうした直接的な自己の疎外、鏡の中に見える自己によってなされる〈直接的な自己の押収〉は、すでに、自己を見つめる他人によってなされる〈自己の押収〉がどんなものであるかを素描していることになります。(同上p.165)

 いかがだろうか。ここまでくれば、まさしくあのサルトルの「地獄としての他者」にまでも、あと一歩。ふと気がついてみると、私たちは、自他未分化の癒合的社会性から遠く離れて、今や、心理作用をすっかり皮袋の向こう側に閉じこめてしまった「他者」を語っていることになるだろう。もちろん、癒合的社会性から鏡像段階を経て他者へと到る道筋を、これほど単純化して語るのはいかがなものかと反論もされそうだが、これを細かく語る紙幅はない。要は、この方向でなければ、他者問題が解決される望みはないということである。

 ところで、道筋の単純化よりもむしろ、読者諸氏は、もしも鏡像段階の前提となる鏡というものが身近に無かったら、はたして幼児の自己認識はどうなるのかと問われるのではないだろうか。いや、心配はご無用。どんな秘境・僻地であっても、ナルシスが覗き込んだような水鏡はあるだろうし、たとえ無くとも、眼窩から眺められる限りの自己身体像と内受容性との関係を探るところから、鏡像段階のとば口は開かれる。鏡像段階とは、まさしくメルロ=ポンティの言うように「象徴的母胎」なのである。

 こうして、ナルシスが恋した鏡像は、自己と他者とのはざまで、独自の境位に身を置くものとなるだろう。ここには、先ほどふれた理想的・虚構的・想像的自我が出現し、以後、言語が大きく関わってくることになる。メルロ=ポンティの身体論は、そのまま言語論へと一筋に連なっていくのである。

◇初出=『ふらんす』2018年12月号

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著者略歴

  1. 加賀野井秀一(かがのい・しゅういち)

    中央大学教授。著書『メルロ=ポンティ 触発する思想』『猟奇博物館へようこそ』、監訳『メルロ=ポンティ哲学者事典』

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