白水社のwebマガジン

MENU

「越境する日本人 ~海外移住する日本人から読み解く、生き方・働き方・育て方~」後藤愛

第2回 歯科医師、マレーシアへ:仕事一辺倒から、新たな生き方を探す

出会い

 「段ボールの中で、味噌がボンッて爆発してたんですよ」
 背筋を伸ばし、左手の5本の指をお茶碗のように上に向けて「ボンッ」の音を表しながら、山﨑寛子さんは真顔で言った。おかしくも残念な話をするこの瞬間が、寛子さんの第一印象だった。
 場所は、マレーシアの首都クアラルンプールの郊外、都心から車で渋滞なしなら15分ほどのモントキアラの住宅地のレストランだ。
 ときは2021年5月。聞いていると、日本からマレーシアへ送った荷物に四角いプラスチックの箱に入ったお味噌があり、コロナ禍で引っ越し業者が動けず2カ月近く倉庫に放置された間に発酵して空気が膨張し、悲しいことに、その圧で破裂してしまったという。
 「お味噌が他の荷物に飛び散って、箱の中は、さながら味噌地獄でしたよ。掃除するのがもう大変で。味噌ももったいなかったし」
 物悲しい語り口が、ますますおかしい。ユーモラスな寛子さんの味噌を載せた荷物が到着まで時間を要したのも仕方がない。なにしろ彼女がマレーシアへ引っ越してきたのは、コロナ禍の幕開けであった2020年3月。ちょうど彼女の到着した月から、マレーシアでは日本に暮らしていたらなかなか想像しにくい、逮捕者も出るほどの厳しいロックダウン(都市封鎖)や行動制限が課されたのだから。
 この原稿を書いているのは、それから2年が経過した2023年5月である。今年も、ラマダンと呼ばれるイスラム教徒にとっての断食月が終わって、雨季も明け、毎日カンカン照りの暑い季節が戻ってきた。コロナ禍も終わりが見え、私は3月に第3子を出産し、産褥期を経てようやく外に出たりパソコンに向かったりができるようになった。
 日差しが強く、自然と気持ちも外に向きやすい季節だ。マレーシアには四季はないが、代わりに乾季と雨季という2つの季節があり、だいたい3月から9月が暑い乾季、10月から2月が夕方に大雨の降りやすい雨季だ。
 雨季といっても日本の梅雨のように一日中雨が降るわけではなく、たいてい午後まではしっかり晴れて、かなり暑い。3時過ぎから雲行きが怪しく、雷が鳴り始め、夕方に大雨がザッと一気に降って、1、2時間で去ってゆく。それが雨季だ。
 乾季は逆に、昼の暑さがそのまま夕方へ続き、夕涼みができる時刻が待ち遠しい。ちなみに、最近は気候変動の影響なのかわからないが、乾季と雨季の境目が曖昧で妙だ、とマレーシア人の友人がときどき困ったような顔で話題にしている。

 さて、寛子さんとは、同じマンションに住んでいる縁から、コロナ禍の行動制限があったころも、マンションの共用部でお嬢さん連れで顔を合わせ、徐々に言葉を交わすようになっていた。コロナ禍の間は、人が近距離で話しこむことはマレーシア政府からの厳しい行動制限により禁止されており、マンションの警備員がその違反がないか住民を監視しているような状況だったから、私たちは、簡単な挨拶を交わし、警備員の目につかない程度に短く立ち話をする程度だった。目元が涼しい、ショートカットで、美人の彼女。40代で遅めの国際結婚をして、ゼロ歳の娘さんも連れて、マレーシアへ引っ越してきていたという。人づてに、日本では歯科医をしていたと聞いた。
 冒頭の段ボールと味噌の話を聞いたのは、共通の友人の日本帰国前のお別れランチの席だった。
 「このユーモラスな歯科医師は、どうしてマレーシアに来たのだろう」
 夫の駐在、という分かりやすい理由以外で、マレーシアに自らの意志で移り住んできた人たちとつながりたかった。
 なぜなら私たち家族も、会社員の駐在などではなく、自らの意志で、コロナ禍の直前の2020年1月にマレーシアへ拠点を移したからだ。私たちは、家族で海外に暮らしたい、子どもに英語環境を提供したい、日本に暮らす以外の選択肢を家族で模索したい、という動機から、マレーシアへ移った。
 「自らの意志でマレーシアへ来た方々とつながりたい」
 拠点を移した直後にコロナ禍が始まり、人とのつながりが断絶される中で、私の好奇心は、人恋しさもあり、このウェブ連載企画『越境する日本人』が生まれた。
 寛子さんに、「話を聞いて、紹介させてほしい」と率直にお願いすると、「最近の移住者の皆さんのように緻密な計画とかしてないですけど、それでもよければ」とこの最初の登場人物になることを快諾してくれた。


マレーシアの首都クアラルンプール。この都市の名前は「泥川の混ざるところ」という意味。この川の合流地点が、クアラルンプール発祥の地とされる。中央にイスラム教のモスクがあり、周りには近代的な高層ビルが立ち並んでいる(筆者撮影)

歯科医という仕事:日本、女性、働くということ

 197X年生まれで東京出身の寛子さんは、父と叔父が医者で、叔父の息子も医者という家庭で育った。医学の道を志すのはとても自然なことだったという。「歯科医だなんて、なるのも難しい、尊敬されるお仕事ですね」と私が言うと、「いえ、私は挫折して歯医者になってるんです」「安易に選んだんです」と、父が医師で、自分は医学部をあきらめて歯学部にしたと話した。姉は文系で会社員、弟は独立してイベント関連の会社を経営しており、彼女だけが歯科医の道に進んだ。

 幼稚園から大学まである一貫校に中学受験をして中学から入り、そこから「お茶くみだけは嫌だ」と思い、しっかり「手に職を付けたい」と願って、あらためて歯科医を目指し、他大の歯科に推薦で入った。歯科は入学後国家試験を目指し、皆が同じ職業を目指すといういわば努力の方向が分かりやすい専攻だったという。
 進路を迷うことなく将来の職業まで突き進めるのが彼女の一途な性格に合っていた。口腔組織学を選び、興味が出たため、大学院では基礎系の研究室に入り、博士号まで取得したが、「研究への純粋な好奇心が生じないって気づいたんです。自分は研究者向きじゃなかったなと」。そこから研究ではなく臨床に転じ、27歳から40歳まで14年間、歯科医師としてのキャリアを歩んだ。
 ここまで聞いて、これは一人の女性のキャリア形成としては理想的な高学歴で得難い仕事を得た、絵にかいたような軌跡に思えた。女性のキャリア形成のお手本のようで、女性活躍の文脈では、成功例として捉えられることは間違いないだろう。


クアラルンプールのシンボル、ペトロナス・ツインタワー。国立石油会社の名前を冠したこのタワーは、1996年マハティール首相(当時)の際に発展の象徴として建てられ、今も国のシンボル的建物だ。有名な「ルック・イースト政策(東方政策)」の一環で、建設は日本企業と韓国企業が担当した。(筆者撮影)

 少し、歯科医師という仕事と女性について調べてみると、日本では2020年の届出歯科医師数は 107,443 人で、「男」80,530 人(総数 の75.0%)、「女」26,913 人(同25.0%)となっている。日本全国の歯科医師のうち、4分の1が女性ということだ。また、人口10 万あたりの歯科医師数は、85.2 人で、人口1173人に1人の歯科医1だ。
 マレーシアで病院ほどは歯科医院を見かけないなと思って調べてみると、マレーシアの登録している歯科医の数は、2021年時点で12,570人。2015年の6,380人から右肩上がりに増加し、6年間でほぼ倍の数まで伸びている2。マレーシアの人口が約3300万人なので、人口10万人あたり、38人の歯科医がいる計算だ。人口2631人に1人の歯科医なので、日本と比べると数としてはまだ少なく、人口当たりの割合でいうと、マレーシアには日本の半分程度の数の歯科医しかおらず、まだこれから増えてゆく途上のようだ。
 さて、歯科医師という仕事についた寛子さん。初めての就職先の歯科医院は効率重視で、自分以外の歯科医師が使う粉付きグローブの飛沫のアレルギーが辛く1年で転職。その後、2か所の医院に数年ずつ務めた後、4か所目の、都心オフィス街の歯科医院では、晴れ晴れしい院長という職に就いた。歯科医の仕事に大きな張り合いを得ていた彼女は力を入れて職務に取り込んだ。キャリアアップに手ごたえを感じていた。
 ところが、ここで思わぬ事態が、寛子さんをそれまでのキャリア志向に大きな疑問符を感じる事態となった。

仕事中心への疑問符

 それは、職場での粉飾給与だった。歩合制の給与の計算が合わないと確認すると、支給額をごまかされていることが判明した。当局に相談するも対処できない金額だと言われ、泣き寝入りするしかなかったという。
 「自分の仕事への努力が報われない、求められていないと感じ、本当に辛かったです」。週末に刺激を求めて六本木に友人と繰り出し、行き場のない思いを紛らわせていた。いろいろな立場の人たちと交流する中で、「自分のような堅気の仕事ではなく、楽して稼ごうとか人になんでもやってもらおうとする人たちを目の当たりにして、自分の献身的な働き方に自信を失ってしまった気がします」。
 このころ、恋愛についても未来がないように感じ、一旦思い切って、仕事を休んで、ヨーロッパに一人旅に行った。以前も友人と海外旅行は経験していたが、今回は完全に独りだ。慣れない英語で旅行手配をし、生まれ変わったようにさっぱりと帰国したいと思った。人生を変えたいと願った。仕事一辺倒の生活。献身的に働いたけれど報われなかった経験。何をどう変えたらいいのかはわからなかったが、違う生き方をしたい。そう願ったのだという。
 これを、ミッドライフ・クライシス(中年の危機)、というありふれた言葉で一括りにするのは乱暴だろう。東京という巨大都市は、暮らしのなかで仕事の優先順位が極めて高い世の中だ。そして仕事に没頭するほど、仕事の成果や評判が自分の価値を決めていると感じさせられるような社会でもある。この仕事への強い執着というか忠誠心が、日本の社会のインフラを支えているし、その結果として人々は高品質な製品やサービスを手に入れられるという良さがある。
 一方で、働く人にとっては、無理が生じやすく、心身ともに疲弊してしまう。ワークライフバランス、という言葉が流行る理由は、そのバランスが取れていないと感じる人が大多数だからなのではないだろうか。
 寛子さんは、日本からマレーシアへ、という変化だけでなく、仕事との向き合い方をリセットすることになる。旅行を終え、憑き物が取れたような新鮮な気持ちで東京に戻ると、彼女には、マレーシアにつながる出会いが待っていた。長くなってきたので次の回で紹介してゆこう。


マレーシア各地にはまだ手付かずの自然の海岸線が多く残っている。海の色、空の色も日本とは違って見える。(山﨑寛子さん提供)

-------------------------------------

1 令和2(2020)年医師・歯科医師・薬剤師統計の概況 2 歯科医師
https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/ishi/20/index.html

2 Statista : Number of registered dentists in Malaysia from 2015 to 2021
https://www.statista.com/statistics/1199537/malaysia-number-of-registered-dentists/

タグ

バックナンバー

著者略歴

  1. 後藤愛(ごとう・あい)

    1980年生まれ。一橋大学法学部(国際関係論専攻)を卒業後、2003年独立行政法人国際交流基金に入職。2008年フルブライト奨学生としてハーバード大学教育大学院教育学修士号(Ed.M。国際教育政策専攻)取得。2012年から2017年同基金ジャカルタ日本文化センター(インドネシア)に駐在し、東南アジア域内と日本との文化交流事業に携わる。2021年同基金を退職し、現在マレーシアでCHANGEマイクログラント(https://changemicrogrant.org/)活動に携わる。家族は夫と子ども3人。

フランス関連情報

雑誌「ふらんす」最新号

ふらんす 2024年11月号

ふらんす 2024年11月号

詳しくはこちら 定期購読のご案内

ランキング

閉じる