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「越境する日本人 ~海外移住する日本人から読み解く、生き方・働き方・育て方~」後藤愛

第1回 はじめに

海外移住はいま現実の選択肢

 「日本沈没」そんな言葉が流行るほど、今の日本は閉塞感と停滞感がある。そんなことは分かっている。それでも変われない日本、という言葉があるが、私の周りには、実際自ら行動を起こし、海外へ新たな生活と人生の場を選びとって実際に生きている日本人がたくさんいる。彼らは、世の中の流れを知ったうえで、それを日本への悲観や愚痴に終わらせずに、自らの力で、次の歩みへと行動に移した人たちだ。

 外務省領事局政策課による「海外在留邦人数調査統計」令和4年版(令和3年(2021年)10月1日現在)1によると、日本国外に在留する日本人の総数は、134万4,900人で、新型コロナウィルスの世界的な感染拡大の影響もあり、前年より1万2,824人(約0.9%)のやや減少と、2年連続減少した。しかしながら、平成元年(1989年)からの33年間のデータを眺めてみると、1989年の58万7,000人から、右肩上がりに増加を続け、令和元年(2019年)に過去最多の141万人台を超えていることが分かる。この内訳としては、「長期滞在者」が80万7,238人、「永住者」が53万7662人。このうちの27,256人がマレーシア在留の日本人で、第12位の多さである。

 12位と聞くと、さほど高くないと感じるかもしれないが、滞在先の上位5か国は、アメリカ(429,889人)、中国(107,715人)、オーストラリア(93,451人)、タイ(82,574人)、カナダ(70,892人)であり、その後に、イギリス、ブラジル、ドイツ、韓国、フランスが10位内、そのさらにあとにシンガポール、マレーシア(27,256人)、台湾と続く。これらの中には、アメリカ3億人、中国12億人など、人口の巨大な大国も含まれており、日本人の全体数も大きくなりがちである。そのため、国の大きさに応じた割合を見てみる必要がある。

 そこで、移住先の国の人口の100万人当たりで上位20位の国を計算して、並べ替えると、1位シンガポール(6,135人)、2位ニュージーランド(4,169人)、3位オーストラリア(3,580人)、4位カナダ(1,846人)、5位スイス(1,340人)、6位アメリカ(1,284人)、7位タイ(1,177人)、8位台湾(1,032人)、9位イギリス(929人)、そして10位マレーシア(820人)となる。都市国家であるシンガポールは特殊な例として除けば、アジアでは、タイと台湾に次いで、3番目に日本人の在留邦人割合が多い国ということができる2。ニュージーランドとオーストラリアというオセアニア勢が上位を占めているのは新鮮かもしれない。この100万人当たりの並び替えにおいては、マレーシアには、アメリカの64%程度の人数の在留日本人がおり、その数はイギリス在住日本人の数と近い。そういえば、それなりの数の在住日本人がいることを感覚的にご理解いただけるのではないだろうか。

 では住みやすさはどうなのかというと、世界中に400万人以上のユーザーを持つ海外駐在員コミュニティInterNationsの「駐在員が選ぶ世界の住みやすい都市」ランキング 20213ではマレーシアの首都・クアラルンプールが第1位に選ばれている。2位以下は、マラガ(スペイン)、ドバイ(アラブ首長国連邦)、シドニー(オーストラリア)、シンガポールとなっている(ちなみに東京は全57都市のうちワースト5の53位だった)。また一般財団法人ロングステイ財団が実施する「ロングステイ希望国・地域2019」4によると、1位がマレーシアで14年連続の首位であり、ロングステイ希望国トップとしてのイメージも定着し、幅広い世代に評価されているとある。住みやすい国という認識を持たれていると言っていいだろう。都市で見ると、首都クアラルンプールには在留邦人の約半数にあたる14,051人が住んでいる5


クアラルンプール郊外の駐在員が多い住宅地エリア。整った道路に街路樹が映える。

住みやすさを支える政治情勢

 マレーシアの政治、経済、社会情勢は、必ずしも前向きなことばかりではない。川中豪によれば、「1960年代に誕生した秩序重視の権威主義体制が民主主義制度を利用しながら長期間にわたって維持されてきた」6とあり、民族暴動をあらかじめ抑止するために、民族間の様々な権利に軽重をつけるような多くの施策が今日まで大きな影響を与えていることを指摘している。こうした政策には賛否両論があり、マレーシアを手放しで理想の国だとは到底言い難い現状はあるのだが、一方で皮肉なことに、その権威主義体制の恩恵として、社会の治安や政治的な安定が保たれ、マレーシアが海外からの移住者にとっても暮らしやすさを維持しているとも言える

 治安レベルについての一つの客観的指標である、アメリカ国務省Travel.State.Govのデータで、マレーシアは「Level 1: Exercise normal precaution(レベル1、通常の注意をしてください)」となっている7。レベル1は、4段階で最も低い危険レベルで、日本もレベル1である。海外では日本と比べて、最低限の治安に対する意識を持たないと旅行も生活もままならないという現実を大前提として考えれば(つまり、日本ほど安全な国は世界広しと言えどもなかなかない)、レベル1というのは、世界的に見てかなり安全度が高い国ということになる。

 政治体制について分類する前述の同書では、V-Demの「選挙民主主義指標の推移」を紹介し、1970年以降、2010年代後半に向けて、徐々に「選挙民主主義」に近づきつつもそのまま「選挙権威主義」体制として維持され、基本的に民主主義と独裁の中間に位置する政治体制と分析されており8インドネシア、フィリピン、タイなど市民の政治活動がより活発で、それゆえ暴動や政変が多かった東南アジアの周辺国の動向と比べると、選挙という民主主義の基本的な制度を備え実行しながらも、そこでお墨付きを得た権威が長く安定的に社会を動かしてきた世の中だと捉えることができ、社会情勢としては安定していると言えるだろう。


国家記念碑。首都中心地の、レイク・ガーデン・パークなど緑多いエリアにあり、第1次、第2次世界大戦と、マラヤ危機の死者を追悼するために建てられた。

多民族と多言語、それゆえ包摂的なマレーシア社会 

 おそらくマレーシアについて日本でも知られていることといえば、多民族、多言語、多宗教国家であることだろう。国民の人口は3,275万人と日本の約4分の1の規模であり、マレー系、中華系、インド系の3民族に大別され、それに少数の先住民を加え、それぞれが自分の民族の言語、宗教、習慣を守りながら生活している。割合は、それぞれ約55%、22%、7%、15%となっている。国家の宗教と定められているイスラム教が人口の61%(主にマレー系)、仏教が20%(主に中華系)、キリスト教9%、ヒンドゥー教6%、儒教・道教など1%となっている9

 マレーシアの公用語/国語はマレー語であるが、イギリスが旧宗主国だった影響で、英語は準公用語として、民族間の共通語として機能しており、どの民族も一定以上の英語力を身につけている。中華系は北京語(標準語)を学校で習うが、それぞれ出身地域によって、広東語、福建語などの地方語を家庭で話すという人も多い。インド系はタミル語だ。義務教育である小学校は、国民学校と呼ばれる公立校では、基本的に教育言語はマレー語で一部英語もあるが、国民型学校と呼ばれる中国語またはタミル語を教育言語とする公立校に通うこともできる。中国系国民型学校に通うと、中国語で授業を受け、かつマレー語と英語も学ぶ。インド系国民型学校であればタミル語で、といった具合だ。どの言語の学校に通うかは、基本的に保護者が決める。各民族が各母語を保てるようになっている10。こうした教育制度の結果、3つの民族がそれぞれのアイデンティティと言語を保ち、加えて「マレーシア国民」というアイデンティティも持つという二重構造になっている。さらに近年は、英語で授業を行う私立インターナショナル校に通うマレーシア人も少なくない。民族間の融和や対立は、時代によって異なるものの、1960年代の悪化と暴動を経たあとは、上述の政府の政策により、概ね安定した舵取りが行われ、近年は目立った対立はなく、各民族がお互いつかず離れずの距離で共存共栄の作法を学んできたように見える。


英国統治時代の歴史的建築物が観光資源として活用されている

 こうしたそもそも多民族国家を前提とした社会の運営のあり方は、国内で生活する多くの日本人にとって馴染みが薄く、想像しづらいものかもしれない。だが、それゆえに興味を惹かれ、またともすると日本人が苦手である自己表現や自分と異なるルーツを持つ人たちとの共存社会のあり方について常に気づきを与えてくれるのもまたマレーシアであり、したがって知れば知るほど興味が尽きないのがマレーシア社会なのだ。

 近年、日本人の海外居住のライフスタイルといえば、「海外移住」や「二拠点生活」のキャッチ―な単語とともに、時に理想化されたイメージのみが語られがちだが、実際に具体的にどのようなステップがあり、先人たちはいったい何のためにその行動に踏み切ったのだろうか。

 私自身、日本にいたときは、日本の仕組みの中で生きていくしかないだろうと思っていた。しかし、海外に目を転じてみると、自分が見ていた世界とは別の論理、別の世界観で生きている人たちがいくらでもいた。その人たちは、自分たちで選択した生き方を、主体的に生きているように見えた。羨ましく感じた。なぜ私はあのようになっていないのか、どうしたらあのようになれるのか。そこから私は家族とともに海外で暮らすことを目標にし、今、実際こうしてマレーシアに拠点をもち、かねてからの目指していた自分の非営利/フィランソロピー活動を手掛けるところまで進んできた。

 私は、日本の大学を卒業後、国際交流基金という外務省が主務官庁を務める日本政府の文化交流機関に18年務め、途中でアメリカへの大学院留学(教育学修士号、国際教育政策学)を経て、2012年から2017年には経済成長と社会の変革の著しいインドネシアのジャカルタに5年間駐在した。2021年に退職し、現在はマレーシアを拠点に、女性、子ども、若者を少額支援金で支援するCHANGEマイクログラントの活動を中心に、マレーシアの高校生向けのアントレプレナーシップについてのオンラインコンペの実行委員や、日本の高校生向けの海外研修のアドバイス業務などを手掛け、日本と行き来する生活をしている。

 大学院を修了したあたりから、いつか自分自身の活動を主軸にしてゆきたいと漠然と考え、可能な下準備はしていたものの、2019年までは、様々な現実的な制約から、「勤めの仕事を続けながら、いつかは自分自身の社会的な活動をしてみたい」と考えていた。言わば、やってみたいことをいろいろ理由をつけて先送りしていた。しかし、2020年からの新型コロナウィルスで世界が一変する経験を受け、「いつまでも先延ばしにしていつ命が終わるとも限らない。やりたいことは、今やった方がよい」というシンプルな結論に至り、現在のライフスタイルに移行した。今では、活動に共感するマレーシアの仲間も見つけ、少しずつではあるが自分の居場所も作ることができた。

 これらの過程で、実に魅力的なそして多様な日本人、マレーシア人、各国人に出会うことができ、彼らの生き方や決断が、私の背中も押してくれた。そのような新鮮で面白い生き方をしている日本人たちを、今日本にいる人々に紹介したい。そしてかつての私のように悩み迷っている人の役に立ててほしい。そう思うようになり、その思いが本書を企画する原動力になった。


古都マラッカ(世界遺産)の運河沿いに、多民族の女性像を描いた壁画アートがある。

個人のストーリーからひも解く

 本連載では、マレーシアの魅力を伝えるにとどまらず、複数の現役世代の日本人たちが「なぜ」マレーシアに移住したのかについて、その経済面および職業面といった現実的要因に加え、彼らの生き方の理想や生きがいといった精神的要因にも迫ってゆく。また、その歩みを、職業の準備、経済的背景の準備、配偶者との協議や子どもの教育の方針決定などを含め、「どのように」現実化してきたのかを明らかにする。

 国や社会の現在進行形の変化という背景に目配りしつつ、注目したいのは、個人個人のストーリーである。また、それは個人のストーリーであると同時に、家族単位のストーリーでもある。家庭を持った個人が、海外へ移住するとなると、その決断はもはや個人のものにとどまらず、家族を巻き込み、多くの場合、家族の生き方を大きく左右する。夫婦間のパートナーシップのあり方が強く問われる決定でもある。夫婦で決断した家庭や、夫または妻の強い意向に配偶者と子どもたちが追随した家庭、そして子どもの教育を最優先して考えた家庭など、様々である。これらの家族内のダイナミックスも探ってゆきたい。

 マレーシアをともすれば理想化するような、移住促進を目的とした書籍とは一線を画し、移住者本人たちの複数の目線と軌跡ならではのリアルな紹介と考察を行う。良いことも、悪いことも、書き記してゆく。なぜならそのリアルな声こそが、これから次の一歩を迷い、とまどいながらも、選択してゆく読者にとって一番の参考になるはずだと信じるからである。


マーケットで売られる鶏肉。イスラム教徒が多数派のマレーシアで鶏肉は多くの人が口にできる食材だ

 さらに言えば、これら個々のストーリーの積み重ねは、今、日本が行き詰まった先で、個人が多様化し多様な選択肢を取り、日本人という集合の一部の進化を目の当たりにさせてくれるものでもある。その意味で、この変化の激しい先の見えない時代において、あたかも生き残りをかけて変化と進化の過程にあるような新しい日本人たちの生き様は非常に面白く、ぜひ現役世代に届けたいのである。

 大仰な日本人論を打ち上げるつもりはない。むしろ、日本にありがちな「日本人とは」といった集団をひとくくりにした言説にも一石を投じ、新しい生き方を実践している「一人ひとり」に光を当てたい。その際、マレーシアという日本とは異なる多民族、多言語、多宗教で、成長中のアジアの若い社会は、日本人を映す鏡として機能するのかもしれない。彼らの言葉を通じて、マレーシアという国と社会への理解も深めたい。その先に、読者がどのような日本人論、アジア論、これからの世界観を構築するのかは、各自の判断にゆだねたい。

 この連載が、現在日本での仕事や生活や子育て教育環境に満足せず、何らかの打開策を探し、「日本も海外も」を前向きに検討している読者の現実の役に立つものになっていれば、大変幸いである。また、マレーシアに限らず海外移住を漠然とでも考えている人や、日本の状況に不満を感じている人が、他にこんな選択肢があったのかと気づき、自らの人生を主体的に選択して生きるための何かの参考になれば、望外の喜びである。

 では、次回から、一人ひとりの越境した日本人に焦点を当てて紹介しながら、彼ら彼女らの生き方の選択を通じて、日本人とマレーシア社会の様子を描いてゆこう。

(写真はすべて筆者撮影)

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1 海外在留邦人数調査統計 https://www.mofa.go.jp/mofaj/toko/tokei/hojin/index.html

2 各国の人口については、UNPFA「世界人口白書2022」https://www.unfpa.org/swp2022。台湾の人口については統計に含まれないため、外務省による台湾基礎データ https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/taiwan/data.html を参照。100万人当たり邦人数は、小数点以下切り捨てで表示。2022年12月アクセス。

3 The Best and Worst Cities for Expats to Work and Live in in 2021https://www.internations.org/press/press-release/the-best-and-worst-cities-for-expats-to-work-and-live-in-in-2021-40208#:~:text=Munich%2C%201%20December%202021%20%E2%80%94%20Kuala,it%20easy%20to%20make%20friends.

4 一般財団法人ロングステイ財団 プレスリリース 2020年第4号(2020年12月2日)「ロングステイ希望国・地域2019」トップ10を発表 https://www.longstay.or.jp/releaselist/entry-3831.html

1に同じ。

6 「競争と秩序 東南アジアにみる民主主義のジレンマ」P.31、2022年、川中豪、白水社。民主主義を4つの類型に分類する。すなわち、(1)閉鎖的権威主義、(2)選挙権威主義、(3)選挙民主主義、(4)自由民主主義である。マレーシアはほぼ一貫して選挙権威主義が維持されていると分類されている。

7 Travel.State.Gov https://travel.state.gov/content/travel/en/international-travel/International-Travel-Country-Information-Pages/Malaysia.html 東マレーシアのサバ州の一部においてはレベル2となっている。それ以外の地域はすべてレベル1。

8 6と同じ P.28、p.120

9 日本外務省基礎データ マレーシア 2021年マレーシア統計局のデータを引用。https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/malaysia/data.html

10 「マレーシアの教育政策と学校教育制度」鐘ヶ江弓子、共栄大学研究論集、2022年 https://core.ac.uk/download/pdf/228685541.pdf

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著者略歴

  1. 後藤愛(ごとう・あい)

    1980年生まれ。一橋大学法学部(国際関係論専攻)を卒業後、2003年独立行政法人国際交流基金に入職。2008年フルブライト奨学生としてハーバード大学教育大学院教育学修士号(Ed.M。国際教育政策専攻)取得。2012年から2017年同基金ジャカルタ日本文化センター(インドネシア)に駐在し、東南アジア域内と日本との文化交流事業に携わる。2021年同基金を退職し、現在マレーシアでCHANGEマイクログラント(https://changemicrogrant.org/)活動に携わる。家族は夫と子ども3人。

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