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「越境する日本人 ~海外移住する日本人から読み解く、生き方・働き方・育て方~」後藤愛

第15回 センス・オブ・ワンダーを大事に、動きながら学べ

出会い

 「日本の閉塞感、ですか。私の周りには閉塞感を感じてるような人は思いつかないですけど……」
 明るく笑った彼女。これぞ越境だな、と私は心の中でつぶやいた。
 この「越境する日本人」シリーズでは、日本からマレーシアへと向かった人と会うことが多い。いわば、一方向の矢印一本で完結している。しかし、白幡香純(しらはた・かすみ)さんの場合には、日本、欧州、アフリカ、アジアで様々な業界の仕事や独立を経験し、グルグルと螺旋状に円を描いて、最近マレーシアに着地した。
 香純さんとの出会いは、コロナ禍直前の2020年2月。私はマレーシアに到着して1か月ほどで様々な人に会い自分の居場所をつくろうと画策していた。
 彼女は、私が前職の国際交流基金で立ち上げたアジアの多国間交流プログラム「EYESフェローシップ」に日本から参加していた。アジアでダイバーシティに携わる職業人が集まるリーダーシップ研修だった。研修時には私は育休のため会えなかったが、元上司が繋いでくれた。
 2020年2月、クアラルンプールで彼女がプロデュースした、難民が講師となり参加者の自尊感情や対人能力を育む演劇ワークショップの場で初めて会った。長くおろした黒髪に、大柄のワンピース。立ち居振る舞いが堂々として、いい意味で日本人離れした創造的でエネルギッシュな人という印象だった。
 翌週、日を改めてコーヒーをご一緒した。聞くと、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)駐日事務所で働いた後、バッグやアクセサリーを製造販売するマレーシアの社会的企業に立ち上げの3人目社員として転職し、UNHCRとの連携商品の開発などをしているという。「とにかくマレーシアが大好きで!」と屈託なく力説する彼女が羨ましかった。コロナ禍を経て、2022年に東京の私立高校のマレーシア海外研修を香純さんが手掛けるとのことで、彼女と再会し、微力ながらお手伝いをした。
 2025年現在、彼女はマレーシア人の配偶者と結婚し、長期的にこの国に根を張って生きている。グローバルに動いた先に、根を下ろしたのがマレーシアだ。何が彼女の尽きないエネルギーを焚きつけているのだろうか。2025年3月に改めて話しを聞く機会をもらった。

2020年2月マレーシアでの演劇ワークショップの一コマ。演じながら、心を解き放ち、笑顔がこぼれる。香純さん提供

感性を育みながらの小学校受験

 「目にしたもの、手に触れたものを五感を使って楽しむ純粋な子ども時代でした。いわば、『センス・オブ・ワンダー』、感性を大事にしていました。小学校受験をしましたが、直感をよく使った子ども時代と記憶しています」。4人兄妹の3番目で、兄2人、弟1人という男兄弟に挟まれていた。父は出版社勤めでオウム事件などを追う記者職で、後年は東野圭吾作品などを扱う編集者になった猛烈な仕事人間だった。母は4人の子育てをワンオペでこなしながら、自宅でピアノの先生もしていた。兄が公立小学校に馴染めなかった経験から、香純さんは小学校受験をすることになる。公文式の学習で5歳で東京都1位になるなど、1日60冊の本の読み聞かせしてくれていた教育熱心ママから集中的な幼児教育を受けた。「負担と思ったことはなくて、この学び方が好きでした。受験する目的も聞いており、頭で納得できていました」。
 12歳のとき、母が癌になって入院した。料理や洗濯、弟のお弁当づくりなどの家事に取り組んだ。近所の人が「かわいそうに」「頑張っているね」など声をかけてきたが、「同情ではなく、具体的な助力がほしい」と痛感した。後年、難民や無国籍者などを支援するときの基本姿勢にもつながった。母はよく泣いていた。人の心にはケアが必要だということもすでに理解した大人びた子どもになった。
この経験からソーシャルワーカーに興味を持つが、調べると日本では非常勤の仕事が多く、生活を成り立たせるのが大変と知った。「それなら海外の大学へ行って海外で仕事をしたらいいと思ったんです。帰国子女の友達が、ディズニー映画『アラジン』の主題曲『A Whole New World』をネイティブの発音で歌うのを聞いて、自分もあんな美しい英語を話したいと強く思いました」。英語ができるようになりたい、留学したいという気持ちが強まった。
 とはいえ、家族で誰も留学、海外生活を経験した人はいなかった。中学3年時に財団の留学試験に合格したものの、父と祖父が「一体何のために女の子が危険をおかしてまで外国に行くんだ!」と猛反対した。ソーシャルワーカーまたはジャーナリストになりたい。そのために海外留学や英語が必須だと泣きながら訴えた。熱意が通じたのかはわからないが、最後は「かわいい子には旅をさせて」と説得した。
 「それでもクラスメイトには最後までひた隠しにしていました。想定された枠の外に挑戦したい気持ちがあるとは言い出せなかったんです」。野心を持つことは、人と違うことを望むことであり、知られない方がいいと空気を読む一面もあった。

高校留学:ミネソタ州の田舎暮らしと9.11

 留学先は米国中西部のミネソタ州、大自然に囲まれたログハウスで暮らすホストファミリーはノルウェー出身の夫婦だった。ホストファザーはカヌーづくりが趣味、ホストマザーは学校教師だった。敬虔なクリスチャンで、豊かな愛情表現で夫婦のキスや、香純さんへの日常的なハグ、寄付や慈善活動も当たり前。「無条件の愛情表現を初めて見て、度肝を抜かれました」。当時のアメリカはすでに肌の色の違う人が養子縁組によって兄妹であったり、女性同士のカップルがホームパーティーに来たり(当時は単なるルームシェアかと思っていたが、今思い返すとLBGTのカップルだったのだろう)、実に多種多様な世界が一気に目の前に現実として展開された。
 学校の様子も異なった。日本で通っていた私立校は親が医者、社長など恵まれた境遇の子が多く、それを当たり前と思っていたが、通っていたアメリカの公立校には、中流家庭の子どもに混ざって、刺青をしている子もいれば、麻薬に手を染めているような子、さらに若くして子どもがいる生徒までいた。「世界や価値観の多様さに気づき、自分が認識していた『社会』がいかに狭かったか、自分自身を客観視するきっかけになりました」。
 そんな中、あの事件が起こる。2001年9月の米国同時多発テロ事件だ。8月の到着から間もない時期の衝撃だった。事件後しばらくして、香純さんが所属していたバレーボールチームでは試合の前に国歌斉唱が必須になった。「さらに驚愕したのは高校に屈強なアメリカ軍の採用部隊が来て、かっこいい映像や銃を見せて、生徒を軍隊に勧誘していたんです。学校が軍隊の採用の場になるなんてと衝撃でした」。
 アメリカのメディアはテロの犠牲者の話を繰り返し報道していた。一方で、実家から送られる日本の雑誌には、米軍によるアフガニスタンの空爆の写真が載っていた。「罪のない子どもたちが犠牲になっていることが明白な写真の数々でした。しかし自分は生徒数500人の高校で唯一の外国人です。クラスメイトは『現代の真珠湾攻撃だ!』と煽り、日本人である自分の立場が苦しかったです。温厚なホストファミリーまでもが、空爆に賛成していました。メディア報道の偏りと、一般市民が大きく流されることを目の当たりにしました」。
 知らせたい一心で、日本の雑誌の写真ページを切り抜いてパネルに貼り付けて拙い英語で皆の前で発表した。皆が翼賛的に賛成している空爆の負の側面を強調するには、相当な勇気が必要で、身体ががくがく震えた。発表後に、「知らなかったよ。教えてくれてありがとう」と話に来てくれる人がいて、小さな手ごたえを感じた。
 こうした日々を経て、「無知ほど怖いことはない。複眼的な視点を身につけ、声なき声(unheard voice)を伝える戦争ジャーナリストまたは弱い立場にいる人を助ける弁護士になりたいと思うようになったんです」。

初めてのプロム、少し背伸びした夜。香純さん提供

大学:人類の課題としての難民

 日本に戻り、早稲田大学政治経済学部に入学し、国際法や公共政策を専攻した。報道の現場に近づきたいと、大学1年生からテレビ朝日で、田原総一朗氏の司会で政治家や識者が徹夜で激論を交わす番組『朝まで生テレビ』のアルバイトを始めた。月1回、金曜から土曜の1泊2日を徹夜でこなす体力勝負のアルバイトだ。ここでゲスト対応、視聴者からの電話対応を学び、要人と接するマナーを叩きこまれた。
 一方で、報道という点では、パレスチナ問題を追いかけている社員から「報道では視聴率が取れず、民放では時間枠を獲得することが難しい」と聞かされ、厳しい現実も知った。
 2年生の春休みには、内閣府主催「世界青年の船」に乗り、各国の若手リーダーとお互いを知り応援しあう経験を経て、下船後、UNHCR駐日事務所のインターンに合格した。働いてみると、UNHCRの職場のカルチャーが性に合っていた。多国籍な環境である中、どんな意見も目を見て対等に聞いてくれた。体育会系の文化だった日本のテレビ局とは違う世界が広がっていた。
 日本の若者に難民問題への関心を高めたいというUNHCRの意向を受けて、「UNHCRユース(現 J-FUN ユース)」という組織の立ち上げに奔走し、全国から200名以上の学生を集めた。「世界難民の日に向けて高級ブランドのアルマーニに学生一人で連携案を携えてプレゼンに行くなどたくさんの経験をさせてくれました。上司は出会うあらゆる立場の人の名前を覚え、誰もが大切に扱われていると感じさせてくれる素晴らしい人でした。自分もそのような人間でいたいと思いました」。

“Being”

 「こうした経験を通じて、仕事や生き方では『どういう人でありたいか』を大事にしたいと思うに至りました。”Being(あり方)”の問題です。世の中には、様々な課題があり、取り組んでいる団体がありますが、私は、国際機関で見たような、人を思いやれる人でいたい。そんなあり方でいられる職場にいたいと腑に落ちました」。
 そのような”Being”を実現できる生き様とは何なのか。進路に悩んだ。国際機関で働くには、大学院卒と、即戦力になれる社会人経験が必要だった。この頃、北京でアジアの学生が集まって討論する国際会議に参加しながら、民間企業の力をもっと国際協力の現場で生かせないかと思い悩んでいたところ、グラミン銀行のノーベル賞受賞のニュースを目にし、ムハマド・ユヌス氏が金融というビジネスの手法で貧困層を手助けするマイクロファイナンスなどのソーシャルビジネス(社会的企業)の存在を知った。すぐ履歴書を送付し、バングラデシュの農村に飛び込んだ。「Learning by Doing(やってみて学ぶ)を合言葉に、複数の業界業種でインターンをしながら就職活動もすることにしました」。
 2007-2008年は、就職活動が厳しいという感じはあまりなく、外資の採用スケジュールは日系企業の半年前から始まっていた。「外資投資銀行から口頭で内定をもらったものの、数日後に日経新聞の1面で倒産を知りました。リーマンショックの年で、社員の方からのメールに『私もこれから職探しです』と添えられていて絶句しました」。世の中の浮き沈みを体感しつつ、進路を考え直す機会と前向きにとらえて、就職ではなく、大学院留学へ切り替えた。
 「国際機関の仕事を志し開発学を学びたい。MBA留学と迷いましたが、ビジネスは実践で学ぶべしと聞き、開発学で大学院留学に定めました。NPO、企業、行政のマルチセクターをつなげる橋渡し役になりたい、国際機関に加えて民間とも仕事がしたいと絵を描きました。当時、黎明期だったソーシャルビジネスの先駆けともいえる現コペルニク中村俊裕さん、マザーハウス山口絵理子さん、エシカルジュエリーの白木夏子さんなどがロールモデルとして目指す方向性にいらっしゃいました」。
 この後、仕事を通じて、難民や社会的弱者と呼ばれる人々をソーシャルビジネスを通じて力づける活動へと歩みを進めていく。それは後半で紹介していこう。

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著者略歴

  1. 後藤愛(ごとう・あい)

    1980年生まれ。一橋大学法学部(国際関係論専攻)を卒業後、2003年独立行政法人国際交流基金に入職。2008年フルブライト奨学生としてハーバード大学教育大学院教育学修士号(Ed.M。国際教育政策専攻)取得。2012年から2017年同基金ジャカルタ日本文化センター(インドネシア)に駐在し、東南アジア域内と日本との文化交流事業に携わる。2021年同基金を退職し、現在マレーシアでCHANGEマイクログラント(https://changemicrogrant.org/)活動に携わる。家族は夫と子ども3人。

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