第22回 清音と濁音
Q:現代韓国語には「清音」と「濁音」の対立がありませんが、昔からそうだったのでしょうか。
A:韓国語において、いにしえから清音/濁音(注1)、すなわち無声/有声(注2)の対立が存在しなかったのかどうかという論件は、実はかなりの難問です。断定的なことは言えませんが、この問いに迫るためには漢字音がひとつの手がかりになるでしょう。
前回も述べたように、日本漢字音は受容順に呉音、漢音、唐音の3種のレイヤーから成ります。このうち呉音は、一般に5~6世紀頃の中国南方系の発音に由来するとされますが、その内実は複層的です。導入経路についても一様ではなかったと思料されますが、多くは朝鮮半島、とりわけ百済を経由したとする説があります。
そして、呉音では、中国語中古音の全濁(注3)が濁音として取り入れられており、この事実は、当時の朝鮮半島の言語が無声/有声の対立を有していたことを示唆します。もちろん、現在の韓国語に直接繫がる言語は、百済のことば(注4)ではなく新羅語であり、そもそも呉音が朝鮮半島経由で伝来したこと自体も確証されているわけではありませんので、これはどこまでも間接的な推論にとどまりますが、韓国語にかつて無声/有声の区別があったか否かを講究する際の徴証としてよく言及される論点です。
一方で、これも前回触れたことですが、朝鮮漢字音では、唐代長安音の[mb]や[nd]が各々ㅁ、ㄴで受け入れられています。そして、かような受容の仕方がなされた背景には、韓国語側の鼻音/m/、/n/が、それぞれ[mb]、[nd]のような異音を持っていたことが関係していると考えられます。韓国語の鼻音が古くから出わたりの閉鎖音を随伴しやすかったことは、『二中歴』などのいわゆる仮名書き朝鮮語資料などからも確認できますが、もし仮に語頭に有声音が無声音と対立する形で立ち得ていたとすれば、[b]と[mb]、[d]と[nd]の如き区別がそれぞれ存在していたことになり、子音の弁別はより複雑なものになります。こうしたことを踏まえると、少なくとも高麗時代の韓国語ではすでに無声/有声の区別はなかったと判ずるのが穏当だと言えます(注5)。
ついでに、漢字音から推し量られる韓国語の音韻史としてほかに、無気/有気の対立が昔から存在したのかどうかという問題が挙げられます。激音の歴史的生成過程については第2回で内的再構的な視座から論及しましたが、漢字音のありようからも接岸することが可能です。河野六郎の研覈によれば(注6)、朝鮮漢字音における平音/激音と中国原音の全清(無気音)/次清(有気音)はそのまま対応するわけではなく渾然としており、とりわけ唇音においては極めて不規則です(注7)。さらに牙音に至っては「快」쾌以外はすべて平音が宛てられていることなどから、河野六郎は韓国語には本来無気/有気の区別はなく、有気音=激音の発生は中国音の導入によって起こったという仮説を提示しています。
以上、前回から今回にかけて漢字音の問題をごく断片的に扱ってみましたが、漢字音の知識は日本語話者にとっての韓国語学習をより効率的なものにするだけでなく、韓国語史の研究にとって不可欠な教養です(注8)。最後に河野六郎の拳拳服膺すべき言辞を自戒の念を込めて引用しつつ、擱筆することにします。
「朝鮮の事を歴史的に研究しようとする時、必ず中国の事が問題になる。中国の研究それ自体厖大な仕事であって、それに中国というところは一寸垣間見る位では中々把えられないから、朝鮮の研究は一層困難を加えるのであるが、皮相的であっても、中国に関する知識があって始めて朝鮮も判って来るのである。言語に関しても同様である。」(注9)
(注1)「清濁」という概念は元々は中国の等韻学に起源します(さらに遡れば悉曇学に到達します)。
(注2)「清音/濁音」と「無声/有声」はそれぞれ異なる概念ですが、ここでは便宜上ほぼ同義で用いることにします。
(注3)中国語の声母は伝統的に大きく全清(無声無気音)、次清(無声有気音)、全濁(有声音のうち破裂音・摩擦音・破擦音)、次濁(有声音のうち鼻音・流音など)の4種に支分されます。唐代長安音においては全濁声母が無声化し、平声は次清、平声以外は全清に合流しましたが(それゆえ、日本漢字音の呉音においては中国原音の清濁が忠実に区別されているのに対し、漢音では全濁字も清音で現れます:e.g. 「勤」(ゴン~キン))、それ以前の中国語においては清濁の区別が歴然と存在し、現在でも呉語や老湘語においては古濁音体系が把持されています。上古音では、韻尾にも-b、-d、-gといった有声子音が存したとの立場も見られ、朝鮮漢字音における破音字(多音字)にはそれが反映されているとする説があります。例えば、「説」という漢字は설(<셜)とも세(<셰)とも読まれますが(열などといった字音は茲では措きます)、後者の-iは上古音の-dに由来すると推測されています。つまり、韓国語における「説」の2つの字音は、片や-t>-r、片や-d>-iという変化の帰結というわけです。また、形声(諧声)字間においても、-t>-rと-d>-iが対応するものが散見されます(e.g. 「列」렬:「例」례)。
(注4)なお、第7回の注11でも触れたように、百済は支配階級と非支配階級とで言語が異なる二重言語状態にあり、前者は夫餘系言語、後者は韓系言語を使用していたものと考えられます。ですので、大雑把に「百済語」と括ることはできません。
(注5)福井玲(2013)『韓国語音韻史の探究』(三省堂)参照。
(注6)河野六郎(1979)『河野六郎著作集 第2巻』、平凡社。
(注7)唇音については、中国原音における全清/次清の区別を示すよりも、音節によってㅂあるいはㅍが現れる偏りが強く、これを河野六郎は〈音節偏向〉と呼んでいます。前掲書、pp.406-415。
(注8)朝鮮漢字音についての一般書としては、菅野裕臣(2017)『朝鮮漢字音 入門と発展』(三修社)や伊藤英人(2025)『韓国語漢字音トレーニング』(白水社)が大変役に立ちます。
(注9)前掲書、p.297。



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