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「歴史言語学が解き明かす韓国語の謎」辻野裕紀

第21回 漢字音

Q:日本漢字音の「ガ」が朝鮮漢字音の아に対応することがあるのはなぜでしょうか。

A:日本漢字音、なかんずく漢音と朝鮮漢字音は、いずれも唐代長安音を母胎としているため(注1)互いに発音が似通っています。しかし中には、対応関係が直感的には分かりにくいものもあります。「我(ガ)」が아、「言(ゲン)」が언に対応するなど、日本漢字音の[g]が朝鮮漢字音では現れない例もそのひとつかもしれません。
 このような「g(日本漢字音):ㅇ(朝鮮漢字音)」という対応関係を示す漢字は、中国語前期中古音で声母(注2)として[ŋ](疑母(注3))を持っていたものです。古い日本語のガ行子音は軽微な鼻音を伴う[ŋg]のような音であったと推定されており、日本漢字音においてこうした疑母字はガ行で受容されました。一方、韓国語では語頭に[ŋ]が立つことはないので、朝鮮漢字音にあっては子音が現れない形、つまり子音ゼロで受容されました(注4)。日本漢字音の「ガ」が朝鮮漢字音の아に対応することがあるのはそのためです(注5)
 ただし、15世紀の文献で用いられた「東国正韻式漢字音」と呼ばれる漢字の読み方においては、疑母字の[ŋ]を옛이응と呼ばれる古ハングルの字母を用いて律儀に表していました。しかし、この表記は本来あるべき「理想」を示した人為的なものであり、当時のリアルな漢字音を反映していたわけではありません。韓国語学では、かかる人工的な東国正韻式漢字音に対し、実際の朝鮮漢字音を「伝来漢字音」と称して峻別します。

 ところで、中国語の鼻音声母は唐代(長安)に、[m]>[mb](明母)(注6)、[n]>[nd](泥母)、[ŋ]>[ŋg](疑母)、[ȵ]>[ȵʑ](日母)(注7)の如き非鼻音化現象(denasalization)を経たと考えられており、この変化は日本漢字音にも反映されています。日本漢字音には呉音、漢音、唐音といった複数の層がありますが、前陳の通り漢音は唐代長安音を基礎としているため、漢音における明母字はバ行、泥母字はダ行で現れます(注8)。翻って、呉音は5~6世紀頃の南方系の発音に由来するため、呉音における明母字はマ行、泥母字はナ行になっています。例えば、「馬」が「バ」とも「マ」とも読まれ、「女」が「ヂョ>ジョ」とも「ニョ」とも読まれるのはこうした事情に由るわけです。朝鮮漢字音においてはこれらは一貫してㅁ、ㄴに対応していますが、それは韓国語の鼻音[ㅁ][ㄴ]が[mb][nd]のように出わたりの閉鎖音を随伴しやすい音であるからです。現代語でも많이が「バニ」、네が「デー」に聞こえたりすることを想起すれば分かりやすいでしょう(注9)
 疑母字については、先にも述べたように日本漢字音ではガ行で現れますが、それは漢音か呉音かを問いません(e.g. 「語」(ギョ~ゴ))。漢音は非鼻音化後の[ŋg]、呉音は非鼻音化以前の[ŋ]が反映されたものと思量されます。
 そしてさらに面白いのは、日母字の発音です。漢音ではザ行、呉音ではナ行に対応しますが(e.g. 「日」(ジツ~ニチ)、「然」(ゼン~ネン))、朝鮮漢字音では[z]で受け入れ、ハングル創制後は第10回で触れた半歯音の字母で表記されていました。しかし16世紀に入って[z]という音が消滅するや、それに伴い子音ゼロに合流します。日母字の「z~n(日本漢字音):ㅇ(朝鮮漢字音)」という対応関係は、このような流れの中で誕生したものです。

 

(注1)朝鮮漢字音については、厳密にはいわゆる唐代長安音よりも若干遅い唐末の音を反映したものとする説が近年は有力です。
(注2)中国音韻学では伝統的に、音節を大きく「音節頭子音+それ以外」に分解し、音節頭子音を「声母」、それ以外を「韻母」と呼びます。また、韻母はさらに「介音+主母音+韻尾」に分けられます。
(注3)中国音韻学では各声母を指称するために、同じ声母を持つ漢字の中から一字を代表として選んで、例えば、[ŋ]は「疑」の字を使い「疑母」と言うのが慣習です。これは「三十六字母」という考え方に基づいています。
(注4)例外的に「験」험、「屹」흘などのようにㅎに対応するものもあります。
(注5)なお、疑母に由来する声母は現代北京音ではゼロ子音(「凝」「牛」などごく一部は[n])になっていますが、呉語などでは[ŋ]が保持されているようです。
(注6)明母に由来する声母は現代北京音では[m]になっていますが、閩南語などでは[b]の如き音で現れたりします。cf. ビーフン(米粉)
(注7)日母に由来する声母は現代北京音ではそり舌音[r](「耳」「二」などごく一部はゼロ子音)で現れます。
(注8)ただし、韻尾が[ŋ]のものには、鼻音のままにとどまって、漢音でもマ行・ナ行で現れる字があります(e.g. 「名(メイ)」、「寧(ネイ)」)。
(注9)第10回の注12もご参照ください。

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著者略歴

  1. 辻野裕紀(つじの・ゆうき)

    九州大学大学院言語文化研究院准教授、同大学大学院地球社会統合科学府言語・メディア・コミュニケーションコース准教授、同大学韓国研究センター副センター長。東京外国語大学外国語学部フランス語専攻卒業。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。誠信女子大学校人文科学大学(韓国ソウル)専任講師を経て、現職。専門は言語学、韓国語学、音韻論、言語思想論。文学関連の仕事も。著書に『形と形が出合うとき:現代韓国語の形態音韻論的研究』(九州大学出版会、2021年)など。
    (写真:©松本慎一)

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