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清岡智比古「映画の向こうにパリが見える」

第9回 1つの事件、3つの世界:『黒いスーツを着た男』

『黒いスーツを着た男』(2012) Trois mondes
監督:カトリーヌ・コルシニ
脚本:カトリーヌ・コルシニ、ブノワ・グラファン
出演:ラファエル・ペルソナ、クロチルド・エム

 
表紙絵:ふらんす2016年12月号 奥原しんこ  表紙写真: 神戸シュン  ブックデザイン: Gaspard Lenski et 仁木順平   

ふらんす2016年12月号
表紙絵:奥原しんこ  表紙写真: 神戸シュン  ブックデザイン: Gaspard Lenski et 仁木順平

 

1つの事件、3つの世界

 パリの夜更け、19区の人気(ひとけ)のない交差点で事故が起こります。メルセデスが、男性をはねてしまったのです。運転していたのは黒いスーツの青年。彼はあわてて車を降りますが、同乗していた仲間たちにそそのかされ、ついその場から逃げ去ってしまいます。ただ、実はその事故の一部始終を、自室の窓から目撃していた女性がいて……。

 というわけで、今回取り上げる『黒いスーツを着た男』(2012)には、たしかに陰のある空気が流れています。とはいえこの映画、パリを描いた作品としては外すことができません。描き出されるのは、まさにその原題通り、パリの「3 つの世界 trois mondes」なのです。

 あの夜ハンドルを握っていたアルは、パリ南郊パレゾー Palaiseau にある自動車ディーラーの社員です。ワーキング・クラス出身ですが、そのがむしゃらな働きぶりが認められ、勤め先の社長の一人娘と結婚することになっています。(次期社長、ということですね。)かつてアルの母親が、この社長の家で家政婦として働き、マダムのお下がりを着ていたことを思うと、ずいぶんな出世だと言えるのでしょう。母親が属していた階層からの「脱出」、それこそが彼の望みでした。

 一方、救急車で運ばれた男性は、モルドヴァ出身の不法移民だったことが判明します。彼はもう3年も、アスベストの飛び散るラ・デファンスの工事現場で働いていました。妻のヴェラもまた、いつ解雇されるかわからない状況で仕事を続けています。彼女は、「服を2着しか持っていなかった母親」のような人生を嫌い、「ヨーロッパ最貧国」とも言われる故郷モルドヴァを「脱出」し、夫とともにパリに降り立ったのです。夫婦が暮らしているのは、パリ随一の移民街バルべスの、ミラ通り68番地(68, rue Myrha)にある小さなアパルトマン。近所には、同郷の仲間たちも住んでいます。

 そして、事故のすべてを目撃した女性、医学生のジュリエットもいます。恋人である大学教員の子どもを妊娠している彼女は、彼と2人の暮らしに踏み出せず、今も、女友達とシェアしているアパルトマンに固執しています。そのこぎれいな部屋は、ビュット・ショーモン公園とラ・ヴィレット貯水池に挟まれた、ローミエール大通り39番地(39, Avenue de Laumière)にあります。高所得ではないにせよ、文化的には豊かな層が好む地域だと言えるでしょう。直線距離ならバルべスまで2キロほどですが、雰囲気はまったくちがいます。──この3組、パリ郊外のディーラーで働く青年、バルべスに住むモルドヴァ系移民、そして19区とはいえこじゃれた界隈に住む医学生、彼らそれぞれが象る「3つの世界」は、互いの存在などまったく知らないまま、パリという空間で隣り合っていたのです、あの夜、あの事故が起きるまでは。

 部屋を飛び出し、怪我人を抱き起したジュリエットは、やがてヴェラと親しくなってゆきます。(そこには女性性の交感が感じられます。)またジュリエットは、ついにアルを探し出し、なんと彼との間にもある繫がりを成立させます。自らの罪の重さに押し潰され、仕事も、婚約者さえも愛せなくなっていたアルにとって、罪を吐露できる唯一の相手、それが彼女でした。そしてラスト近く、アルはついに、ヴェラのもとに許しを請いに行くのです。(この2人が、ともに母親の階層を「脱出」するためにもがいてきたことを知っているのは、観客だけです。)

 1つ印象に残るのは、ヴェラの夫が結局力尽きてしまったあと、病院側がヴェラにその献体を求めるシークエンスです。彼女は訊くのです、「いくら払うの? モルドヴァでは、腎臓は30,000ユーロ、目なら8,000ユーロよ」。そして病院側が支払いを拒否すると、彼女は爆発します、「それがフランスなの! 夫を殺しといて、一銭も払わないで体をよこせって言うわけね!」

 この映画が、罪と贖罪を巡る物語であることは間違いありません。ただしその語り口の特徴はやはり、1つの事故から発火した物語が、3つの世界を巡り、さまざまな波紋を波立たせながら、いわば螺旋状に進んでいくことにあるのでしょう。だからこそ3人は、時に慰め合い、時に激しく対立し、またたとえば贖罪も、金銭の問題も、3つのモラルによって多重に問われることになるのです。

 互いにその存在を知らなかった3つの世界は、今や深く浸潤し合い、もはや切り離すことはできません。3つの街は、パリという空間の中で、見えない糸を絡め合ったのです。

◇初出=『ふらんす』2016年12月号

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著者略歴

  1. 清岡智比古(きよおか・ともひこ)

    明治大学教授。仏語・仏語圏の文化・都市映像論。著書『エキゾチック・パリ案内』『パリ移民映画』。ブログ「La Clairière」 http://tomo-524.blogspot.jp/

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