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「歴史言語学が解き明かす韓国語の謎」辻野裕紀

第5回 言語化石(1)

Q:《内外》を意味する韓国語として안팎という語がありますが、なぜ안밖ではなく、안팎なのでしょうか。

A:考えてみると、《内》が안、《外》が밖ですから、たしかに안밖でよさそうです。しかし、実際には안팎となります。なぜでしょうか。それは안が中世語では않だったからです。
 中世語の体言(名詞)には、形態音韻論的な語幹末子音として/h/を有する語がありました。そうした体言を「h曲用体言」(注1)と称します。h曲用体言は、単独形や属格助詞sの前では/h/が出現しませんが、母音や子音/t/, /k/で始まる助詞が付いた場合には/h/が顕現します。例えば、h曲用体言のtorh《石》(現代語の돌)は、tor(単独形)、tors(属格形)、torhi(主格形)、torhʌr(対格形)、torhai(処格形)、torhʌro(具格形)、torkhwa(共同格形)の如く曲用します。中世語には、こうしたh曲用体言が80余語存在したと言われています(注2)
 そして、안も中世語の段階ではh曲用体言のひとつであり、語幹末子音の/h/が直後の밖のㅂを激音化させて、팎となっています。つまり、現代語の안は語幹末に/h/を持たないにもかかわらず(注3)、《内外》という意の合成語の中には中世語の語幹末子音/h/が温存されているというわけです。合成語の中に古形が残るというのは汎言語的な現象でもあります。
 類例としては、살코기《精肉》や、先行要素を수《雄》、암《雌》とする一連の合成語を挙げ得ます。中世語で살はsʌrh、수はsuh、암はamhというh曲用体言であり、それゆえ、살코기、수캐《雄犬》、수컷《雄》、수탉《雄鶏》、암캐《雌犬》、암컷《雌》、암탉《雌鶏》といった語形になっているのです。伝統的なソウル方言には、하나이《ひとつが》、하나토《ひとつも》といった形が存在しますが、これも하나が中世語でhʌnahというh曲用体言であったことに起因します(注4)

 このように、言語変化の中で、その流れに浚われずに残存する何らかの痕跡を「言語化石」と呼びます。共時的に説明が困難な言語事象の多くは、言語化石と関係があると言ってよいでしょう。第2回で紹介した、햅쌀《新米》や좁쌀《粟米》のㅂも言語化石の一種です。p-系複子音が合成語の中で余喘(よぜん)を保っている例としては、他にも볍씨《種籾》、접때《この前》、휩쓸다《襲う》などがあります。中世語で씨《種》はpsi、때《時》はpstai、쓸다《掃く》はpsɨrtaであり、先行要素と後行要素の間に攙入(ざんにゅう)しているように見えるㅂは中世語の形迹です。そして、これらは結果的に、形態素境界を表示する現代韓国語の正書法の例外を生み出しています。
 함께《一緒に》、이맘때《今頃》にも、実はp-系複子音の化石的要素が含まれています。함께の中世語形はhʌnpskɨiでした。16世紀になるとhʌmskɨiという形で現れますが、/p/が脱落すると同時に、/n/が/m/に変化しているのが興味深い点です。すなわち、/p/自体は消失しながらも、その直前の/n/を/p/と同一調音点の鼻音/m/に同化させているわけです。また、이맘때は元々’i+man+pstaiに遡及するものですが、これもhʌnpskɨi>hʌmskɨiと同様に、/p/の脱落と平行して、/n/が/m/へと変移しています。かかる例は、/p/そのものが残存していないため、햅쌀などとは性質が異なり、햅쌀のㅂのようなタイプを「形式化石」、함께のㅁのようなタイプを「痕跡化石」と名付けて、両者を甄別(けんべつ)する所論もあります。

 また、가느다랗-(가늘-+-다랗-)《ほっそりしている》、싸전(쌀+전)《米屋》のように、ㄷ、ㅈの直前のㄹが脱落してそれが固定化した語が散発的に観察されますが、これも言語化石的な現象として位置付けることができるでしょう(注5)。古形そのものの痕跡が残っているわけではありませんが、「ㄹの直後のㄷ、ㅈの消除」という音韻規則が存在した時代の余映、すなわち「音韻規則の言語化石」だと推測されます。아다시피《知っての通り》にもこの音韻規則が適用されていますし(注6)、あまり意識されていないと思いますが、-다마다《~だとも、~のはもちろんだ》、-자마자《~するやいなや》、마지못하다《仕方ない》、-어 마지않다《~してやまない》などに含まれる마も말-のㄹがㄷやㅈの直前で脱落して定型化したものです。

 

(注1)名詞の語形変化を「曲用」、動詞(言語によっては形容詞も含む)の語形変化を「活用」と謂います。たまに「名詞の活用」などと書いてある教材を目睹することがありますが、完全に間違った表現です。
(注2)h曲用体言は、/h/の直前の要素が、母音か/r/の場合が圧倒的に多く、それ以外には/n/と/m/がわずか数語ずつあった程度です。語幹末子音/h/の濫觴は多くの場合、分明ではありませんが、漢語(中国語)からの借用語である、sjoh《俗人》、zjoh《褥》、tjeh《笛》、poh《襆、ふろしき》、cah《尺》などの/h/については、漢語北方方言の弱化した喉内入声韻尾[ɣ](<[g]<[k])を反映したものと考えられます。また、しばしばアルタイ諸語との比較対象とされるtorhの/h/は、kに由来するものと推考され(現代語の中部以南の方言にもtokという語形が見られます)、seih《三》、neih《四》の/h/についても、異形態sek、nekの/k/との関連可能性が指摘されています。
(注3)ちなみに、やや次元が異なる話ですが、現代語の体言で表記上ㅎで終わるものは、히읗の1語のみです。これは人工的な表記であり、本来ならば히읏と綴って然るべきものです。cf. 히읗[히읃]、히읗이[히으시]、히읗도[히읃또]、히읗만[히은만]
(注4)h曲用体言の痕跡としては、他に、땅(<stah)《地》や지붕(<cip《家》+uh《上》)など、外形的に/h/が/ŋ/に変化したように見える語がいくらか存在する点も指摘しておいてよいでしょう。また、類例として、東北方言(咸鏡道方言)のnaraŋ(<narah)《国》、済州道方言のpataŋ(<patah)《海》のような語もあります。
(注5)따님(딸+님)《お嬢さん》や마소(말+소)《牛馬》のように、ㄴやㅅの前でもㄹが脱落してそれが固定化している語も存在しますが、「ㄹ語幹用言+接尾辞・語尾」という構造では、現代語でもㄴやㅅの前でㄹが脱落するのは周知の通りです(e.g. 아는《知っている~》、아십니다《ご存じです》)。《松の木》を意味する語には、소나무と솔나무の2種類が共存していますが、理論上、前者は古形、後者は改新形と見做すことができるでしょう。
(注6)規範的には알다시피が正しいとされていますが、아다시피もよく耳にする表現です。

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著者略歴

  1. 辻野裕紀(つじの・ゆうき)

    九州大学大学院言語文化研究院准教授、同大学大学院地球社会統合科学府言語・メディア・コミュニケーションコース准教授、同大学韓国研究センター副センター長。東京外国語大学外国語学部フランス語専攻卒業。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。誠信女子大学校人文科学大学(韓国ソウル)専任講師を経て、現職。専門は言語学、韓国語学、音韻論、言語思想論。文学関連の仕事も。著書に『形と形が出合うとき:現代韓国語の形態音韻論的研究』(九州大学出版会、2021年)など。
    (写真:©松本慎一)

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