第16回 ソーシャルとビジネスを教育でつなぐ マレーシアへ
東日本大震災で帰国:30歳までのT字戦略
イギリスの大学院を卒業後、海外経験を積もうとイギリスと南アフリカの2か所の民間企業から内定をもらっていたが、東日本大震災が起こった。高校の時アメリカ留学に頑なに反対していた祖父の出身は宮城県だった。父も育った海に近い地域はすべて津波に流されてしまい、急遽日本で就職することにした。
「この頃、30歳までに国連に入るという計画を立てるとともに、『T字型』のキャリア構築が必須と知りました。横軸は、プロジェクトマネジメント、コミュニケーションなど汎用性のあるビジネススキル。縦軸は、専門性、知識など専門分野です」。
経営コンサルティング会社でこの両者を育むことを目指した。企業のサステイナビリティ(持続可能性)を推進する部門で、日系企業の新興国進出支援を担当した。途上国開発に関わる主要団体である国際金融公社(IFC)やJICAとも連携してやりがいはあったが、朝9時から翌朝の日の出まで働くハードワークが続き、新規事業をクライアント企業に提案しても公的資金を活用した調査で満足してしまい実行されないことが多くもどかしかった。
再び国連へ
この頃、UNHCRの人材募集が出た。当初は3か月契約だったが、国際機関に戻りたい気持ちで応募し、無事採用されたのはちょうど30歳だった。
民間企業勤務を経たことで、国際機関のよさが痛感された。働く人が大事にされ、また平和構築に取り組むことそのものが目的だ。紛争地など困難を抱える国から日本へ逃れてきた難民、庇護申請者と呼ばれる人たちが、日本社会で安心して暮らせるよう法務部で社会統合を主に担当した。例えば、自治体の住民票から漏れていた人に子どもの予防接種のお知らせが届くようにするなど地道な業務を積み重ねた。
「日本全国を回る中で出会った知事や市長など政治家の方々は市民の暮らしに真剣に向き合っている方ばかりで、公務員も純粋に公益のためを思い地道に尽力されていました。困難な状況にある人たちを支える弁護士の真摯な姿にも心を打たれました」。30代でやりたかった仕事を手にした喜びは大きかった。
UNHCRのトップとして世界と向き合った緒方貞子氏との貴重な現場でのひととき 香純さん提供
マレーシアとの接点、転職から起業へ
UNHCRで、ミャンマーからマレーシアに退避した難民が、第三国定住という日本政府が実施している人道支援の枠組みを使って来日した後の定住支援を担当したのが、マレーシアとの初めての接点だった。2017年には、プライベートの旅行で初めてマレーシアを訪れた。首都クアラルンプールと、東マレーシアのコタキナバルを訪れ、美しい都市と自然のある国だと思った。
UNHCRが世界中の社会的企業と連携し、難民が故郷で培った技術やデザインを生かしてものづくりを行い、安全と尊厳をもって生活が送れるよう後押しするMADE51プロジェクトが立ち上がるなか、マレーシアの社会的企業 Earth Heirと出会う。同社は、アメリカの大学から投資銀行を経たバリバリのキャリアウーマンのマレーシア人女性が創業した会社で、UNHCRのアジアで最初のパートナー企業となった。オランアスリ(少数民族)や低所得の女性、障がい者など社会的弱者を雇用し、伝統文化や自然を活かした美しい素材でバッグやアクセサリーなどの工芸品を生産し、クアラルンプールやオンラインショップで販売していた。
Earth Heir社の経営理念やデザインに惚れ込む中で、やがて「うちに来ませんか」とオファーをもらい、3年半勤めたUNHCRを離職した。同社の3人目の社員として入社し、マレーシアに渡った。デザインはプロボノ(プロが無償で専門的なスキルを提供すること)のフランス人デザイナーが手掛け、香純さんは、UNHCRとタッグを組んだ商品開発の立ち上げに力を注ぐ。商品開発から、顧客に販売する具体的な販売チャネル構築、職人の心理的・法的・医療的サポートの立ち上げを手掛けた。売上も伸び、同社のような社会的企業は、働く人の尊厳を取り戻せると確信し、仕事にのめり込んだ。
少し前に日本で個人の活動としてR-Schoolという企画を立ち上げ、難民を含む外国人、アーティスト、作家、企業のCEOなど国籍もライフスタイルも異なる様々な立場の60人が集い、未来の共創を目指して学びあう2日間のワークショップを開催した。異なる才能を結びつける力、創造性やチームワーク、自己表現など様々なスキルを養成するもので想像以上の反響があった。後日、運営委員のひとりだった品川優さんがこの活動をベースに本格的に起業したいと日本から連絡をくれ、マレーシアを担当する形で株式会社アンナハルの共同創設者となった。これまで手掛けてきた点と点、すべてがつながった感じがした。
Facebook社のソーシャルインパクトイベントにおいて、職人たちの物語を説明しているところ 香純さん提供
なぜマレーシアか
翌年、Earth Heirでの役割を終え離職することになったが、マレーシアのよさが忘れられなかった。「30か国以上を訪問してきて、なぜ今マレーシアかといえば、むしろやりたくないことを書き出したんです。第一に、冷え性なので寒い国は除外しました。二番目に、お酒を一切飲まないので、飲み会カルチャーのない国に住みたかったです。三番目に、満員電車に乗る必要がない町です」。
「マレーシアに来て実際に暮らしてみて感じるのは『Beauty of Chaos』、混沌の美しさです。洗練されて開発された都市のすぐ路地裏に、未開発の地域が広がる対照的な風景が好きです。開発学を学び、バングラデシュなど発展途上国にも住みましたが、お洒落なカフェがあって、医療も進んでおり、地理的にもさまざまな国の友人と会いやすい場所であることは、大きな魅力でした」。他愛ないことに聞こえるかもれないが、ストレスや不安にさらされやすい海外暮らしを維持する現実的な秘訣だろう。
「2020年2月に愛さんにお会いしたころ、少し前に選抜されたオバマ財団フェローとしての記事が日経新聞に掲載され、また日本でアンナハル社の立ち上げに共同創設者の一人として参画し、強い追い風を感じていました。しかし、その直後にコロナ禍が始まり、予定されていたマレーシアでの仕事もすべてキャンセルになり、さらに子宮関連の手術も経験し、心身共に大変つらい時期を経験しました」。
「いつ収束するかもわからないコロナ禍で、起業のビジネスモデルだった対面の研修や海外渡航が一切不可能になりました。苦しい中、起業をいったん脇に置いて、海外で自分のビジョンが叶う仕事として、バングラデシュ日本大使館の仕事を得ました。バングラデシュは日本のODAの最大供与先国で多様なニーズがあることに加え、前例のないコロナ禍の緊張感の中で最前線で仕事に取り組んだ2年間は、非常にやりがいのある経験でした。生活自体は外交官が多く住む高級住宅街で、ダッカはアートや文化も豊かで住みやすい面もありました。一方で、治安の懸念から公務時は必ず銃を持った警備員が随行する、夜は出歩けないなど非常に精神的負荷のかかる面もありました」。
その任期がちょうど終わり、2022年10月に日本の高校生の海外研修の業務で、香純さんは数年ぶりにマレーシアを再訪した。続けて一人旅で国内各地を訪れ、改めて魅了される。
「美味しい食材が当たり前に買えて食べられる、肌を見せる自由な服装を着られる、女性が一人でバスや電車に自由に乗れるといった当たり前のことが、大変価値のあることと感じられました」。バングラデシュでは制限されていた生活上の様々な点だった。
「特に、朝ごはんを近所の気軽な屋台やカフェテリアのような店で外食する雰囲気も大好きでした。地元のおじさんおばさんたちが麺やおかゆを朝から仕込み、近所の常連さんがワイワイ食べに来るんです。涼しい爽やかな朝に笑顔で同じテーブルを囲み、賑やかな光景が繰り広げられ1日が始まります」
マレーシアのお気に入りのニョニャ料理店で友人たちと 香純さん提供
結婚、パートナーシップ
同年、現在のパートナーのJさんと出会ったのも、鉱山の街で知られるペラ州イポーの朝ごはんの場だった。海老麺の店で話が弾んで仲良くなったことがきっかけで、交際期間を経て、翌年、38歳で結婚した。もともと結婚願望は皆無で、自分の情熱を傾けられる仕事に打ち込み、機会があれば身軽に拠点を変えてきた。結婚によって姓が変わるのも嫌だった。しかし、気丈だった父親が癌になり、初めて「結婚などは考えているのか」と正面から聞かれ、「海外を転々とし自分の道を追いかける自分は親不孝なのか? と悩みました。結婚を初めて真剣に捉えた出来事でした」。
Jさんは純真で誠実さを纏ったイポー出身の中華系マレーシア人で薬剤師だ。国際結婚なら姓も変えずに残せる。Jさんの両親は、敬虔なクリスチャンで、自営業を経営する傍ら身寄りのないお年寄りのために無償で老人ホームを運営していた。ビジネスと社会貢献の両面を目指してきた香純さんの生き方とも重なった。
「経済的には自分の仕事で自立しているため、結婚相手の経済力に頼ることは考えませんでした。お互いの人柄や、素の自分でくつろげるかを重視しました」「クリスチャンの友人たちの勧めもあり、結婚前にお互いのライフスタイル、お金、子どもなど価値観について約300の質問に答えるマリッジカウンセリングを行いました」。この人なら困難な日々も一緒に楽しめそうと思い、結婚を決めた。
レジリエンスを大事に:ミッドキャリアクライシスを超えて
「これからもマレーシアに長く暮らすつもりです」
現在の香純さんの仕事は、一つが、マレーシアで起業した会社INCANDI(http://incandi.org/)で、海外からの中高大学生向けに共創型の探求学習研修をマレーシア現地やオンラインを通じて提供する国際教育業務、もう一つが個人として気候変動や自然災害に強い都市づくりを推進する世界銀行等のコンサルタント業務という2本柱だ。
「人生に大切なことはレジリエンス、心のばねと思っています。自分のやりたいことを見据え、変化や逆境があってもしなやかに道を切り拓くことです。理不尽な境遇にいても、逞しく自ら持っているものを最大限活用し、他者を思いやり、行動し続ける生き方は、難民であったリーダーたちから学びました」。彼らを弱者と捉えるのではなく、逆に豊かな人間力を持った講師として、私たちこそ学ばせてもらう。そんな発想の転換を教育事業にも取り入れ、日本の中高生らを鼓舞している。
前向きな香純さんも、最近さらなる試練を経験していた。「昨年2024年、年齢を考えて不妊治療に踏み切りました。仕事を減らし、出張のない業務のみに絞りました。そして、ミッドキャリアクライシス(キャリアの中盤でやりがいを見失い悩むこと)に陥りました」。治療の影響で体調の変化が激しいことに加え、これまでのように国際機関でポストを探して自ら海外に転勤する仕事最優先の姿勢から、いわゆるワークライフバランスへシフトした変化が心身に堪えたのだ。そして、2024年11月不妊治療の努力が実らず、赤ちゃんを失い心身ともに力を失ってしまった。
それでもギリギリのところで心が折れなかったのは、お互いを支え合う相互サポートのコミュニティがあるからだ。その一つである米国オバマ財団の仲間たちは、各国でリーダーと呼ばれる輝かしい経歴を持つが、話してみると彼らにもそれぞれに悩みがあった。「日本だと『人に迷惑をかけてはいけない』や恥の文化があり、自分の悩みを押し込めることがありました。でも、自分が抱えている悩みは誰にでも起こることで、共有することで救われることに気づきました。レジリエンスを高め、希望に向かう行動を応援してくれる仲間がいることは宝物です」。
最後に、座右の銘を教えてくれた。「未来を予想する一番の方法は、自ら未来を創り出すこと」と。
「一般的に日本人らしいといわれる価値観は持っていないかもしれないですね」と苦笑する行動派の香純さん。猛烈に行動した20代、理想の仕事を得た30代、そして最近マレーシアで生き方をシフトした。アジアの人たちとのつながりで得たレジリエンスを軸に、これから仕事も家族も、ときには弱みを見せながら、大事に育んでいくのだろう。この地で彼女らしい ”being”を見せてくれるに違いない。