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「越境する日本人 ~海外移住する日本人から読み解く、生き方・働き方・育て方~」後藤愛

第13回 ハラル食を日本から、ムスリムの市場へ

出会い

 有馬さん家族とは、お互いに次男が同じ近所の保育園に通っていた縁で、知り合いになった。モントキアラ地区にある、マンションとレストランとホテルが一体となった高層ビルの一角にその保育園はある。通ってくるのは、近隣に住んでいる国際色豊かな1歳半から6歳までの子どもたちだ。
 長身長髪の細身でロングスカートが似合う妻の友香さんと会話をするようになり、やがて有馬さんの長男が保育園を卒業し、我が家の長男と同じインターナショナルスクールに通うようになって、お互いの長男と次男が、同じインターと保育園にそれぞれ通っている状態になった。必然的に顔を合わせたり話をする機会も増えた。
 「マレーシアのスーパーでも売ってる豆菓子を作っている有馬芳香堂という会社の方らしいよ」とママ友から知らされるまでさほど時間はかからなかった。
 「創業100周年の行事があるので、しばらく日本に一時帰国します」と聞いたとき、「伝統のあるおうちなのだな」と思うとともに、その方々が今、マレーシアにどのような思いで来られているのかを知りたくなった。
 次男同士はサッカーチームでも同じになり、週3回の練習と週末の試合の送迎で、また顔を合わせ、お互いが送迎を助け合うようにもなった。「家庭内での移住の推進役は夫なので」ということで、2024年11月に有馬幹人(ありま・よしと)さんにお話を聞かせてもらうことになった。
 自分で意思決定して、マレーシアへ来られたことは分かっていたが、話を聞くうちに、ムスリムとのあたたかいつながりや、食品への熱い思いが見えてきた。

マレーシアの国民食であるナシ・レマ。ココナツミルクで炊いたご飯に辛いサンバルソース、揚げチキン、ゆで卵などを添え、バナナの葉の上に載せてある。これはお米をバタフライピーの青い花で色付けして彩を添えたもの。著者撮影。

初めてのイギリス留学:苦労しつつもアジアの友人と心を通わせる

 有馬さんは1983年生まれで神戸市出身。現在は、主にハラル食品事業をマレーシアで展開し、かつ妻と子ども2人を連れて移住・起業されているという点でユニークだ。実はさらにマレーシアを中心にムスリムの間ではインスタグラマーとしても知られている。
 海外との接点は、高校時にロンドンのパブリックスクール(私立校)に1年間、大学時にニューヨーク州バッファロー(ニューヨーク州立大学バッファロー校)へまた1年、留学したという原点を聞かせてくれた。
 1998年の高校2年時、ロンドンにある1700年代創立の私立校と、有馬さんの母校の甲南高校が姉妹校提携を新たに結び、生徒1人が1年間留学できる制度ができた。当初強い興味もなく、そのお知らせの書類を捨てたのだが、親がゴミ箱から拾い上げて応募していた。結果的に選考に通り、単身でのイギリス留学が決まった。
 幼稚園から大学までの一貫校で、内部進学の生徒が多い中、高校受験で入学していたから英語には自信があったが、イギリスではやはり苦労した。
 「香港、シンガポール、ブルネイなどアジアからの留学生は、母国でも英語を公用語として普段から使っているわけですから、同じ留学生といっても日本から来る場合とは英語力が格段に違うんです」。特にヒアリングは、日本で習っていた英語はアメリカ英語だったため、ブリティッシュ英語には馴染みのない単語や言い回しも多く苦しかった。3か月ほどで少しずつ馴染めるようになった。
 当時まだスマートフォンはなく、国際電話を安くかけられるテレホンカードを市内の店で購入し、ときどき神戸の実家に電話をしていた。
 「将来への大きな目標があったというよりは、とりあえずやってみようという気持ちでした」「英語力や孤独な留学生活への覚悟も、実際に行ってみるまでほぼできてなかったと思います」。長期的な戦略というよりは、好奇心に素直に、目の前のチャンスに飛びついたものだったのだという。
 「イギリスの学校についての事前情報がなかったことでも苦労しました。たとえば、今なら皆がハリーポッターで知っている『ハウス』と呼ばれる学内の縦割りの生徒のグループ制度も留学当初、意味がまったく分からなかったんです」。
 そのような不利な状況から、やがて得意なサッカーを糸口に友達を作っていった。「不思議と、日本に帰りたいとは思わなかったです」。大変だが、ここでやり切ろうという気持ちはぶれなかった。加えて野球を一緒に楽しむグループを立ち上げ、行動によって友達の輪を広げて居場所を作っていった。
 スマホが当たり前の現代なら、高校生の留学は母国の友人とも常につながりながらになるだろう。しかし当時の留学は、日本から遮断され、馴染みのない環境に身一つで飛び込むものだった。
 ロンドンのピカデリーサーカスにジャパンセンターという日本関連物品を扱うお店があった。ときどきここで日本の雑誌を見たり、日本の物に触れるのを楽しみにしていた。逆に言えばそれ以外は日本人や日本語に触れずに過ごした1年間だった。「ここで海外の地でもやっていけるという感覚を持ったんです」。
 1年後、日本に戻り、2002年に内部推薦で甲南大学のEconomics Business Administration (EBA)(現、マネジメント総合学部)という少人数課程(1学年30人)に1期生として入学した。大学時代は、ボードセイリング部で部活漬けの毎日だったが、大学2年生の夏から学年30人全員でアメリカのニューヨーク州立大学バッファロー校に1年間留学した。
 この時も、「海外で何としても! といった悲壮感とかはなく、遠くまで見えている感じではなかったんです」と目の前の道を自然体で歩み出した当時を振り返った。1年間の留学期間を終えると帰国し、卒業直前の4年生の3月まで部活に没頭した。

クアラルンプール中心部の独立記念広場にあるスルタン・アブドゥル・サマド・ビル。マレーシアがイギリスの植民地であった1897年にイギリス人建築家によって建てられた。イスラム様式を取り入れつつ中央の時計台はロンドンのビッグベンをイメージしたと言われる。イギリスの歴史的な影響を可視的に示す遺産だ。(著者撮影)

就職、創業社長を身近に学べる会社へ

 有馬さんの実家は、神戸で100年続く老舗の豆菓子店だが、最初の就職は、福井県の商社へ。普通にリクナビで検索して、就職活動をした。この会社は、同族経営企業で、創設100周年を迎えており、当時有馬さんの実家は創業83年。少し先輩にあたるこの会社で、会社経営を学ばせてもらおうと考えた。この会社はその後、JASDAQ、東証2部、東証1部へと上場していった。そのような創業家の方々の働き方や、やるべきことに関心を寄せていた自分がいた気もしている。
 「英語は、特技ではなく、あくまで手段」「英語を話せる人はいくらでもいる」「それで目的をもち何をするかが最も大事」
 留学時代にイギリスで働く日本人の方から聞いたこれらの言葉が、日本で働きながら、ときどき頭の中に響き、やがて自分の言葉にもなっていった。英語を使って、海外で何かしたいという思いはこの頃に種が撒かれていた。
 就職して2年ほど働いたころ、2007年の節分の日に祖父が他界した。「実家は豆屋で、節分の日に祖父が他界したのです。特別な思いがありました」。自分もいよいよ自分なりの道を模索していかなければならないと思った。
 ビジネスを学び直すために、2008年4月に一橋大学大学院商学研究科(経営修士号、MBA)に入学。東中野に弟と一緒に住み、中央線で国立キャンパスに2年間通った。
 大学院では、今まで育つ中で会わなかった人たちと会った。真面目で、学問や勉強に真摯に向き合っている人が多く、大学3年生から飛び級して大学院に来る頭の切れる人と出会えたことが大きな刺激になった。

実家の家業に就職

 2010年、27歳で神戸に戻り、家業に就職した。最初の1年間は工場勤務して製造を担当。
 1921年、曾祖父の代で創業。曾祖父は東京の人だったが大学卒業後、神戸税関の職員として働いていた。バター味ピーナッツのバタピーを、妻である曾祖母が売っていたが、当時は公務員の配偶者は就労禁止という規定があった。妻が仕事を辞めるか、公務員を辞めるかという選択を迫られ、曾祖父は仕事を辞めて夫婦でこの豆のビジネスを始めた。祖父の名前から取って、有馬芳香堂が誕生した。豆専門店として、ピーナッツ、大豆、アーモンド、クルミ、ピスタチオなどを扱った。最初は一般消費者に売る小売りで、2代目の祖父の代にスーパーに卸す卸売業に発展した。
 戦争中、祖父の兄がフィリピン沖で戦死するなど困難を潜り抜け、商売を続けてきた。神戸は国際的な都市で、中華街もあり、在日コリアンも多く、インターナショナル校もある国際色豊かな都市だ。P&G社やイーライリリーといったグローバル企業の日本法人もある。
 製造の仕事を1年間行った後、営業へ。工場での製造は、硬い大豆を水につけてふやかして製品化する過程や、消費者の目を引く包装、そして出荷作業と一通りの工程を手掛けた。
 その後、営業に移ると、新しいことを手掛けるべく、高級スーパーの新規開拓に全国を回り、東京中心に取引を拡大させた。家業という場で自分の能力を活かし、伸び伸び仕事をしていた。
 いよいよ海外に目を向け始め、アメリカ、香港、マレーシアなどが視野に入ってきた。単純な輸出は難しいと感じていた。現地生産の競合商品は、現地の人の口に合い、価格も抑えられる。輸出するなら、日本らしさを全面に打ち出したものがいいのではないだろうかと考え初めていた。
 この頃、神戸で現在の妻である友香さんと出会う。三宮のスターバックスで待ち合わせをしたのが初対面だ。友香さんは、「この人と結婚するかもと思った」。幹人さんは「素敵な人だから、次もまた会いたい」と思い、そこから交際が発展した。
 友香さんと出会ってから偶然、彼女の父親が食品業界の有名企業の幹部であることを知った。共通の知り合いや取引先も多く、素晴らしい方として知っていた。友香さんは出会った当時30歳で、最初から結婚を意識したといい、幹人さんは28歳ながら生涯の伴侶を探したい気持ちがあった。1年半くらいの交際を経て、2014年に結婚。周囲からも「あの親の息子・娘さんなら」と祝福された。翌年と3年後に長男次男を相次いで授かり、2019年の年末に夫婦と4歳、1歳の子ども二人を連れてマレーシアへ家族で渡った。
 日本にいたら、これまでの延長線上に生きていくことになるのかもしれない。思い切って海外に出て、そこで自分だからこそやれることを開拓してみたいという気持ちがあった。海外では、当然ながら誰も自分のことを知らない。外国人の1人にすぎない。外国人であることがハンディにもなるが、現地の人たちと異なる背景を持つ自分の強みにできる可能性もある。そんな新しい挑戦に家族も巻き込んで取り組むことにした。
 コロナ禍が始まる2020年の前年に、すでに国境を越えていたのは、後から見れば幸運なことだった。

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著者略歴

  1. 後藤愛(ごとう・あい)

    1980年生まれ。一橋大学法学部(国際関係論専攻)を卒業後、2003年独立行政法人国際交流基金に入職。2008年フルブライト奨学生としてハーバード大学教育大学院教育学修士号(Ed.M。国際教育政策専攻)取得。2012年から2017年同基金ジャカルタ日本文化センター(インドネシア)に駐在し、東南アジア域内と日本との文化交流事業に携わる。2021年同基金を退職し、現在マレーシアでCHANGEマイクログラント(https://changemicrogrant.org/)活動に携わる。家族は夫と子ども3人。

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