第5回 大学中退、20代で起業。芸能プロダクション経営者は、次の居場所を海外に
別れ
「実は私最近、夫を亡くしたんです」
マレーシアの乾季の明るい日差しが差し込むマンションの共有部の部屋で、藤原マリエさんは唐突に切り出した。
2023年9月。ある平日の朝、私たちは子どもたちが同じイギリス式インターナショナルスクールに通っていることから、日本人保護者何人かで集まり、翌月以降の国連デーなどの学校行事に提供する出し物について相談していた。
インターナショナルスクールでは、年に数回こうした行事がある。学校の多文化と多様性を皆で盛り上げる機会であり、保護者にも出身国の文化や料理をふるまうといった積極的な貢献が求められる。
海外での日本人との付き合いは、ときとして難しく、煩わしく感じる人もいるようで、その感覚は人それぞれだ。日本人保護者の有志でこうした機会に集まって、一緒に活動するのは、なかには気兼ねをする人もいるが、私は概ね楽しく、コミュニティづくりに関われるので、幹事のような役割を担っている。コミュニティ感を高め、子育て全般について情報交換をしたり、子どもたちの学習と生活の環境を整えることにもつながる。
こうしたイベントで、日本のいったい何を、多国籍の保護者や生徒や教師陣にアピールするのかを考えるのも、なかなか面白い。言ってみれば、国際的な学園祭に保護者も当事者として出店できるというものだ。
インターナショナルスクールで各国の保護者が飲食物を提供する行事の様子。生徒や保護者が自分たちのコミュニティの多様性を実感する日だ。(著者撮影)
マレーシアで公立校や私立校は1月から新学年だが(コロナ禍以降3月にずれ込んでいるが)、各国式のインターナショナルスクールはそれぞれの母国の学校のカレンダーに合わせて運営されている。たとえば日本人学校は4月が新学年の始まりで、イギリス系は8月半ばから、アメリカ系は9月からといった具合だ。イギリス系インターナショナルスクールに子どもを通わせていると、学校が夏休みになる6月下旬から8月頭まで日本滞在をし、8月にマレーシアに再集合して再開するというパターンが多い。
半年ぶりに顔を合わせた私とマリエさんは、お互いの近況報告をしていた。明るいオレンジ色の夏らしいワンピースに、ふんわりボブスタイルの髪型に大振りのピアスという元気印のファッションに身を包んで、いつもと同じく活気に溢れつつ落ち着いた笑顔の彼女から、冒頭の言葉が発せられた。
見ているものと聞いたことのギャップに、「え」の二の句が継げず、「それは……ご愁傷様です……」と返すのがやっとだった。
それまでもエンターテイメント関連のお仕事をされてきたことや教育目的でマレーシアへ来られたことをおおざっぱに知ってはいたが、マレーシアへどのような思いで来られたのか、夫婦でどのように決断されたのか、このお話はぜひ連載で紹介させてほしい! という思いで胸が熱く火照った。日を改めて、インタビューをお願いすることになった。
9月から10月にかけて、ちょうど季節がめぐり、乾季から雨季に戻るころ、お話を聞くことになった。
いま、歴史の転換期という認識
「歴史的転換期に来ていると思っているんです。」
インタビューの日、大振りのピアスを揺らしながら、目線に力を込めて、身を乗り出してマリエさんはこう切り出した。マレーシアの昼間の強い日差しを反射したカフェのテーブルがいよいよ眩しい。
「経済が豊かになりすぎて、頭打ちになり、次の価値観を探しているころに、コロナが始まりました。私は東京でスタジオ運営や舞台のプロデュースなどの会社を経営して17年目だった2022年、マレーシアへ移りました。経営も軌道に乗り、日本では順調でしたが、このままでいいのかという疑問符が頭から消えなかったんです。」
2017年に、視察でマレーシアを訪問。マリエさんは当時2歳だった娘の教育も考え、海外で暮らすことを思い立ったのだという。他に候補地だったハワイも訪問し、事前にあまり細かい条件や情報を入れすぎず、直接自分の目で見て決めてみようと考えたという。「感覚的な感じです。それでも教育環境の良さは重視しました。」
「日本の教育は、こうあらねばならないと教えることが多く、言うことを聞くいい子ちゃんを量産するような仕組みです。枠組みからはみ出ることはよしとされません。」そんな日本の教育に、自分の娘を入れて良いのか、悩み考えた末、海外という選択肢を模索し、実現に向けて動くことにした。
「当時娘は2歳。私の子ども時代を振り返ってみると、他者目線の選択を繰り返し、自分の本音を置き去りにしていた時期があったと感じました。本来の自分から離れていった感覚です。」そのまま日本にいたら、娘が自分と同じ道をたどる気がした。そうではなく、自分のポテンシャルを最大限生かすような人になってほしいと考えたのだという。
話しながら、マリエさんと私の声が重る瞬間があった。それは、一人ひとりの人間が、誰かや世間の言うまやかしの「あるべき姿」に縛られることなく、自分らしく開花して本人が生き生きと暮らすことで、そうした個人の集合体としての社会にも還元され、社会の発展や多様化や豊かさにつながると信じているという点だ。そのような考えに至るには、どのような半生があったのだろうか。話は生い立ちにさかのぼる。
10月にインドの灯の祭り「Deepavali(ディパバリ)を祝うマレーシアのインド系市民。各民族の祝日が国民の祝日として尊重され、それぞれ伝統的な形で祝われている。(マリエさん撮影)
生い立ちと、大学中退まで
日本が80年代後半のバブル景気に入る数年前。マリエさんは浜松に生まれ、東京で育った。父は佐賀県出身、労災病院に勤める公務員。母は主婦で、しつけには厳しかった。その一方で、物心がつく前が感性が最も敏感だと、年に数回海外旅行に連れ出し、ヨーロッパを筆頭に、南アフリカ、ブラジル、ペルーなど、日本から遠く、異文化な国々で現地の文化芸術や建築などを見て回った。幼少期に目にしたものが糧となって、その後、舞台など芸術に関わる自分の素養になったと感じているという。母はそうした広い世界を見せてはくれたが、しかし最終的には、「女性の幸せは、いい学校に通い、いいところに就職して、お給料の高い人と結婚して家庭に入る」という一世代前の価値観を固く持っていた。
子ども時代のマリエさんは自由奔放な性格で、幼稚園では脱走癖があり何度も教室を抜け出しては先生が追いかけた。朝礼や集会といった集団行動が苦手だった。
中学で赤坂にある中高一貫の山脇学園に入学。この時期に、劇作家である鴻上尚史さんの作品に出会い、こんな世界があったのかと感銘を受けた。立教大学に進学後、早稲田大学の演劇研究会に所属した。自由に表現することや、作品を通じて人々の人生に彩りを与えることができる演劇の世界に喜びを感じる一方、親からの束縛を重たく感じ、親に一言も相談せず、大学に退学届を提出して、大学中退した。
両親を悲しませることは分かっていたが、このままでは敷かれたルールの上を進むことから抜け出せなくなると感じ、自ら退路を断った。大学卒業に向けて時が流れると、当然、就職活動や会社員にいう選択肢が大多数の歩む道として浮上してくる。そのため、「学歴をあえて捨てたんです」。「最終学歴は、高校卒」。これで、自分の持つ才能と能力だけで勝負をしようと覚悟を決めた。他人が思う自分の幸せとは違う、自分が思う自分の幸せを追求したかった。
「そういう選択は、怖くないんですか?」と聞くと、「いつだって怖いんですよ。石橋を見ないで走って渡る感じです。」「それでも、漢文の授業で習った『鶏口となるも牛後となることなかれ』を座右の銘として心に刻み、一般的に世の中からよしとされる会社への就職ではなく、自分の道を行くことを選びました。」
就職氷河期を超えて
時は就職超氷河期と言われた2000年代頭。調べてみると、就職氷河期は、内閣府の定義では1993年から2004年を指し、一般的に大きな経済危機の後10年程度は若い世代の就職難で失業率が上がるという傾向が世界的にある1。日本の場合は1990年前後のバブル崩壊を受け、そこから10年以上、若い世代の就職が困難であった。さらに1990年代後半から2000年頃は「超」氷河期と称されるほど就職活動が厳しかった時代である2。
私たち就職氷河期世代は、社会に出るときにそれそれが苦しい思いをしている。私が就職活動をした2002年にアドバイスをくれた、東大法学部卒の女性は言った。「就職活動は、これまでの受験勉強や大学での単位取得とは比べ物にならない厳しいものです。何しろ、何度も、もしかしたら何十回も断られ続ける経験をして、一つのYESすらもらえない真っ暗なトンネルを潜り抜けなければならないのだから。私もそうでしたよ」と。彼女は最終的に民放テレビ局の報道部門に就職しキャリアをスタートしているが、相当の苦労をした。
私自身は、大学3年次のアメリカ留学中に、日本人留学生の就職活動の場として有名なマサチューセッツ州ボストンで開催されるボストン・キャリアフォーラムに足を運んだが、時は2001年同時多発テロ直後のアメリカで、通常は180社程度という参加企業が、約3分の1の60社程度しか参加していないと聞いた。学生は通年と同じ程度の数が参加していたから、面接はおろか、履歴書を渡すのに至るのも一苦労で、結果は散々だった。専攻が、国際関係論という民間企業セクターで職業に直結する具体的なもの(たとえばマーケティングや会計学など)ではなかったことも、苦労の一因だった。
大学4年次の5月に日本に帰国してから、留学帰国組など向けに遅めの就職活動を受け入れている企業十数社にエントリーシートを提出するも、お断りのメールが次々と来た。面接に進んだのはわずか数社。民間企業からは内定が出ず、国際業務を行う日本の公的機関の2団体から内定をもらい、かろうじて自分の興味関心と職業的可能性の重なるところで社会人生活を始めることができたが、九死に一生を得たようなギリギリの思いだった。職業として成り立たせるために、自分の情熱ややりがいの在り処は脇に置いておいて、とりあえず内定をもらえた企業へ就職していった人たちもいたし、より広く見渡せば、就職の機会を逃して正社員となる入口から離れた人たちもいたことから、やがて現在までに「就職氷河期世代」の問題として内閣府など国に認識されるまでになっている3。
このように就職活動をめぐる状況が厳しいからといって、彼女のように大学中退して起業するという勇気と実力をもつ人はなかなかいない。私の周りでも、何か人と違うことをしたい人たちは、起業家輩出の多い企業へ就職したり、外資系やベンチャー企業と呼ばれた新興系企業へ就職する人が多く、最初から起業という友人はいなかった。私の周囲にいなかっただけかもしれないが、それだけ珍しいことだ。マリエさんの自己決定力と行動力には目を見張るものがある。さらに、起業してもそれはスタートに過ぎず、継続して成功できるかはわからない。
こうしてマリエさんは、演劇に携わった経験を活かし、23歳で俳優やアーティストの卵と言われる人たちの経済的な基盤の提供を目的とした人材派遣会社を設立。最初から社長として社会人生活をスタートすることになる。そこには、日本のITバブルとその崩壊、ほどなく訪れるリーマンショックという時代が待ち受けていた。同時代を生きる彼女の仕事と家庭の挑戦を、続きは後半で紹介していこう。
注1 「日本経済2019-2020 人口減少時代の持続的な成長に向けて」第2章第2節1景気変動と就業機会:「就職氷河期世代」の背景 内閣府
https://www5.cao.go.jp/keizai3/2019/0207nk/pdf/n19_2_2.pdf
注2 就職氷河期(ロスジェネ)世代とは? 株式会社カオナビ
https://www.kaonavi.jp/dictionary/syusyokuhyogakisedai/#:~:text=%E3%80%8C%E5%B0%B1%E8%81%B7%E6%B0%B7%E6%B2%B3%E6%9C%9F%E3%80%8D%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E5%90%8D%E7%A7%B0%E3%81%AF,%E3%81%AB%E3%81%AA%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%81%A7%E3%81%99%E3%80%82