第17回 企業とNPOの越境キャリアからマレーシアへ
2023年からご家族でマレーシアに移住された伊藤健さんは、同志社大学で客員教授を務めながら、自ら創設したNPO、特定非営利活動法人ソーシャルバリュージャパンの代表理事として、マレーシアと日本と行き来して仕事を続けている。 伊藤さんは、2010年から国内の大学で社会イノベーションや社会的インパクト評価についての研究や教育を行う傍ら、シンガポールにあるAVPNという社会的投資家のネットワークの活動を日本で支えてきた実績も持つ、「実務家研究者」だ。
2018年に私が前職の関係で伊藤さんと会い、2019年に私が間もなくマレーシア移住予定であることをお伝えすると、「東南アジアへの移住ですか、実は僕も興味があって」と立ち話がてら教えてくれ、実際、私たち家族の移住後に複数回クアラルンプールを視察に訪れ、そして実際に2023年に奥様と4歳のお嬢さんと一緒に家族でクアラルンプールに移住された。
大学でのキャリアに先立って、外資系の企業で金融の仕事をしていたこともある伊藤さんは、常に理路整然と相手に安心感を与える話しぶりで、その一方、安易には人に迎合しない独自の考えを持っている印象がある。その姿勢は外資で鍛えられたのだろうと思っていたが、実は高校時代にルーツがあることを、今回この越境企画で初めてお聞きし驚くことになった。2025年6月に改めてクアラルンプールのカフェでお話しを聞いた。

クアラルンプールのシンボル的な高層建築ペトロナス・ツインタワー。国立石油会社ペトロナスの名前に由来し、タワー1には同社のオフィスが、タワー2には中東のカタールの衛星テレビ局アルジャジーラや、イギリスの通信社ロイター通信、アメリカのマイクロソフトなど多国籍の外資系企業のオフィスが軒を連ねている。タワー真下のスリヤKLCCショッピングモールには、日本の紀伊国屋書店や伊勢丹も入居し、賑わっている。(著者撮影)
高校中退という選択から見えた社会
伊藤さんは1971年生まれ、父は国家公務員、母は教師という家庭で次男として育った。父親が転勤族だったため引っ越しが多かったが、教育熱心な両親のもと、小学3年生から塾に通って中学受験をして、東京の中高一貫の進学校に入った。周りの友人たちは、厳しい受験戦争を勝ち抜いた優秀な生徒たちだったが、厳しい環境からか、中途退学する生徒がクラスに毎年一人以上いた。
当時印象に残っているのは、中学の公民の授業での単元「人を食うバナナ」だった。フィリピンのバナナ農園の搾取的な労働と、そのバナナを輸入している、不均衡な貿易関係の一方の当事者としての日本についての授業だった。今思うと日本とアジアの関係性に目を向けたきっかけだった。
自分の中で膨らむ社会的な関心と裏腹に、教室で「いい大学」に入るための勉強に邁進する高校生活に、徐々に意味が見出せなくなっていった。「自分は何のために勉強するのか」「自分の関心とは関係なく、受験科目に照らした学習から、一体何を学ぶのか」といった疑問には、共感してくれる友人は誰もおらず、学校から足が遠ざかり、不登校になった。このままでは出席日数から卒業が難しいとわかった高校3年の年明け、「春休みに追加で登校すれば日数に足してやってもいいんだぞ」と当時苦手だった英語科の教務主任から恩着せがましく救済策を提示された。咄嗟に、売り言葉に買い言葉とばかりに「結構です」と突き放し、高校中退が決まった。
高校をやめて、ついに意味を感じられない受験勉強に従う必要がなくなった、解放されたと思った。高校中退者として、アルバイトを転々とした。高校中退の履歴書ではできる仕事は多くなかったが、建築作業補助、出版社、家電量販店、ディズニーランドでのウェイター職などできることは何でもやった。「建築現場で働いたから、ユニットバスの組み立て、クロス貼りなんかもできますよ」と当時を楽しそうに振り返る。「でも、作業服でコンビニの弁当を現場で食べていると、通りすがりの人からじろじろ見られるんです。若いのに、っていう目で」。「ついこの間まで進学校で偏差値競争の上層を争っていたのに、高校中退して社会のピラミッドから外れて肩書きや学歴を失うと、社会の目はこんなにも冷たいのかと感じました」。伊藤さんは、一旦ドロップアウトすると立ち直れない硬直的な日本社会の仕組みやあり方に、自分事として社会課題を感じたという。
こうした社会課題への関心から、その後国際NGOや、教育課題や社会課題に関わる市民活動にも参加、アジアへの調査出張や交流活動に赴く経験もした。世の中への不信感、社会体制に対する反発が、自分の原動力だった、と伊藤さんは語る。その一環で、冬に、日雇い労働者の炊き出しの活動に関わった。路上生活者が暖を取るための焚き火の番をする伊藤さんに「何だお前、学生のボランティアかよ」と、馬鹿にするように声をかけてきたホームレスらしい年配の男性に、自分が高校中退したあと、様々な活動に顔を出していると話すと、やや親身に、こう言われたことが印象に残っている。
「お前みたいなやつがちゃんと大学に行って、福祉や行政の政策を考えてくれねえと、俺たちみたいなのが困るんだよ」
世の中が間違っていると思うならば、社会のことを考え、行動するべきなのは、自分だったのだ。焚き火の光の中で受けたこの言葉が伊藤さんに深く刺さり、残った。
アジアとの距離を詰めた大学時代
こうした経験もあり、伊藤さんは進路を大学進学へと切り替えた。「戻ってきた」と親は泣かんばかりに喜んでくれた。受験勉強の期間があまりないなか、東京の私立大学に進学。経済学のゼミに入り、課外活動でも東南アジアの構造的な貧困や開発課題について学ぶ日々が始まった。
「当時の通産省出身の先生のゼミに入り、鋭い問いを投げかけられました。日本の社会の矛盾が表面化しないのは、そうした課題が東南アジアとの構造的な経済関係に転嫁されている側面もあるのではないか、と。学生の僕には衝撃でした」
こうした問題意識の薫陶をうけたこともあり、伊藤さんは海外との学生交流にも参加し、英語に加えて韓国語も学習。長期休みには東南アジアを巡り、異なる価値観や歴史観に触れた。
「社会課題を解決しようとするNGOの活動は意義があるが、常に徒手空拳で現場が奮闘していて、構造的な課題解決、継続的な事業推進のためのリソースが不足している。ならばむしろ、現代社会の仕組みのメインストリーム(主流)である資本主義やビジネスの現場を知ってから、そういった社会の仕組みをどう変えられるのか考えてみようと思いました」
「また、台湾へも1年間語学留学して中国語を習得しました。当時の台湾民主化デモの隊列を目の当たりにして、外国人であるという立場に気が付きました。加えて、当時すごいと称賛される日本経済の成長やイノベーションの理由について、自分は何の答えも経験もない。『自分の現場はどこか』と考えたら、『現場は日本だ』と気づきました」
多少の回り道をしたが、自らの頭で考え行動し、納得して出した一つの決断が「日本の民間企業の現場で経験を積む」だった。

クアラルンプール中心部の古い建物に描かれた大胆な壁画。古い街並みを歩くとこうした建物をよく目にする。壁画があることで手前の駐車場がより明るく安全に感じられる。(著者撮影)
経済発展は正義か――MBAへ
大学卒業後、伊藤さんは24歳で日本のメーカーの海外マーケティング部門に就職した。「台湾で学んだ中国語が決め手となった、言わば中国語要員だったと思います。日本とアジアを繋ぐ海外駐在員になりたかったんですが、入社してすぐ、海外駐在は少なくとも10年は働かないと機会がないことが分かってしまったんです。会社には申し訳ないけど、そんなに待てないと思った」
そう気づいてからは合理的に頭を切り替え、定時退社を心がけ、夜にTOEFLとGMATの勉強を始めた。ビジネスの本場アメリカで学ぶことを目標に据えた。1990年代後半の当時は働き方改革の現在には程遠く、定時退社する若手社員は職場で上司から呼び出され「まさか副業でもしてるの?」と聞かれたこともあった。
結局3年弱で会社を辞め、アメリカの中西部アリゾナ州のサンダーバード大学グローバル経営大学院にMBA留学した。経営学を軸に、途上国の発展に役立つ民間セクター開発の手法を学び、いつか国連で働きたいと考えた。国連には開発のプロの職員は多いから、むしろビジネス経験を強みにして人材としての自分を差別化する戦略だった。「NGO活動に携わっていたときは、『社会正義』が大事だと思っていましたが、東南アジアの現場を訪れた経験から、現地の人は何よりも衣食住、すなわち経済と暮らしの質が高まることも大事で、そのためにはビジネスの果たす役割に大きいと考えるようになっていました」。民間出身で国連で働くというビジョンを掲げ、各国から来たビジネスパーソンと切磋琢磨するアメリカ生活に力を注いだ。
線路に乗ろうとすれば弾かれる――国連での経験
国連で働くための準備として、MBA在学中に国連工業開発機関(UNIDO)のウィーン本部で4カ月半インターンとして働く機会を得た。大学時代に青山のUNIDO日本事務所でアルバイトをしていた縁もあり、渡欧が実現した。
「ところが、国連機関の上層部の政治任用の人事を目の当たりにしました。現場で奮闘する優秀な職員の方はたくさんいましたが、最終的には現場よりも制度と国の論理が前面に出る世界でした。やはりと思う反面、複雑な気持ちになりました」
35歳以下の日本人が国際機関への入り口として利用できるJPO制度への応募を目指していたが、日本政府の人事院からウィーンに出向している担当者から「あなたの経歴ではJPOの採用は難しい」と出願する前にあっさり言われた。高校中退、私立大学、日本のメーカー勤務、そして自ら掴み取ったMBA留学 ——選択し、積み重ねてきた経験が、ある基準からは「はじかれる」という現実。
「またか、と思いました。線路から外れた軌跡であるが故に、扉が閉ざされる。でもそのときに、『中に入ること』が目的ではないはずだ、と、自分に言い聞かせるようになりました」。再び越境するように、伊藤さんはファイナンスの世界へと足を踏み入れる。
企業のファイナンスから「ソーシャル・ファイナンス」へ
2001年、30歳でアメリカのMBAを修了。米国外資系のGEキャピタルの日本法人に就職し、ファイナンス部門で7年働いた。投資の論理、パフォーマンスの評価、資本の動き——新卒で働いたかつての職場の日本企業とは真逆の社風の現場で学ぶことは多かった。
「日本の教育や組織では、『正解を出せる人』が評価される。でも、米国系の外資系企業では何人だろうが何語を話そうが、『結果を出せる人』が評価される。すごくフェアで納得感がありました」
だが、そこでずっと続けるという選択はなかった。「学生時代にも、“社会を変えるためにいったん民間企業で経験を積みます”と言っていた仲間たちは、結局ほとんど戻ってきませんでした。優秀な人たちは、当然資本主義経済の企業活動に吸収されていきます。このままでは自分もそうなってしまうと危機感を感じました」。
そこで出会ったのが、東京で若手社会人がビジネスや仕事のスキルを活かしてNPOの経営支援を行う「ソーシャルベンチャー・パートナーズ東京(SVP東京)」だった。2008年当時、元アクセンチュアのコンサルタントだった井上英之さんが米国のSVPをモデルに立上げた組織だ。「ビジネスの専門性や手法を、社会課題解決に活かす、純粋にかっこいい生き方だと思いました」。
SVP東京の活動に大きな影響を受け、本業でもいよいよ社会的な活動に舵を切るときだと、37歳でGEキャピタルを離職し、ハーバードビジネススクール出身の野田智義さんが創設したNPO法人アイ・エス・エル(ISL, Institute for Strategic Leadership)に転職した。給与は現職ほどは出せないと言われたが、「社会的意義の高い活動を本業にできるなら、十分ありがたいと思って飛び込みました」。ISLでは、企業の協賛金で立ち上げた「社会イノベーションセンター」の活動を推進、ビジネスと非営利団体を結び、社会変革をもたらすという活動の魅力に取りつかれ邁進した。
2010年に、SVP東京を創設した井上英之さんから、教えていた慶應義塾大学の講座で非常勤講師としての仕事の誘いを受け、同時期に同大学の博士課程への進学を決めた。金融市場では収益性が高く、秀逸なアイディアとモデルを持つ事業にお金が流れてくるが、社会課題解決に取り組む非営利組織には、その成果を測る指標がなく、資金集めにはどこも苦労している。「社会的投資」の基礎となる「社会的インパクト評価」があれば、高い成果を出す組織に資金やリソースが集まるようになるのではないか。こうした仕組みを、これまでの学術的理論を裏付けに発展させるという博士研究の目標を立てた。



