第11回 ありのままで
彼女は、サッカー場にお洒落な厚底のウェッジソールにタイトスカートで颯爽と現れ、足元がやや覚束ないながら、いつも太陽のような笑顔を見せてくれた。
コロナ禍が収まってきて日常生活が徐々に取り戻されていた2022年。長男のサッカーの試合にいくと、いつも彼女はいた。「今日も暑いですねー」と言いながら、国立マラヤ大学の敷地内のサッカー場の炎天下にマレーシア、韓国、中国、日本、欧米各国の多国籍な保護者が陣取って、それぞれが子どもたちのサッカーの試合を応援していた。まだ屋外でもマスクを付けなければならなかった頃で、新しい友人を作りたいのに、顔の半分が見えないままというもどかしさを抱えていた。
彼女の名前は、佐藤メイメイさん(仮名)。2022年当時、我が家の12歳の長男と、メイメイさんの次女(13歳)、長男(12歳)は、韓国の元プロサッカー選手がマレーシアで興したサッカーアカデミーの同じチームにいた。サッカー場で何度か会って言葉を交わすうちに、メイメイさんも日本の生活に思うところがあり、自らの意思で新しい暮らしを求めてマレーシアに来たご家族だと知った。
「もとの暮らしを変えようと思えたのは、ディズニー映画『アナと雪の女王』のありのままというあの歌詞なんですよ」という。
連載を書いているので、いつかお話聞かせてくださいねと話してから、実に1年以上時がたってしまっていたが、2024年9月の明るい朝に、近所のカフェで話を聞くことができた。
マレーシアの東大と言われる国立マラヤ大学のサッカー場。土日は小中高生のサッカー大会の会場になっていた。常夏の青い空が広がる。著者撮影。
生い立ちと、両親の人生観への違和感
佐藤メイメイさん(仮)は、1979年生まれ。文京区本郷という文教地区の教育熱心な両親のもとに産まれた。幼稚園受験が当たり前のように行われる地域だったが、幼稚園受験には落ち、公立の小学校から中高一貫の女子校に入った。
進学校を目指すというよりも、親の考えは「将来、よい大学」、その先にあるのは、「よい職業」ではなく、「よい方との結婚」という現代からしたら古風と言える考え方だった。安全なよい場所で、お嬢さんとして育つことを望んでいた。進学した女子校は、女性が女性として生き抜けるように、「怒るな、働け」という標語をもち、前身は明治時代に建学された日本初の女子を対象とした商業学校だった。
親は、形式や見栄えを気にしているように見えた。人生は「結婚」というゴールに向かっているという認識で、メイメイさん本人の望む職業や進路は話題にならなかった。メイメイさんは、心の中で反発し、「もっと私という個人を見てほしい」「世間体や、周りと比べてばかりいるのはやめて」といつも静かに燻っていた。両親の教育方針は弟については鍛える様相で、水泳などに小学校低学年から集中して取り組んでいたのとは対照的だった。
16歳の時、学校帰りに友達とカラオケに行って帰宅がいつもより遅くなったことがあった。中学から一貫して帰宅部で、土日も家族で過ごすことが多く、友達との数少ない些細な楽しみのつもりだったが、この出来事に、家族経営の企業の役員を務めていた父親は激高し、友達の自宅まで行って、今後娘をそのような遊びに誘うことは二度としないでくれと怒った。
自分の心は自由を求めていたが、親が望んでいるのは、いわば深窓の令嬢。その二つのギャップは大きかったが、親が自分を大事に思っていることも理解しており、揉め事にしたくないという思いで、正面切って言い出せないまま時が流れた。
なんとかして自分を表現したいと願い、「絵を描くことが得意だったから」と難関の美大を受験し、合格した。ここで、家族への反発を表現してゆこうと息巻いていた。大学では、自由になったと感じたが、大学が開催した保護者会に参加した保護者は5人だけで、そのうちの2人がメイメイさんの両親だった。
大学では芸術論を専攻し、大学院まで進学して、24歳で卒業した。この間、アルバイトでは、ファストフードや居酒屋は不可という親の意向で、大学医学部の図書館と、飲食店の中で唯一許された喫茶店ルノワールで働くことになった。ここで現在の夫と出会った。キッチンで、手が奇麗な人だなというのが第一印象。コップを洗う手際が良くて、「手が奇麗ね」と声をかけたことがきっかけになり、会話が始まった。真面目な人でもあった。
芸術と関係なく就職、結婚:義実家に同居
就職は、芸術とは関係なく、英会話事業を展開する上場企業で接客事務職として下北沢の店舗で働くことになった。芸術関係の仕事を志望しても良かったのかもしれないが、強く出る性格でもなかった。ここでも親が店舗に顔を出しに来るなど引き続き子離れしない近さがあった。
メイメイさんの父は、お手伝いさんがいるような家で育った。この時代に、海外で見聞を広める遊学でカリフォルニア大学バークレー校、ソ連モスクワ大学、もう1か所、計3か所に滞在した経験があった。福島県出身の母とは、恋愛結婚だった。母は良家出身だったが、父の家族から田舎者と陰口を叩かれ苦労した。母は義実家に負けまいとの思いを抱えながらメイメイさんたちの子育てに向かっていたかもしれない。
子ども時代から学生時代まで一貫して、不自由のない生活をさせてもらった。しかし、何でもあるから、大事にしない。価値を実感することができなかった。環境は整えてくれたと思う。旅行も楽しいと薄っすら思っていたが、有り難みを感じることがなかった。親はおそらく不満に気づいていたが、それをはっきり言語化して意見を戦わせたら、「最終的な結婚というゴールから逸れてしまう」と思ったのだろう、メイメイさんの本音と正面から向き合うことはなく、メイメイさんからもそれを切り出すことはできずに年月が過ぎて行った。
「自分が親になって初めてわかったことも多く、親のことを恨んではいないんです」
27歳で結婚して寿退社。既に長女がお腹にいた。ここから9年間、夫の実家に同居した。夫は家族経営の会社の社員として働いていた。夫の両親は、二人とも教員で古風な人柄。義理の父は高校教師、義理の母は幼稚園の先生だった。家族経営の会社がある家庭においては、自分のやりたい教師という仕事を貫いた異端児だったようだ。夫が勤める会社は親戚が運営していた。
今では珍しいような伝統的な家風で、お嫁さんの立場は当然一番下の見習いのような存在で、お姑さんから指導というか監視されているような日々だった。
「9年間、よく頑張ったと思うんです」
自分が新米の母として慣れない中、一生懸命育児をしようと思ったが、義理の母が、育児に大きく介入した。長女は3歳まで義理の母が相手をしたため、あまり抱っこをできた記憶がなかった。次女、長男と続けて30歳までの3年間で三児を出産したことで、義母もさすがに3人の乳幼児の世話は不可能となり、ようやく自分が直接子育てをできるようになった気がした。仕事は、子どもがある程度手を離れるまでは考えず、誇りをもって主婦として生活していた。
メイメイさん(中央)と長女と次女。マレーシアに来てから、皆でジムに通い、心身の健康づくりにも取り組んでいる。メイメイさん提供
「ありのままで」:義実家から核家族化、マレーシアへ
35歳のとき、ディズニー映画『アナと雪の女王』を見た。日本でも世界でも流行した「ありのままで」(英題 ”Let It Go”)の主題歌に感化され、義実家の自分たちの部屋に、カーテンを買って架け替えた。あまりにも小さな抵抗だった。だが、これで何か吹っ切れた気がした。旦那の実家を出ることを決意した。
夫は自分の実家に住んでいるから、居心地が良かったのかもしれない。しかし両親に頼る生活から独立し、将来はいずれ両親を支えることもできるよう目指した。経済力を増やすために、仕事に加えて資産形成のための投資も始めた。
「3世代同居の良さはたくさんありますが、嫁の私の居場所は心地いいものではなかったです。自分らしく生きたいという思いが強まりました。そうと決まったら準備は早い。家を買って引っ越しをするまでに数ヶ月しかかかりませんでした」
夫の実家から出る形で、家族5人で新居に2年間住んだ。多くの人が、結婚とともに夫婦で築く新たな家庭の楽しさに、結婚後9年経ってようやくたどり着いた。義実家も実家とも、特に大きな反対はなかった。夫の兄と姉も実家に同居した後にそれぞれ独立していた。もしかしたら、親の期待というものにこだわっていたのは自分たちだったのかもしれなかった。
「35歳の私は、だれよりも『アナと雪の女王』のエルサに共感していたかもしれません。これでやっと人並みだ。周りの人が生活しているような自分らしい生活を展開できる! そう意気込むと、周りへの見方も変わりました」。それぞれの家庭が何を大事に生き、どんな人生の夢を描いているのかが見えてきたのだという。
『アナと雪の女王』は私もインドネシア駐在時代に日本人のママ友から、「これ、娘が大好きなの。自分らしく生きようっていう歌なんだよね」とタブレットで見せてもらい、映画本編も何度も見た。主人公のエルサ姫は、かつて両親から諭された通りに自分の才能をひた隠しにして生きていたが、あるとき自我を隠して「いい子」を演じることに決別し、自分らしく、持って生まれた能力を開花させて力強く生きる物語だ。自分らしく生きることが周りへの迷惑だという主観から一転し、自分らしく才能を伸ばし世の中に還元させることは、自分も周りもハッピーにできると大きく世界観を転換させてゆく。世界中で、子どもだけでなく、メイメイさんや私のようなミドル世代も強く共感した。