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「越境する日本人 ~海外移住する日本人から読み解く、生き方・働き方・育て方~」後藤愛

第3回 手放した仕事、手に入れた生き方

仕事を一度、手放す

「日本での人間関係がしっかり切れたのも良かったです」
 歯科医として勤務していた寛子さんは、ヨーロッパ一人旅を終えて、心機一転の心持ちで帰国後、ホームパーティーで知り合ったカナダ人のNさんと、40歳で結婚した。独身時代は子どもがほしいと思ったことはなかったが、結婚後、年齢を考えて迷ったとき、Nさんの母親から、「子どもを持つ人生と持たない人生は全く違う。ヒロコ、よく考えなさい」と言われた言葉が決め手となった。「この人との子どもを産みたい、後悔したくない」と強く思い、不妊治療の扉をたたいた。体調を最優先するために、歯科医の仕事をフルタイムから、週3回に減らした。「絶対失敗したくないと思った」。赤ちゃんを授かったとわかったとき、さらに思い切って、仕事を全部辞めたのだという。
 現代は、結婚はもちろんのこと、妊娠、出産を経ても女性が仕事を続けることがもはや当たり前の時代だ。仕事と家庭や育児との両立には、さまざまな困難がありながら、それが時代の求める働き方、暮らし方だと捉えている人は、特に高学歴の都市部居住者には多い。私も、29歳で出産、30歳で職場復帰、31歳で1歳9カ月の息子を連れて海外赴任したが、キャリアは私にとってやりがいであり生きがいでもあった。
 日本はジェンダー指数が2022年の116位から、2023年にさらに順位を落として125位に低下してしまったことは報道でも大きく出た1 。特に象徴的なのが、日本はスコアは横ばいなのだが、世界のほかの国では進歩しているがゆえに、結果として相対的に順位を落としているという点だ。
 つまり、変わらない状態でいると、世界が前進している中では、後れを取ってしまう。指数の中身を見ると、「政治」「経済」「教育」「健康」という4つの柱の中で圧倒的に「政治」と「経済」で後れている。一方、「教育」と「健康」は既に男女平等を達成済みだ。経済では女性の管理職と労働所得が少ないことが大きく響いた。政治では、衆議院議員と閣僚に女性が劇的に少ないことが、低すぎるスコアの原因であるから、日本の政治リーダーが唱える女性活躍は表層的で、自己改革を伴ってこなかったことの残念で明白な結果である。
 そのような日本のなかで寛子さんのキャリアは成功例だ。では、彼女ほどのキャリアを持った人に、そこから離れることに躊躇はなかったのだろうか。
 そう問うと、「歯科医師の仕事は、一生の資格なので、万が一マレーシアでの暮らしを続けないとなったら、日本に戻って働くという選択肢があると捉えました。それがあるからこそ、海外暮らしに挑戦しようと思えたのかもしれません」という。「日本で、働きながら子育てしていたら、時間も心のゆとりもなく、もっと夫と喧嘩ばかりしていた気がします」
 移住というと、退路を断って潔く、というイメージがあったが、彼女から見えてくるのは、いざという時の退路を持つことで、むしろ挑戦できるという現実的な戦略だ。


2023年6月にクアラルンプールで開催された社会的インパクト投資や財団活動について実務者が集まる国際カンファレンス(Asia Venture Philanthropy Network)。東南アジアのハブとしても機能する国際都市らしく、当然のように英語のみ会合が行われ、アジア中から集まった参加者が懇談した。(著者撮影)

夫婦共同で決断

 インタビューの途中から、寛子さんの夫でカナダ人のNさんも加わった。Nさんは、外資系企業の日本法人で長くキャリアを積み、東京に20年近く住んでいた。二人は、チャリティイベントの関係者が集うNさん宅のホームパーティーで友人の紹介で偶然、知り合った。「楽しそうに笑う人だな」という第一印象。約2年間の交際を経て、結婚した。
 Nさんは日本の仕事や暮らしに満足していたが、寛子さんより10歳以上年上であることから、近い将来のリタイアを意識していたという。外資系企業に勤める外国人である職場仲間が、日本は相続税が高いとこぼしていたことも頭の隅にあった。将来的に、カナダ、両親の出身地であるヨーロッパ、またはかつて住んだことのあるシンガポール、そして物価や暮らしやすさを勘案してタイやマレーシアを移住先の候補に考え始めていた。
 最初は日本の仕事を続けながら、海外からリモートで働くことを勤め先にかけあったが、海外からリモートワークすることは、コロナ前で前例もなく、会社の結論が出ないまま1年近くが経ってしまったため、2019年、移住を優先させ、Nさんは転職に動くことになった。
 日本との時差が少なく、気候が温暖で、英語が準公用語で通じる国として、有力候補になったのが、マレーシアだった。寛子さんの「天気予報でアジアにある風変りな名前の都市、『クアラルンプール』が気になってました」という好奇心も後押しとなり、タイとの比較では英語の通じやすさが決め手となって、2020年3月上旬、コロナ禍が急拡大するなか、渡航できるうちにと予定を早め引っ越した。
 娘を連れて生活しやすい国かどうかという視点では、実は、移住を検討していた頃は想像できずにいたという。「最近の移住者の方々は、事前に視察に来たり、インター校見学も終えていたり、用意周到ですね。我が家は、エイヤッと来てしまいました」という。ライフスタイルや、生活費から考えると、マレーシアは優位性があり、広いマンションの家賃が、東京やシンガポールと比べれば比較的安めで、子育て世帯にはありがたい。
「子どもの教育が理由で移住する人も多いですが、うちの場合は、夫と私のライフスタイルの観点から海外移住を選択しました。娘のためにインターナショナルスクールの多くのバラエティから選択できるという点は、来てから気づいたマレーシアの利点です。アメリカ系またはカナダ系かなと漠然と考えていましたが、マレーシアにはイギリス系が多いと知って、いま比較検討しています。もうすぐ小学校をどのインターにするか決めないといけない時期なので」

夫婦で得意な言語を担当

 海外暮らしでは、家族で協力し合うことが、日本以上に大事になる。「私たち夫婦は、私の英語力と、夫の日本語力が同じくらいのレベルなので、助け合っています。英語環境では夫が、日本語環境では私が、全コミュニケーションを担当して助け合うという形になります。マレーシアでの英語でのインター選びは夫が中心になりそうです」
 これからやりたいことは、と水を向けると、「マレーシアの伝統工芸であるバティック(ろうけつ染め)の布を活かしたアパレルや、ズンバが大好きなので子ども向けズンバ教室など、やりたいことのアイディアはいろいろあります。娘の子育ての手が離れるのと並行しながら、新しいことに挑戦していくつもりです」
「朝起きて、今日もいいことが起こる日だと思って生活したいです。悪いことが起きるのではないか、と思って生きるのと、日々の積み重ねで大きな違いになると思うからです。娘が18歳になるまでいるつもりです。いられる限りいたい、というのが本音です」と、とても前向きだ。
 20代の自分に言いたいことがあるとしたら、「親や周りから前提とされている職や生き方ではなく、自分で選ぶようにと言いたいです。学業、仕事、付き合う人、すべてにおいてです。そして、自分で選んだことを、『ここまでやった悔いなし』というまで突き詰めるようにと言います。子どもにも、悔いのないよう思いっきり自分で決めて選んだ道を、自信を持って進める人になってほしいと願ってます」
 話を聞く前は、てっきり日本で外国にルーツを持つ子どもを育てるよりも、多文化・多民族・多言語が当たり前のマレーシアで子育てすることを選んだのかと思ったが、実は教育移住ではなかった。来てみて、結果的に、様々なルーツの子どもたちが混ざりあって一緒に学ぶマレーシアの環境は、娘の教育環境としてもよく、バイリンガルに育てるのによい、と発見したという。
 寛子さんは今、初めての海外暮らしで手ごたえを感じている。それは、慣れない英語を駆使しながら、新しいライフスタイルと居場所を自らの手で作り出し、過去の自分の生き方から越境するものだ。
 仕事を手放すのはもったいない? そんなことは、言いたいやつには言わせておけばいい。そう思わせる潔さだ。かつて大事だった何かを、その時が来たら手放すことによってのみ、新しい大事なものが手に入ることがある。
 国境を越えて新しい居場所を求めるには、内面の越境が必要だった。それは、一度の国際線フライトに乗れば完了するものではなく、時間をかけながら徐々に脱皮し、新しい自分に進化するプロセスなのだと思う。彼女の越境がひと段落するとき、きっと次のまた面白い一歩を見せてくれるに違いない。

1【ジェンダーギャップ指数】日本、2023年は世界125位で過去最低 政治・経済改善せず
https://www.asahi.com/sdgs/article/14936739

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著者略歴

  1. 後藤愛(ごとう・あい)

    1980年生まれ。一橋大学法学部(国際関係論専攻)を卒業後、2003年独立行政法人国際交流基金に入職。2008年フルブライト奨学生としてハーバード大学教育大学院教育学修士号(Ed.M。国際教育政策専攻)取得。2012年から2017年同基金ジャカルタ日本文化センター(インドネシア)に駐在し、東南アジア域内と日本との文化交流事業に携わる。2021年同基金を退職し、現在マレーシアでCHANGEマイクログラント(https://changemicrogrant.org/)活動に携わる。家族は夫と子ども3人。

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