第7回 夜行急行「妙高9号」のA寝台車
姉と二人で野尻湖へ
1979(昭和54)年は、当時子供だった世代の人には忘れられない年だ。4月2日、テレビ朝日系列でアニメ「ドラえもん」(第二作)が放送開始。5日後の4月7日には、「機動戦士ガンダム」も始まった。8月にはタイトーのアーケードゲーム「スペースインベーダー」が稼動を開始し、一大ブームを起こしていった。
その年の夏休み。我が家は例年通り野尻湖に行く……はずだったのだが、何かの理由で親が予定通りに行けなくなってしまった。毎年楽しみにしている野尻湖での夏休み。子供たちはなんとか予定通り行きたい。
そこで、3歳上の姉と二人で先に行くことになった。上野駅で子供二人を列車に乗せて、黒姫駅には親戚が迎えに来る。車掌に一声かけておけば、乗り換えもなく迷子になるリスクは低い。しかし不特定多数が乗り合わせる列車に子供だけで乗れば、悪い大人に出会う危険性もゼロではない。
リスクを最小限に抑える選択。それは、「子供たちだけで夜行列車に乗せる」という大胆な発想だった。
20系客車をベースに開発された10系軽量客車
当時、上野〜長野〜直江津間には、定期夜行急行〔妙高9・10号〕が運行されていた。下りの9号は上野駅を23時58分に発車し、長野駅には翌朝4時51分着。21分停車の後、普通2321列車となって直江津へ向かい、黒姫には6時05分頃に到着するダイヤだ。
昼行の「妙高」は、碓氷峠の急勾配に対応した169系急行形電車が使われていたが、夜行の〔妙高9・10号〕は客車が使用され、しかも寝台車を連結していた。列車は8両編成で、座席車は戦後まもない時期に製造されたスハ43系客車を軽量・近代化したオハ47とオハフ33を5両連結。寝台車は昭和30年代に製造された10系軽量客車のオロネ10(A寝台)と冷房化改造を受けたオハネ12・オハネフ13(B寝台)を各1両(合計3両)連結し、上野寄りに郵便車を連結していた。走行距離300km足らず、座席・寝台混成の急行列車でありながら、A寝台も連結している異色の夜行急行だ。A寝台のオロネ10は、初代ブルートレインである20系客車のナロネ21をベースに急行列車向けとして製造された車両で、通路の左右に二段寝台が線路と平行に配置された「プルマン式」と呼ばれる寝台だ。当時の寝台料金は8000円。寝台幅は101cmもあり、上野駅を深夜に出発するから、乗車と同時にカーテンを閉めてしまえば他の乗客からは寝台の様子はわからない。
この空間に、小学5年生の姉と小学2年生の弟を乗せてしまおう、というわけだ。どうしてもトイレに行きたい時以外は寝台から出てはいけない、トイレに行く時も必ず二人で行くこと……という約束で、夏休みのある晩、僕たち姉弟は二人だけで「妙高9号」に乗った。
〔妙高9・10号〕に使用されたA寝台車のオロネ10 1983年8月30日撮影(福井と思われる) 永尾信幸, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons
頭が下になる感覚があった碓氷峠
思いがけず実現した、初めての寝台車。さぞかしワクワクしただろう……と思いきや、正直なところあまり気分は乗らなかった。今思えば、僕の世代でオロネ10に乗車できたことは非常に貴重な体験だったが、当時の小学生にとって憧れの対象はあくまでも特急ブルートレイン。オロネ10が、ほぼ(特急用の)ナロネ21と同じであるとは知るよしもなく、急行用客車に興味はなかった。寝台から一切出てはいけないというのもつまらなく感じ、なにより深夜に発車して早朝に着くのでは面白みに欠けた。
そんな不届きな気持ちで乗った初の寝台車だから、乗車中の記憶はあまりない。手動の扉を開いて薄暗い車内に入り、所定の寝台に姉と二人で収まると、もうすることはない。上野駅の発車時刻である23時58分の時点で、僕はもう朦朧としていたようだ。
「妙高9号」は、EF62形電気機関車に牽引されて、高崎線、そして信越本線を北上する。ふと目を覚ますと、列車はゆっくり、ゆっくりと走っていた。わずかに頭が下になっている感覚がある。
「碓氷峠だ……」
時刻は2時40分過ぎ。列車は横川〜軽井沢間の碓氷峠越えにかかっていた。66.7‰(1000m水平に進んで66.7mの高低差)という国鉄最大の急勾配がある区間で、麓側(上野方)に専用の補助機関車EF63形を2両連結して通過する。特急「あさま」などの電車は、EF63形と回路を接続して機関車側で電車を制御する「協調運転」が行われたが、客車列車は長野方のEF62形と上野方のEF63形2両が、互いに無線で連絡しながら運転を行う「プッシュ・プル方式」。速度は30km/h台まで落として、11.2kmを17分かけて標高差553mを越える。
66.7‰の勾配区間では、全長約20mの客車の両端で約1.3mという、当時の筆者の身長よりも大きな高低差が生じる。A寝台は上野方に枕があったようで、頭が下になる感覚があったのだ。いつもは電車で越える碓氷峠を、ベッドで通過するなんて不思議だな……と思いながら、またまどろんだ。
絶対に音を立てずにビスケットを食べる
次に目が覚めると、外はすっかり明るくなっていた。列車は停車している。時刻は5時。21分停車の長野駅だ。姉も目を覚ましていて、ビスケットをくれた。
「音を立てて食べたら迷惑だからね。絶対に音を立てちゃだめ」
姉はそう耳打ちした。ビスケットを口に含み、何分もかけてゆっくり溶かすように食べた。そのうち、ゴトリと音がして列車は動き出した。黒姫まではあと50分。もう眠ってはいけない。いつでも降りられるよう準備して、ウトウトしては姉に怒られて過ごした。
黒姫駅に到着した時の記憶は全くない。祖母が迎えに来ていて、タクシーで家に向かったはずである。森に囲まれた涼しい部屋で、鳩の鳴き声を聞きながら昼過ぎまで眠った。
【昭和の鉄道メモ】
碓氷峠越え
かつて群馬県の横川駅と、長野県の軽井沢駅の間には「横軽」と呼ばれた国鉄最大の急勾配区間があった。横川駅と軽井沢駅は、直線距離では約9kmだったが、高低差は実に553m。峠というよりは、断崖絶壁が立ちはだかっているのに近かった。明治時代、信越本線が開業した時は、線路の間にギザギザのラックレールを敷き、専用機関車の歯車と噛み合わせて勾配を越える「アプト式」が採用された。1963(昭和38)年に、通常のレールと車輪の摩擦による「粘着運転方式」による新線に切り替わったが、この区間を通過する列車はすべて専用のEF63形電気機関車2両が連結された。1997(平成9)年、長野行新幹線(現・北陸新幹線)の開業によって横川〜軽井沢間は廃止。一部の区間が観光トロッコ列車として活用されているほか、アプト式時代の旧線はハイキングロードとして整備されている。また、1997年に廃止された新線も、多くの施設が保存されている。
1963(昭和38)年に廃止された横川〜軽井沢間旧線の碓氷第三橋梁 通称「めがね橋」 2021年11月20日撮影