第6回 石焼き芋屋のおじさんの思い出
お年玉は岩倉具視の500円札
ブルートレイン乗車を目指す貯金は、順調だった。1年生の時は毎週50円、1979(昭和54)年に2年生に進級して70円に値上がりした小遣いはミントの瓶にしっかり貯金していたし、お年玉という大きな味方があった。
特に母方の祖母は昔から列車の旅が好きで、「ブルートレイン乗車の夢」をお年玉で応援してくれた。また実家の喫茶店の常連客の中にも、「ブルートレインの夢を叶えるために貯金をするなんて偉いな」と、お年玉をくれる人がいた。この頃のお年玉はだいたい500円が相場で、ポチ袋にはたいてい岩倉具視が描かれた青い500円札が入っていた。
貯金を、ミントの瓶という中身が見える容器で管理したことも結果的によかった。貯金箱ではなく、口の広い瓶だったから500円札も入ったし、「今だいたいどのくらい貯まったか」が視覚的にわかるので、今でいう「モチベーションの継続」につながった。中の見えない貯金箱を使ったり、親に預けたりしていたら、それほど長続きしなかったかもしれない。
石焼き芋屋のおじさんと知り合う
お小遣いを全額貯金すると、当然お菓子などの買い食いができなくなる。昭和54年当時はまだ住宅街の駄菓子屋さんが健在で、小学生たちは学校帰りに10円の麩菓子や当たるともう一つもらえるモロッコヨーグルなどを買い食いしては、缶蹴りやケイドロなどをして遊んでいた。
だが、僕は駄菓子屋で買い食いをするわけにはいかない。10〜30円の駄菓子を2つ3つ買ったら、その週の小遣いは消えてなくなる。でも、育ち盛りの子供だから、夕方には何か食べたい。では、どうするか。僕が編み出したのは、「焼き芋屋のおじさんと仲良くなる」というワザだった。
当時は、秋から早春にかけて街角に石焼き芋の移動販売が出た。今は石焼き芋屋と言えば軽トラックが主流で、それもスーパーの焼き芋器に押されて数を減らしているが、当時は人力のリヤカーが主流だった。「い〜しや〜きいも〜」のかけ声も、テープではなくおじさんが自らハンドマイクで声を出していた時代だ。
中野ブロードウェイの周辺にも、当時は冬になると石焼き芋のリヤカーが出た。この焼き芋売りのおじさんと、仲良くなったのだ。焼き芋を恵んでもらおうとしたのではない。いつも見かけるおじさんに「こんちは!」と挨拶するうちに、だんだん雑談するようになったのだ。実家が喫茶店を始めて以来、僕は家族以外の大人と話すことに慣れていた。親は、こうした屋台商売に不衛生というイメージを抱いていて、石焼き芋はまず買ってくれなかったから、親にひみつで仲良くなるというスリルもあった。
子供にとって、石焼き芋屋さんは好奇心を刺激される存在だった。どうして、お店ではなくリヤカーを引いているのか。普段はどこに住んでいるのか。お芋を売るだけで儲かるのか。
「おじさん、夏はどうしてるの? 焼き芋は売らないの?」
「おじさんはね、夏は青森ってところで会社につとめているんだよ。ぼうやは青森なんて知らないかな」
「知ってるよ。東北本線の終点で、津軽線とか奥羽本線とかがあるところでしょう?」
「おお、よく知ってるなあ、そうそう。その青森だ」
この頃、石焼き芋の売り子は、多くが青森や新潟など雪国の農家からの出稼ぎだった。出稼ぎ者にリヤカーと材料を貸し出す元締めがいて、住まいも提供して冬季の働き口を世話していたという。おじさんも、おそらく青森の農家の人だったのだろう。なぜ、「夏は会社員」と言ったのかはわからない。アニメ「まんが日本昔ばなし」などの影響で、子供たちには「農家=貧乏」というイメージがあったから、もしかすると「米を作っている」というのが恥ずかしかったのかもしれない。
売れ残りの石焼き芋をおやつに
「ぼうや、お芋をあげるよ」
何度かおじさんと話すうちに、おじさんが焼き芋をくれた。僕は大喜び……とはならず、焦った。家が喫茶店だったから、商売品をタダでもらうことは「いけないこと」だった。
「いや、これはもう売れないんだ。焼き芋はね、焼いてから30分くらいすると酸っぱくなって、売れなくなっちゃうんだ。くさるわけじゃないから大丈夫。食べられるよ。捨てるのはもったいないからね。でも、ナイショだよ」
こうして、僕はタダでおやつを獲得する術を得た。毎回もらえたわけではない。おじさんは熟練の売り子で常連客も多く、ロスを出すことは滅多になかった。時々雑談し、時々売れ残りをもらう関係は、その翌年くらいまで続いたように思う。やがておじさんは実家の喫茶店にお客として現れ、「かげりくんの友だちです」と自己紹介して親を驚かせることになる。今なら「子供への声がけ事案」にされてしまうかもしれない。
「立ち読み歓迎」の書店で鉄道本を読む
もう一つ、お金を使わずに時間を過ごす方法が「書店での立ち読み」だ。その頃、書店は「立ち読みお断り」が普通だった。「ドラえもん」でも、のび太が本屋で漫画を立ち読みして、店主にはたきで追い出されるという描写が何度か描かれた時代だ。だが、今も健在の中野ブロードウェイの書店は、当時としては珍しい「立ち読み歓迎」の書店だった。「立ち読みをする人はしない人よりも多くの本を購入する」という発想で、「立ち読みは歓迎ですが立ってお読みください」という貼り紙すらあった。ただし、漫画の単行本など立ち読みされたくない商品はビニールカバーが施されていた。ここで、小学館の入門百科シリーズ「特急入門」をはじめ、カバーのついていない鉄道本をたくさん立ち読みし、鉄道の基本的な知識を増やしていった。時々、親戚が鉄道の本を買ってくれることもあったようだ。
1979(昭和54)年の夏が近づいた。僕の貯金は3000円を超え、順調にブルートレインの夢に近づいていた。
その年の夏休み、思いがけない経験が待っていた。
【昭和の鉄道メモ(6)】
イラスト入りのトレインマーク登場(1978年10月)
世の中の少年たちがブルートレインブームに湧いていた1978(昭和53)年10月、全国の電車特急にイラスト入りのトレインマークが登場した。これは、183系や485系といった当時の最新特急形電車が幕式の表示器を備え、手軽にヘッドマークを変更できるようになったことをきっかけとして、各列車のイメージアップを図ろうとしたもの。後にJR東海の初代社長となる、須田寛国鉄本社旅客局長らが中心となって企画された。電車特急のほか、14系や24系客車を使用するブルートレインのテールマークにも採用されたイラスト入りトレインマークは大評判となり、特急列車の利用者も目立って増えたという。「特急入門」のような子供向けの書籍も従来以上にカラフルな誌面となり、一層多くの書籍が発売されることになった。
富士山をシンプルに表現した寝台特急〔富士〕のトレインマーク 2008年6月18日 東京駅
金沢~新潟間を結んだ特急〔北越〕は日本海の波を表現 2008年6月22日 富山駅