第2回 ブルートレインブームの始まり
東京・中野の喫茶店で育つ
今は53歳の鉄道系ライターである僕は、1971(昭和46)年9月に東京都中野区で生まれた。実家は早稲田通り沿いにあった、祖父が経営する紳士服店の2階だった。
1977(昭和52)年、街の小さな紳士服店は経営が難しくなり、喫茶店を開いた。20席ほどの小さな店で、近所の人が集まる場としてそれなりに繁盛した。幼い頃の僕は引っ込み思案で、知らない人に会うと親の後ろに隠れてしまうような子供だったが、自宅が喫茶店になってからは嫌でも家族以外の人と顔を合わせる機会が増える。時々、店で小さなパーティーも開かれ、常連客の前で3歳上の姉と当時流行っていたピンクレディーの「UFO」を披露するなんてこともあった。
さて、「月刊鉄道ファン」1975(昭和50)年1月号を買ってもらってから3年あまりが経過した1978(昭和53)年4月。僕は中野区立桃園(ももぞの)第二小学校に入学した。「鉄道ファン」は、すでに表紙が破れてボロボロになるほど読み込まれていた。
スーパーカーブームからブルトレブームへ
この頃、世間には「ブルートレインブーム」、通称ブルトレブームが到来していた。
1977(昭和52)年秋、約2年にわたって子供たちの心をつかんでいた「スーパーカーブーム」が一段落し、子供たちの興味が自動車から鉄道に移った。ランボルギーニカウンタック、ポルシェ911turboといったスーパーカーに子供たちは胸を躍らせたが、普段の生活でスーパーカーを見たり乗ったりすることはできない。スーパーカー消しゴムや「スーパーカー大百科」といった子供向けのアイテムが一巡すると、子供たちは次の興味の対象として、駅に行けば実物に会えるブルートレインを選んだのである。
ブルートレインブームがいつ始まったのかには諸説あるが、当時の少年雑誌を観察すると、ある程度推測できる。小学生向けに、初めてブルートレインの特集が組まれたのは、後の「週刊ヤングサンデー」(2008年休刊)の前身である「マンガくん」1977年11月10日号だ。カラー特集「特急なんでも事典」のメインコンテンツとしてブルートレインが取り上げられ、記者による寝台特急〔富士〕同乗記が掲載された。週刊文春1977年12月8日号には、巻頭グラビア記事として「スーパーカーからブルートレインへ チビッ子カメラマンたちはいま…」と題して、カメラを持って東京駅に集まる少年たちの模様をレポートしている。
1978年に入ると、小学館の学年誌「月刊小学四年生」に「はみだしショー4ショー ブルートレインの旅」が掲載され、寝台特急〔はやぶさ〕の旅をレポート。3月5日には、TBS系列の「日曜・特バン!」で「激走!!夢の寝台特急ブルートレインのすべて」が放送された。この頃から、子供たちの間でブルートレイン熱が沸騰したようだ。
「ドラえもん」と「コロコロコミック」で漢字を覚える
では、その頃の僕はさぞかしブルートレインにはまっていたのだろう……と思いきや、そうでもなかった。小学1年生の僕がはまっていたのは「ドラえもん」だった。何かの拍子でてんとう虫コミックス「ドラえもん」13巻を買ってもらったことをきっかけにどハマりしたのである。1977年5月に、ドラえもんの大量掲載をコンセプトとした小学生向け漫画雑誌「コロコロコミック」が創刊され、ブルートレインブームと並走するようにドラえもんブームも始まろうとしていた。
その日、僕はいつものように学校から帰ると、実家の喫茶店の客席でコロコロコミックを読んでいた。コロコロの漫画は、すべて漢字にふりがながふってある。学校でまだ習っていない漢字も、「ドラえもん」や「バケルくん」を読んでいれば、どんどん読み方を覚えていく。コロコロに掲載される「ドラえもん」は、各学年誌から選りすぐられた作品だ。「小学一年生」には簡単なお話しか載っていないが、コロコロなら「小学四年生」に掲載された「ドラえもん」も載っている。知らない言い回しも多かったが、読んでいるうちに意味がわかった。コロコロと「ドラえもん」は、僕にとって国語の先生でもあった。
お客の少ない平日の夕方。顔を上げると、母親もコロコロコミックに負けないくらい分厚い「本」をめくっているのが見えた。
「それ、なあに?」
僕はなんとなく尋ねた。
1977年に創刊された小学館「コロコロコミック」。
【昭和の鉄道メモ(2)】
日曜・特バン!「激走!! 夢の寝台特急ブルートレインのすべて」
ブルートレインブームを決定づけたとも言われる1時間の特集番組。前年秋から「ポスト・スーパーカー」として少年たちの間で人気となったブルートレインを本格的に特集した初の番組で、東京〜西鹿児島(現・鹿児島中央)間を24時間30分かけて結んでいた寝台特急〔富士〕に密着した。当時宮崎で実験が行われていたリニアモーターカーや、当時浜松町にあった切符の印刷工場も取材するなど意欲的な内容だった。