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「越境する日本人 ~海外移住する日本人から読み解く、生き方・働き方・育て方~」後藤愛

第4回 人種と、ワークライフバランスと

産婦人科医もよりどりみどり

 2023年3月、私は42歳で、第3子を出産した。
 「まさか42歳で、初めて海外出産することになるなんて」と戸惑いつつ、これは連載のいい材料になりそうだと期待感もあった。
 私は、第1子を29歳で、第2子を38歳で、それぞれ日本で出産している。大卒で就職してすぐだった20代前半のころ、同期の妻が出産し、「20代半ばの初産だから身体がだいぶ楽でした。最近は仕事優先の流れがあるけれど、産むことについては、20代前半が一番いいですね」と話していたことが頭に残った。そこで、25歳のときに、30歳までの5年目標として「留学して修士号取得」に加えて、「結婚」と、「20代で初産」の3つを掲げてみた。結果的にその通りになり、30歳になる約2週間前に長男を日本で出産した。
 数年後に「30代前半で第2子」という目標を立ててみたが、2012年に長男が1歳9か月のときから5年間インドネシアに駐在員として子連れで海外勤務した時期と重なり、仕事のやりがいがあり、そのポストを離れたくなかったこともあり、それだけが理由ではなかったが、次男の出産は38歳となった。
 この、女性の出産適齢期と、仕事/キャリアへの注力が必要な時期が重なるという重大な問題は、ようやく世の中でもよく知られるようになっており、現実的な解決パターンはいろいろあり得るが、たいていの人が走りながら考えている状態だろう。もっと多くの若い女性や男性が、早いうちから意識的でいられると良いと思う。
 3回目の出産を40代で、しかも海外でというのは、なかなか面白い経験だ。第1子は自然妊娠、麻酔なしの自然分娩。第2子は人工授精の2回目で妊娠、自然分娩予定のはずが、出産途中から緊急帝王切開に備えて局所麻酔をしたけれど結果的には麻酔が半分くらい効いた状態での自然分娩。第3子は、3年近い不妊治療の末、すでに諦め半分に自宅で人工授精を試したら妊娠し、マレーシアで帝王切開で出産、とバラエティに富む妊娠・出産経験となっている。それぞれ語り始めたら長くなるので、今は簡潔にだけ触れておく。

  ***

 マレーシアは多民族社会と知ってはいたが、産婦人科選びも様々な人種のドクターからよりどりみどりの様相だ。クアラルンプールには外国人にも定評のある民間病院がいくつかある。病院選びもさることながら、ドクター選びをするのが大事だと聞いた。大きな病院では、産婦人科医や小児科医といった専門医が多数所属しており、各ドクターが受付や看護師も擁した個別のクリニックのような診察室を大病院のなかに構えているという形なので、患者が、自らの意思で、主治医を選んで決めて、そのクリニックに直接に予約を入れる形になる。私の産婦人科医には、女医のドクターKを選ぶことにした。日本人の母親たちから定評があり、この病院の中で人気の産婦人科医の一人だ。
 ウェブサイトでドクターを検索することもできる。15人の産婦人科医のうち、女性が7人、男性が8人。男女のバランスがいいなと思ったと同時に、マレーシアらしいなと目についたのが、人種的にも、マレー系、中華系、インド系、それ以外とさまざまなことだ。患者が自分とコミュニケーションを取りやすく、感性の合うドクターを選べるようになっているなとダイバーシティに感心した。多人種・多民族の国だからといって、必ずしもその人種の多様さが、医師という職業にも当てはまる保証はどこにもないからだ。
 この病院の産婦人科については、知人のオランダ人の駐在員女性もこの病院で産んだと聞いていた。新興国では、海外からの駐在員が利用しているというのは医療など専門的なサービスのレベルを測る一つの材料になる。
 余談だが、このオランダ人女性は、オランダの乳製品メーカーからの駐在員としてマレーシアに滞在しており、夫も同じ会社から派遣の夫婦ダブル駐在で、駐在中に第2子を出産していた。産前産後で4カ月程度の休暇はとりつつ、居住地も自宅も変えず、そのまま職場復帰していた。夫婦を同じ任地に駐在員として派遣することがすでにフレキシブルだが、加えて、現地での出産と職場復帰は、女性が妊娠と出産を経ても、単に仕事を続けるだけでなく、きちんとキャリアトラックに乗ったままスムーズに仕事と育児の両立へと移行する見本のようで、新鮮に私の目に映った。ならんで、香港拠点の外資系金融機関のマレーシア事務所に勤める中華系ベトナム人女性の友人からも、同僚でそのように外国の任地で出産と職場復帰した知人女性がいると聞いた。彼女たちの進む道が、職場の柔軟さと、本人たちの自律的な自己決定と、自分で責任を引き受ける態度を土台として、ごく自然体で実現されている(少なくともそのように見える)ことに、いたく感動した。
 ちなみに、産婦人科医のことは、「ONG(オーエンジ―)ドクター」と呼ぶ。正式には、「Obstetrics and Gynaecology」で、あえてカタカナにしてみると、「オブステトゥリクス・アンド・ガイニコロジー」。産科と婦人科のことだ。舌をかまずには言えない。おそらく医学関係者にとってはかなり基礎的な英単語だろう。英語ネイティブでなく、かつ医学の素養もない私にとっては、覚えることを放棄した難関英単語だったが、ここは英語非ネイティブに便利なマレーシア。省略形で、「オーエンジー(O and G)」と言えば通じる。妊婦生活時の頻出英会話は、「Who’s your ONG doctor?」(あなたのオーエンジードクター(=産婦人科医)は誰?)というやりとりも、「オーエンジー」さえ覚えておけば、ちゃんと会話を弾ませることができる。


病院のロビーにある医療保険のブース。様々な人種のイメージが使われている。

 

人種に自覚的

 産後2日目の入院室でのこと。そんな「オーエンジー」ドクターKと、ざっくばらんに会話することができ、期せずして、マレーシアの医者、特に人種的マイノリティの医者が置かれる立場を少しだけ垣間見たので、紹介したい。
 ドクターKは、マレーシア育ちのマレーシア人だが、民族で言うとマレーシアの三民族のマレー系、中華系、インド系のどれにも属さない、インド系シーク教徒である。シーク教徒とは、インド北西部からパキスタン北東部にまたがるパンジャーブ地方に多く、インド全体では3000万人いると言わる。カースト制を否定し、技術系や専門職に強いとされ、日本にも約2000人が暮らしている。インド人を思い浮かべるときに、もし厚いターバンを頭に巻いた姿が浮かべば、それはターバン着用が義務である男性シーク教徒の外見だ1 。私がマレー系マレーシア人のママ友に、例の「Who’s your ONG doctor?」の質問をされたとき、ドクターKの名前を答えたら、名前だけで「ああ、シーク教徒ね」とすぐ反応されたくらい分かりやすいようだ。
 マレーシアでは、人種の分類が尋ねられる場面がよくある。「マレー系、中華系、インド系、先住民、その他」の分類から選ぶ形だ。ドクターKの場合は、「その他」カテゴリになる。人種分類は、個人の感じ方やアイデンティティではなく、公的な情報としてとして扱われる。たとえば、私が共同実行委員長を務めている高校生のためのアントレプレナーシップ(起業家精神)コンペティション(Global Youth Entrepreneurship Competition (GYEC) Malaysia)2は、マレーシア教育省からの承認を受けている取り組みであるため、毎年実施後に教育省向けの報告書を書くのだが、その中に、参加者の人種別の人数の報告が求められる。そのため、参加登録フォームには「マレー系、中華系、インド系、その他」という項目を入れて、参加する高校生には必ず埋めてもらうようにしている。
 こうした人種によるプロファイリングは、日本、アメリカ、インドネシアに住んだ私の経験からすると、違和感を感じるが、マレーシアではごく一般的なため、尋ねられた方も、過度な個人情報だと気にすることはないようだ。
 多民族共生という理想論を現実に落とし込むにあたっては、市民それぞれが、自分と周囲の人の人種を自覚的に把握し、その違いを当たり前の大前提とした適度な距離感、ある意味での不干渉を保って暮らしているように見える。人種や民族が違うと、常識や文化も異なる。お互いが違うけれど、人類として大事な何かは共有していると信じながら、一緒に仕事をしたり、患者と医者という関係性になったり、近所に住んだりしているのだ。


病院では産前に両親学級も提供されていた。入院から出産までの説明につづき、赤ちゃんの沐浴の仕方や、誤飲時の緊急対応などを学ぶ。内容はだいたい日本と同じだった。ヒジャブを被った助産師が、丁寧に説明していた。

 

肌の色と、働きやすさ、働きにくさ

 さて、ドクターKは、マレーシアで中等教育を終えてから、18歳でアイルランドで医大に進学し、卒業後はイギリスのウェールズで研修をした。同じく医師の夫と結婚後、ニュージーランドとオーストラリアでも臨床経験があり、合計12年間海外に滞在したあと、マレーシアに戻って、大学で7年間勤めたという。
 「大学勤務は、学内政治が本当に嫌で、臨床に戻ることにしました」。どういうことですか、と聞くと、「マレーシアではマレー系が優遇されるでしょう。マレー系であれば平均的な能力でも、高い地位に引き立てられることがあるわけです。私は多数派ではありませんから、大学でも差別に遭い、本当に嫌でした」。実力とは別に、人種的な多数派のマレー系ではないことによって、自身が不利益を被っていると感じ、別の居場所を求めた。
 今は、上述の民間病院で、自分の能力が正当に評価される場に身を置くことができ、満足しているという。「臨床なら、自分の世界を持てます。患者に向き合い、自分のスキルを使う。いいことも悪いことも、すべて結果は自分に返ってきます。」いい仕事をしたら実力が認められ、シンプルな人間関係でのびのび仕事ができ、患者からも素直に感謝される今の境遇がとても気に入っているという。
 でも、何かあればいつでも飛び出せるように、まるでお守りのようにイギリスとオーストラリアの医師免許は更新を続けているのだという。「マレーシアには、マレー系以外の人は国内にはチャンスが限られ、能力がある人ほど海外に出ていく傾向があります。私のように」
 会話の終わりに、ドクターKは、身をかがめ、声を潜めてこう言った。
“In Malaysia, you know, everything is about your skin colour.”
(マレーシアではね、肌の色(=人種)がすべてなのです)
 意外だった。日本で良く言われる多民族国家マレーシアのイメージは、多民族が互いに適度な距離を保ちながら仲良く共存しているものだ。そのような印象とは大きく異なる、よくよく内部に目を向けて、現地の人の体験や声に耳を傾けなければなかなかわからない話だった。多文化共生が、理想やお題目ではなく、すべての市民が、毎日の日常の中で瞬間瞬間常に向き合っているものだ。外から眺めているだけではなかなか見えてこない。
 ドクターKには、次世代となる娘が2人いて、16歳と18歳。科学が好きで理数系の大学への進学を希望しているが、医者になりたいかはまだわからないという。母親が苦労しながら今の仕事とライフスタイルを手に入れるのを目にしてきたが、良くも悪くも人種的マイノリティかつ女性である医師の現実を見せてきた。
 「今の10代は、ワークライフバランスを保ちたい世代でしょう。医者は、特に最初の10数年間は、ワークライフバランスはありませんからね」。
 患者の身体だけでなく気持ちや家族とも寄り添い、また産婦人科医であれば出産に立ち会い、胎児をとりあげるといった物理的にも大胆かつ繊細な働きぶりが要求される、AIやロボットでは代替不能な、医者というこのハードワークな仕事に次世代が就いてくれるのかどうかは、未知数だ。

 

注1  文京区・茗荷谷に、日本人を快く迎える「シーク教寺院」があった
https://gendai.media/articles/-/65187


注2  GYECマレーシア国内予選
https://gyecmalaysia.org/

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著者略歴

  1. 後藤愛(ごとう・あい)

    1980年生まれ。一橋大学法学部(国際関係論専攻)を卒業後、2003年独立行政法人国際交流基金に入職。2008年フルブライト奨学生としてハーバード大学教育大学院教育学修士号(Ed.M。国際教育政策専攻)取得。2012年から2017年同基金ジャカルタ日本文化センター(インドネシア)に駐在し、東南アジア域内と日本との文化交流事業に携わる。2021年同基金を退職し、現在マレーシアでCHANGEマイクログラント(https://changemicrogrant.org/)活動に携わる。家族は夫と子ども3人。

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