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「越境する日本人 ~海外移住する日本人から読み解く、生き方・働き方・育て方~」後藤愛

第19回 腕白ジャイアンと、できすぎくんの掛け合わせから、工学研究へ

出会い

「『人と違うことをやりなさい』と背中を押してくれたんです」

 この越境企画のために時間を取ってもらって山根さんの話を聞いていたら、子ども時代の両親からの印象的だった声がけとして出てきた言葉だ。「ああ、それで日本の方々と一線を画している感じがあるのだなぁ」と私は妙に納得していた。
 山根さんご家族と知り合ったきっかけは、我が家の次男と、山根さんの長男が同じ年で、2022年に次男が通い慣れていたマレーシアの英語保育園に入園してきたことだった。転勤や引っ越しが多いこの近所の保育園で、きっと3歳の次男が小さいなりに先輩風を吹かせていたのだろう。「Kくんに息子がいろいろ教えてもらって、ありがとうございます」という妻のあやのさんの言葉を、私はつい真に受けたくなる要するに親バカだ。何はともあれ、息子外交官に感謝。素敵なお友達が増えたのだった。
 子どもをご縁にして、素敵なご両親とお友達になる、というママ友やパパ友と、なんなら祖父母やシッターさんたちとも緩く広く顔見知りになる保護者人脈作りは、マレーシア暮らしの間に私にとっていつの間にか特技のようになってきていた。
 夫の正明さんは外資系投資会社勤務、夫婦でマレーシアを希望して家族で香港から引っ越してきたという。妻のあやのさんも今は母親業に集中しているが、かつてアイルランドに語学留学して英語が堪能。香港で人事系の会社に勤めていたという。このご夫婦がどうしてマレーシアを選んだのか、満足されているのか、出会いから3年近くたった2025年9月に改めてご自宅にお邪魔して、子どもたちを遊ばせながらお話しを伺うことができた。

「とにかく一番になりたい」

 山根正明(やまね・まさあき)さんは、1982年広島県福山市生まれ。小学生のときは宿題を放ったらかすような伸び伸びした子ども時代を過ごした。身体が強く、身近な相手に悪ふざけが過ぎてしまい、両親が謝りに行くようなこともあった腕白な子ども時代だった。一方で教育熱心な両親で、姉の勉強を横から見ていた影響で小1で掛け算九九をすでに暗唱していたような勉強が得意な面もあった。
 父は大学中退ながらNHKで総務関係の仕事を続けてきた転勤族だったため、小6の夏まで広島県で育ったが、卒業まで半年を残して、父の転勤で山口県に引っ越して転校となった。けれど、ひょうきんで人を笑わせるのが好きな性格で、転校した一日目から友達が自宅に遊びに来るほどだった。祖父も父と同じくNHKで働いていたが、40歳前後で早期退職し、「もっと将来性があるから」と鳥取県で農業を始め、二十世紀梨や米などの有機栽培、減農薬を手掛けて着実に成長させる先見性と戦略性を持った農家となった。

「友達が行っているから行ってみたい」

 小5からそんな気軽な理由で塾に通ってみた。「とにかく一番になりたい、負けん気は誰よりも強かったと思います」。友達と競って勝ちたい気持ちがきっかけだったが、やってみたら勉強は嫌いではなく、むしろ何かを分かるようになる面白さに目覚めていって、成績も実際に一番になることが珍しくなかった。
 「ジャイアンとできすぎくんがかけ合わさったような子ども時代ですね」と私が言うと、「まあそうかもしれないです」と朗らかに笑った。
 中学ではバドミントン部に所属。その理由も「一番になりたい」から。小学校まではサッカーをしていたが、サッカーは競技人口が多く、学校でも、その先もなかなか一番になりづらい。「皆がやることではなく、人と違うことをやりたい」という気持ちもあった。県大会で1位になり、中国地方で2位で全国大会にも出場。進学した県立山口高校でもバドミントン部でインターハイを目指す毎日を送り、高2の夏に出場権を獲得。しかしながら大会直前の練習で右目に羽が当たって出血し、無念の欠場となった。高2の終わりの春休みに引退する選手がほとんどの中、無念を晴らしたい一心で、「もう1回チャレンジしたい」と、高3の夏まで部活漬けを選んだ。高3の夏に無事インターハイにも出場した。その後、大学受験に切り替え、一浪して2001年、19歳で大阪大学工学部(機械系)に入学。子どものころからミニ四駆などのメカが好きだったことから工学部を選んだ。
 ここまで地元で学校と部活に明け暮れる毎日で、海外や英語との縁はまるでなかった。


活気があるクアラルンプールの朝市の様子。新鮮な肉や魚や野菜が裏路地のマーケットを埋め尽くす。売る側と買う側の活気がみなぎる場だ。著者撮影

姉の影響で海外へ

 1歳年上の姉が英語好きが昂じて大学の英文科に入学し、大学2年の時に奨学金をもらってアメリカのアラバマ州に留学していた。2001年9月の米国同時多発テロの直後だった。
「航空券が安かったですし、姉を尋ねて海外に行ってみようと。初めてパスポートを取得しました。航空券を自分で買って、初めてしかも一人で海外渡航しました」。話を聞いているだけで、ドキドキが伝わってくる。学生時代、初めて一人で海外渡航をしたことのある人が共通して持っている高揚感だ。
 「行きの機内で、音楽が聴けるはずの機材が故障していて、『It’s broken (壊れてますよ)』とCAに伝えたら、通じたんです、これが」。生まれて初めて英語が通じた瞬間だった。アメリカでは、姉の友達のアメリカ人男性と1週間ルームシェアで住まわせてもらった。生まれて初めて英語を使い、アメリカ人の同世代と一緒に過ごしたことで、海外留学や生活について、「姉ができるなら自分だってできるだろ」という強い気持ちがむくむくと芽生えた。

工学からベンチャー事業化への興味 研究室から猛烈な実社会へ

 大阪大学の理系学生は大学院進学が多く、山根さんも大阪大学工学部の大学院に進学した。
 このとき、大学の掲示板に貼りだしてあったひとつのアルバイト募集が目に留まった。それは大学発ベンチャーの事業化支援の仕事だった。
 「工学系の研究に没頭することはあまり向いていないと感じていました。むしろ最先端の技術を世の中に広めることに興味があったんです」。
 アルバイトの仕事は、研究室が扱う最先端の技術を、実社会で事業化するための助成金の申請書を作成するものだった。ここで技術の事業化転用について大きな興味を持つ。またここでベンチャーキャピタルという、新規事業を立ち上げるベンチャー企業に対して資金を提供し会社をゼロから一(いち)にするところを伴走する仕事の存在を知った。
 数年の違いが時期的に山根さんにとって幸運でもあった。学部卒業年にあたる2005年は、就職氷河期であり、学部卒の友人が就職難で苦労するのを横目に見ながらの大学院進学だった。2年間を経て2007年に大学院を修了する時点では、ITバブルの影響か就職は難しいという雰囲気はおさまっていたという。タイミングの妙だった。
 このアルバイトを経た就職活動で、日本のベンチャーキャピタルの最大手であるJAFCO(ジャフコ グループ株式会社)の内定を得ることに成功する。
 内定後の残された大学院での時間を最も有効に使えた活動として、学内で開催された100万円の奨学金を目指して競う英語のプレゼン大会の経験も挙げてくれた。プレゼンのお題は「この奨学金を使って、海外で何を学び、大学にどのように貢献できるか」。チーム制のピッチコンテストで、山根さんのチームは「アメリカと日本のベンチャーキャピタルの比較検証をして、日本により良い姿を提案します」と仕事経験も生かしたピッチで審査委員から高評価をもらい、チームは優勝。優勝賞金の奨学金でカリフォルニア大学バークレー校(UCバークレー)を訪問し、MBAを聴講した。
 初めて見るMBAの授業風景に、「将来、MBAで学んでみたい」と頭の中に種が撒かれた。

鬼軍曹の下で修業

 2007年、24歳で社会人になる。JAFCOでは、投資先企業の成長支援を行った。新規企業の未公開株に出資して伴走し、上場まで導いたあと株を売却して利益を得るというビジネスだ。
 上司は「鬼軍曹」のあだ名で知られる猛烈に厳しい人だった。忙しすぎて仕事の優先順位を相談すると、「とにかく全部やれ」という指導だった。ビジネス書の指南とは真逆の精神論だったが、何とか食らいついた。
 「こうしたベンチャーキャピタルの仕事を新卒でも直接担当させてもらえるのはおそらく日本だけなんですよ」。業務内容にやりがいがあったのは確かだ。「仕事で出会った新興企業の社長たちが、『これからはアジアだ、海外だ』とよく言っていました。ですが、自分には英語力も海外経験も不足していました。すると、当時職場で隣の席の先輩が、アメリカのMBAの中でも特にファイナンスのトップ校として知られるペンシルバニア大学ウォートン校のMBA卒の人だったんです」。漠然とした願いに具体性が見えて、これがMBA留学を本気で志すきっかけになった。
 とはいえ、当時は長時間労働で、朝7時から夜中23時まで仕事。そこで、朝5時半にファミレスのガストに行き、朝6時の朝ごはんサービスが始まる前から勉強し、朝ごはんを食べつつ朝7時まで勉強して即出社する日を続けた。夜中の帰宅後も英語の勉強をした。「必死で勉強して30歳までに必ず留学する、ダメだったら諦める」と自分の中で厳しい締め切りを設けた。努力の結果、一年でTOEICが650点から920点まで上がるなど用意が整っていった。
 29歳、入社5年目で、念願のMBA留学が決まった。当初はアメリカやヨーロッパのMBAを検討していたが、これから成長余力の大きいアジアにと香港の名門公立大学、香港大学のMBAへの留学を決めた。


マレーシアでよく見かける大木。太陽の光と豪雨をふんだんに浴びて伸び伸びと枝葉を広げている。稀に暴風で太い枝が落ちると、危険だと見なされて剪定されることもあるが、道路も広いので伸び伸び育っている。著者撮影

MBAで英語の壁

 留学後、はじめは英語が全く聞き取れず、宿題が何なのかわからず、わざとペンを落として、「今、ペン拾ってて聞き逃した。宿題なんだって?」と隣の席のクラスメイトにさりげなく尋ねて、必死についていった。教員は英語ネイティブが多く、学生は約三分の一が中国人、三分の一がインド人、残り三分の一がアメリカ人、カナダ人など。日本人留学生は3人だけで約5%のみだった。
 「職場を休職して自費留学だったので、MBA取得後はJAFCOに戻って投資部で貢献したいと希望していました。しかし、復職したら次は人事関連の部署と言われてしまったんです」「投資とファイナンスを通じて『アジアの架け橋になりたい』との思いが強く、転職に動くことになりました」
 転職で香港などアジアに残ることを目標に、ローカル採用でも何でもと貪欲に200通のメールを出した。就職先として中国本土も検討したが、MBA在学中に中国本土の企業訪問などをする研修旅行に参加した際に、中国国内の人脈と商習慣に入り込めないと厳しいと痛感し、アジアのほかの国や日本とのつながりを生かした仕事を探した。
 努力の甲斐があって、9社から内定をもらうことができ、仕事内容から厳選して転職先を香港のヘッジファンドの仕事に決めた。ヘッジファンドの業務では、アメリカ人上司のもとで、上場株を株式市場で売買し顧客の資産運用を行うものだ。前職の未公開株とは異なる上場市場での売買は新たな職域を開拓する経験になった。
 上司の英語は、MBAの教員たちよりまた一段と速く、独特の口語や専門用語もあった。「英語が聞き取れるかどうかの問題も、MBAの時と違い、今度は宿題ではなく、仕事のタスクですので、成果を出せないと当然クビになります。日本人は私しかおらず、必死で指示を聞きとり、コミュニケーションを学びました」「ビジネスメールも上司の英語でのメールを観察分析して、単語や言い回しを吸収して、理解するだけでなく使いこなせるようにしました」。必死の努力で、3か月ほどで耳が慣れ、指示を確実に拾えるようになった。
 山根さんは何かに挑戦するとき、そこに見込まれる最初の苦しい時期を避けるのではなく、難所を抜けた暁には新しい景色が見えることを信じて前に進んでいる。
 2年間勤務した後、2015年に転職し、ロンドンに本社を置くArcus Investment Asia Ltd.(アーカス・インベストメント・アジア株式会社)の香港オフィスに勤めることになった。香港には通算9年間滞在した。
 中国のことわざで、「骑牛找马」というものがあるそうだ。直訳すると「牛に乗りながら、馬を探す」だが、今の仕事や立場・相手を維持しながら、より良いものを探すという意味だ。
 投資の世界でも、人生でも、いきなり「理想の馬」に出会うことはなかなかない。まずはいま手綱を握れる牛に乗って前に進むこと。その等身大の前進こそが、彼の背中を静かに押し続けてきたのだろう。
 香港からマレーシアへ。どのような思考でその手綱を切り替えたのか、次の回で確かめてゆきたい。

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著者略歴

  1. 後藤愛(ごとう・あい)

    1980年生まれ。一橋大学法学部(国際関係論専攻)を卒業後、2003年独立行政法人国際交流基金に入職。2008年フルブライト奨学生としてハーバード大学教育大学院教育学修士号(Ed.M。国際教育政策専攻)取得。2012年から2017年同基金ジャカルタ日本文化センター(インドネシア)に駐在し、東南アジア域内と日本との文化交流事業に携わる。2021年同基金を退職し、現在マレーシアでCHANGEマイクログラント(https://changemicrogrant.org/)活動に携わる。家族は夫と子ども3人。

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