第7回 習慣と直感
前回は、『パンセ』において、人間の知性や感覚の無力さが、人間の身体の大きさが大小二つの無限の「中間」に位置することによって説明されているという点について見た。人間は身体をもつがゆえに、限られた認識能力しかもたないということだ。だが、その身体は、人間が確実な認識を得るための条件でもある。そのことは、パスカルの「習慣」および「直感」に関する主張からうかがえる。
まず、彼によれば、人間にさまざまな命題を確信させるのは「習慣」である。
「われわれは精神と同じくらい自動人形である。だからこそ、納得のための道具は、論証だけにかぎらないのだ。そもそも、論証済みのことがらなど、いかにわずかしかないことか! 証拠は精神しか納得させない。習慣は証拠をもっとも堅固にし、もっとも強く信じさせる。習慣は自動人形を傾け、精神は知らぬまに自動人形に引きずられていく。明日がやってくることや、われわれ人間はいずれ死ぬということを、いったい誰が論証しただろうか。だが、これ以上に固く信じられていることがあるだろうか」(S661-L821-B252)
ここで「自動人形automate」とは、身体の隠喩である。当時、広くもてはやされたデカルトの動物機械説の影響のもとで、動物が自動人形と同一視された(拙著『パスカル『パンセ』を楽しむ』、5「動物たち」を参照)。パスカルはこの流行語を用いて、人間の身体が、(動物と同様に)思考や推論という作用を一切欠いていることを印象づけようとしている。彼によれば、論証は精神に、習慣は自動人形(=身体)に、それぞれ働きかける。ある命題を確信させるには、論証は無力であるが、習慣があれば十分である。つまり、人間が何かを確信するのは、身体のおかげだということである。
「それゆえ、われわれの二つの部分をともに信じさせなければならない。つまり、精神を理屈──これは生涯に一度目にするだけで十分である──によって信じさせ、自動人形を習慣によって──反対に傾くことのないようにしながら──信じさせるのである」(S661-L821-B252)
ここでの「習慣」は、命題が単にくり返し想起されるという事態を指示しているが、パスカルは、いわゆる「賭け」の断章の末尾部分で、身体の動作としての習慣について言及している。論証によって信仰に至らない者は、信者のふるまいの模倣によって容易に信じられるようになるというのである。次は不信仰者への助言の一部である。
「つまり、まるで信じているかのようにふるまうのだ。聖水を授かったり、ミサを唱えてもらったりするのだ。そうすれば、あたかも信じられるようになり、馬鹿になれるだろう」(S680-L418-B233)
「馬鹿になるabêtir」という衝撃的な一語が、信仰の発生において、精神よりも、(人間の動物的部分としての)身体の果たす役割が大きいことを雄弁に伝えている。
次に、「理性」と「直感」の働きの違いについて述べる一節を見よう。
「というのも、空間、時間、運動、数が存在するというような第一原理の認識は、われわれの推論によって与えられるいかなる認識よりも確実である。そして理性は、このような心と本能による認識をよりどころにしなければならないのだし、理性によるすべての論述は、そのような基盤の上に構築しなればならないのである。心は、空間には三次元があることや、数は無限であることを感じる。次に理性が、一方が他の二倍になるような二つの平方数が存在しないということを証明する。第一原理は感じられ、命題は結論づけられるが、それぞれ異なった方法によるとしても、すべては確実に行われる」(S142-L110-B282、強調引用者)
推論や証明は「理性」が行うのに対して、われわれが論証を経ずとも真であるとみなしている「第一原理」の認識は、「心と本能」が与えるという。第一原理の認識は、「感じsentir」られるため、「直感sentiment」とも呼ばれる。理性と直感は相互に補い合う正当な認識手段であるが、パスカルはこのうち、より確実な認識を即時に与える直感を重要視している。「われわれが理性など決して必要とせず、どんなことがらも本能と直感によって知ることができればよかったのに!」と。その上で彼は、「神が心の直感によって宗教を与えた者はまことに幸いであり、まことに正当に説得されている」と語り、直感を正しい信仰の条件とみなすのである(S142-L110-B282)。「感じる」とは、心と感覚器官において生じる作用、心身の相互作用であり、身体と精神の両方をそなえた人間にしてはじめて可能な働きである。パスカルは、「直感」という作用のなかに、身体の影響を受けずにはいられない人間の認識の特質を見ている。
パスカルはこのように、人間の認識活動、ひいては信仰における身体の役割を強調してやまない。同時代にデカルトが、「我思う、ゆえに我あり」という言葉で、自己の本質を思考に求めたのと対照的である。デカルトにおいては、純粋な思考としての「我」が無限で必然的な存在である神を確証する。パスカルにおいては、思考は身体を離れて行使されることはなく、むしろ身体が人間の思考の基盤と限界とをなしている。
「われわれの魂は、身体のなかに投げ込まれて、そこで数、時間、次元を見いだす。魂はそこから推論し、それを自然、必然と呼び、ほかのものを信じることができない」(S680-L418-B233、強調引用者)
身体による認識という発想は、メルロ=ポンティ(「身体性の哲学」)やブルデュー(「ハビトゥス」)ら、現代の哲学者によっても受けつがれている。
*『パンセ』からの引用箇所は、セリエ版[S]、ラフュマ版[L]、ブランシュヴィック版[B]の断章番号によって記す。
◇初出=『ふらんす』2017年10月号