第4回 固定点
『パンセ』には卓抜な隠喩が多数見つかる。次の「固定点」や「港」もそうだ。
「乱脈な生き方の人々が秩序正しく生きる人々に、「君たちは自然から逸脱している」などと告げ、自分こそが自然に従っていると信じるのは、船に乗っている人々が岸にいる人々を見て、むこうが後退していると思いこむようなものだ。どちら側も同じことを言う。その是非を判断するには、固定点が必要である。船上の人々については港が判断する。だが、道徳においては、どこに港を置けばよいのだろうか」(S576-L697-B383)
複数の主張が対立するとき、どれが正しいかを判定するには客観的な視点が必要である。パスカルはこの視点を「固定点」あるいは「港」と表現する。ところで、船が動いているかどうかを判定するときは「港」の証言があれば十分だが、こんなふうに絶対的な判定者がいて即座に解決できる問題は、むしろまれである。犯人は誰かという単純な事実をつきとめるにも、しばしば複数の証言が食いちがう。司法の裁きも誤ることがある。ましてや、道徳に関する判断に「固定点」などありえない。人間は「固定点」がない問題でも、自分の意見が正しいと思いこむ。次の一節は、相手が誤っていると決めつけ、反論に逆上する者の居丈高(いたけだか)なさまをよく表している。
「足の曲がった人を見ても腹が立たないのに、精神の曲がった人を見ると腹が立つのはなぜだろうか。それは、足の曲がった人は、われわれの足がまっすぐであると認めるのに対して、精神の曲がった人は、「そっちこそ精神が曲がっている」と言うからである。そうでなければ、怒りではなく、あわれみをかけてやったのに」(S132-L98-B80)
答えのない問題でどんな意見をもとうと、人から怒りやあわれみを向けられる覚えはない。そんな問題の解決に必要なのは、誤っているのは自分かもしれないという謙虚な姿勢と、相手との対話ではないか。ソクラテスの哲学はまさにこの対話の実践であった。上の一節は、人間の陥りがちな傲慢を戒めているのだ(拙著『パスカル『パンセ』を楽しむ』、1「馬鹿」を参照)。われわれはみな、同じ船に乗っているにもかかわらず、自分だけが固定点にいると勘ちがいしているようなものである。
「何もかもがいっしょに動いているときは、何も動いていないように見えるものだ。あたかも同じ船のなかにいるときのように。誰もが正道を外れそうになっているときには、誰もそのようには見えない。立ち止まる者が固定点となり、他の者たちの逸脱を指摘する」(S577-L699-B382)
上の状況でこの「固定点」に位置する者は、神以外にはありえない。ガリレオの地動説は、地球がここで言う「船」にほかならない可能性を示唆し、世に戦慄を抱かせた。地球が動いていれば、われわれの足場そのものがつねに漂流していることになるからだ。パスカルは地動説に積極的に賛同していたわけではないが、教会によるガリレオ断罪を支持するイエズス会のアナ神父を、次のように揶揄している。「ガリレオ説を断罪する教令が、地球が静止していることを証明するわけではないでしょう。それに、仮に地球の公転を証明する恒常的な観察結果が得られたら、人類全体が束になっても地球が回るのを阻止できないし、自分たちも地球といっしょに回るのを止められないでしょう」(『プロヴァンシアル』「第18 の手紙」)。「固定点」の不在という認識が、このような科学上のパラダイムの転換期と同時期であったことは興味深い。
ところで、パスカルは一方で、こんな文章も記している。
「幾何学、繊細さ。/真の雄弁は雄弁を馬鹿にする。真の道徳は道徳を馬鹿にする。つまり、規則などない判断の道徳は、精神の道徳を馬鹿にする」(S671-L513-B4)
真に正しい道徳は、「幾何学」の論証のような明示的な規則ではなく、「繊細さ」と呼ばれる、他者に共有されにくい一見無秩序な直感に従って解明される、ということだ。そうであれば、道徳においても、才能に恵まれた一部の者は「固定点」を見いだしうるということになる。では、次の謎めいた断章は、どう読むべきだろうか。
「規則なしにある著作を判断する人々と、そうでない人々との関係は、時計をもつ人々と、そうでない人々との関係と同じである。ある者は「2時間経った」と言い、ある者は「45分しか経っていない」と言う。私は自分の時計を見て、前者に「退屈しているのだね」と言い、後者に「君には時間が経つのが早いね。もう1時間半になるよ」と言う。それに、私に「君の時間の測り方は独特だ。君は時間を勝手に判断している」などと告げる者がいるが、私はそんな連中を馬鹿にする。/彼らは、私が自分の時計によって判断していることを知らないのだ」(S457-L534-B5)
第一文の辻褄(つじつま)が合わないように思える。なぜ「規則なしに判断する」ことが、「時計をもつ」ことと類比関係にあるのか。かつてこれに関して、「規則なしに」は「規則をもって」の書きまちがいだとか、「時計をもつ人々」は正しくは「時計をもたない人々」だという解釈が提案された。だが、ここでの「時計」が、前の引用で言う「繊細さ」、すなわち正しい直感の隠喩であるとすればどうだろうか。「固定点」などないように思われる真偽や道徳の問題においても、 優れた判断力を備え正解にたどり着く者はいる。ただしその判断基準は、袖の下の腕時計と同じく他人から見えないために、万人共通の「規則」としては通用しない──このように解釈できる。パスカルは、「規則なしに」判断する者の孤独と、その者が陥りがちな高慢さ(「馬鹿にする」という姿勢に明らかだ)とを、ともに意識していたのである。ちなみに、当時としては珍しく、パスカルはいつも腕時計を身につけていたそうだ。
*『パンセ』からの引用箇所は、セリエ版[S]、ラフュマ版[L]、ブランシュヴィック版[B]の断章番号によって記す。
◇初出=『ふらんす』2017年7月号