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山上浩嗣「寝るまえ5分のパスカル『パンセ』入門」

第2回 天使と獣

 これは、『パンセ』のなかでもとくによく知られた断章である。

 

 「人間は天使でも獣でもない。だが不幸なことに、天使のまねをしようとして獣になる」(S557-L678-B358)

 

 天使と獣という簡潔で具体的なイメージにより、鮮烈な印象を与える。だが、天使のまねとはどんな行いだろうか。また、なぜそれによって人間は獣になるのだろうか。

 天使と獣は、ここでは神学上のカテゴリーである。戧造主たる神のもとに、優れた知性をもち不死である「天使」、理性をもつが可死である「人間」、理性をもたず可死である「獣」が、上位から下位への階層をなしている(アウグスティヌス『神の国』IX, 13)。つまり人間は天使と獣の中間にある。この序列は神が定めたもので、決して侵してはならない。その人間が天使のふりをする。身のほどを知らずに、限りなくおのれの上位にある存在と肩を並べようとするということだ。人間の思い上がりは度しがたく、その罪は途方もなく大きい。キリスト教において、傲慢はそれ自体が罪である。「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる」(ヤコブの手紙4:6. 新共同訳聖書)。結果、神は人間を獣と等しい地位に格下げした。「獣」は、そのような愚かな罪を犯す人間の卑しさそのものの暗喩でもあるだろう。しかも、人間はその罪から逃れられない。「謙虚さについて語っていても、うぬぼれた連中にとってはそれが驕(おご)りの種になる」(S539-L655-B377)のだから。

 しかし、人間の傲慢は今に始まったものではなく、原罪のきっかけでもあった。かつて人間は、神と対等にふるまおうとしたのである。次の一節では、神が直接人間に語りかける「活喩法」という修辞が用いられている。

 

 「私は人間を、清く、無垢で、完全な状態で生み出した。光と知恵で満たした。[…] だが、彼はかくも大きな栄光を、思い上がりに陥らずには保持できなかった。おのれを自身の中心となし、私の救いから独立しようと望んだ。私の支配から逃れ、幸福をみずからのうちに見いだしたいという欲望から、私と対等になろうとした。そこで私は彼を見すて、それまで彼に服従していた被造物どもを、彼に逆らうようにしむけ、彼の敵となした。その結果、人間は今日、獣に似た存在となり、私からはるかに遠ざかってしまったために、彼のなかには、創造主である私の漠たる光がかろうじて残っているにすぎない。[…] 感覚が理性から独立し、しばしば理性の主人となることで、人間を快楽の追求に駆り立てた。すべての被造物が人間を、あるいは苦しめ、あるいは誘惑する」(S182-L149-B430)

 

 人間は極度の傲慢の罰として、栄光と不死の状態から、邪欲と悲惨の状態に陥った。人間は今や、天使の原理である「理性」ではなく、獣の原理としての「感覚」の悦び、はかなく空しい悦びの追求にとらわれている。原罪によって、天使の地位から獣の地位への目くるめくような墜落を経た人間は、今なお懲りずにその経験を反復しているのだ。護教論者としてのパスカルの目的は、読者に信仰を通じて思い上がりを捨てさせることで、かつての地位を回復するように誘うことである。それが宗教の説く救済である。そのためには、冒頭の断章のように人間は「天使でも獣でもない」と告げるだけではなく、天使でも獣でもあることも知らせなければならないという。

 

 「人間はおのれが獣と天使のいずれか一方に等しいと信じてはならないし、いずれでもないと考えてもいけない。いずれにも等しいと知らなければいけない」(S154-L121-B418)

 

 天使と獣の中間的存在である人間は生来、天使的な資質も獣的な資質も保持している。前者は真理を知り永遠の幸福を享受する能力、後者はおのれを真理から遠ざける情念と邪欲のことである。人間はそのような矛盾する本性を自覚して、邪欲(その最たるものが傲慢すなわち自己愛だ)を憎み、真理すなわち神を見いだし、それに従うように心を整えなければならない(Cf. S151-L119-B423)。『パンセ』に見られる、人間が偉大かつ悲惨、高貴かつ卑小な、極度の矛盾をはらんだ存在であることを告げる数々の文章は、いずれもこのような主張に結びつく。その一例として、私の好きな一節を紹介しておこう。ここにも生き生きしたイメージが満ちている。

 

 「人間とは一体、なんという怪獣なのか。なんという珍奇な代物、なんという怪物、なんという混沌、なんという矛盾、なんという驚異なのだろうか。森羅万象の審判でありながら愚昧(ぐまい)なミミズでもあり、真理の保持者でありながら不安と錯誤の巣窟でもあり、宇宙の栄光でありながらそのごみくずでもあるとは!」(S164-L131-B434)

 

 冒頭の断章については、モンテーニュ『エセー』の次の一節からの影響が指摘されている。「人々は自分の外に出たがり、人間から脱しようと望む。愚かなことだ。天使になろうとして動物になる。天に昇ろうとして地に倒れる」(III,13「経験について」)。ただし、現状からの脱却をめざすパスカルと異なり、モンテーニュは、自然のままの自己を感謝して受け取ることにこそ救いがあると説いている。「自分の存在をありのままに享受するすべを知るのは、神聖なまでに絶対的な完成である」(同上)。パスカルはモンテーニュから表現を借りながら、しばしば正反対の主張を行うのである。

 ところで、アウグスティヌスは、神への愛に身を捧げるよき天使と、自己愛によって増長する悪しき天使があると書いている(『神の国』XI, 33)。天使もまた堕落して「獣」になりうるということだ。『パンセ』には、この堕天使への言及はない。

 

*『パンセ』からの引用箇所は、セリエ版 [S]、ラフュマ版 [L]、ブランシュヴィック版 [B] の断章番号によって記す。

 

◇初出=『ふらんす』2017年5月号

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著者略歴

  1. 山上浩嗣(やまじょう・ひろつぐ)

    大阪大学教授。著書『パスカルと身体の生』『パスカル「パンセ」を楽しむ』

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