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山上浩嗣「寝るまえ5分のパスカル『パンセ』入門」

第11回 外見の美

 パスカルはしばしば、たったひとつの鮮烈な具体例によって、きわめて一般的な命題を読者に納得させる。次の断章が名句とされるのは、末尾の一文以上に人間の空しさを端的に示す現象は、およそ考えられないからである。

「人間の空しさをしっかりと知りたければ、恋愛の原因と結果を見ればよい。恋愛の原因とは〈なにやらよくわからないもの〉« un Je ne sais quoi » である(コルネイユ)。そして、結果は恐るべきものだ。この〈なにやらよくわからないもの〉は、ささいなあまり知覚できないものであるが、これが地球全体を、王侯を、軍隊を、全世界を揺るがすのだ。/クレオパトラの鼻がもっと短かかった(plus court)としたら、地球の様相の全体は一変していただろう」(S32-L413-B162)

 塩川徹也氏は、滋味あふれるエッセーのなかで、上の一節では恋愛があらゆる合理的な因果関係を超えて生じるものとみなされている以上、女王の鼻の形は美醜の一般的な判断と結びつかないものとして理解すべきではないかと論じている(「高低か長短か 〈クレオパトラの鼻〉をめぐって」、『パスカル考』岩波書店、2003年、所収)。つまり、「クレオパトラの鼻」の一文は、「女王の容色がそれほど完全でなかったら」という意味ではなく、単に「女王の容貌が実際と少しでも異なっていたら」という意味だということだ(塩川氏は岩波文庫版『パンセ』で、従来「低い」「短い」と訳されてきたcourtの語を「小ぶり」と訳している)。説得的な見解である。ただ、パスカルはそれでも、女王が少なくともカエサルやアントニウスの好む容姿であったと考えていたのはまちがいない。パスカルは、男たちが惹かれたのは、なによりもまず女王の外見だったと言いたいのだ。つまり、彼にとって人間が空しいのは、とりわけ他人の外貌などという移ろいやすいものに惑わされるからにほかならない。次の断章は、人の美貌がいつでも失われる可能性があることに注意を向けている。

「ある人が、窓辺に腰かけて通行人を眺めている。そこに私が通りかかった場合、彼は私を見るためにそこにいたと言えるだろうか。そうは言えない。彼はとくに私のことを考えているわけではないからだ。では、ある人をその美しさゆえに愛する者は、その人を愛しているのだろうか。そうではない。なぜなら、天然痘は、その人を殺さずに、その美しさを殺してしまうことで、相手がもはやその人を愛さないようにしてしまうからである」(S567-L688-B323)

 残酷きわまりない観察である。伝染病に冒された人は、恋人による慰めをいっそう必要とするにもかかわらず、その病気がもとで容貌に変化が生じることで、かえって恋人からの愛を失うのだという。たしかにこの場合、この恋人は相手を愛していたのではなく、相手のかつての容姿を愛していたにすぎない。
 パスカルはまた、「想像力」と題された断章で、人の見かけが他人からの評価に及ぼす影響について詳しく論じている。次はその一部である。

「わが国の法官たちはこの神秘をよく知っていた。彼らの赤い衣服、ふさふさ毛の猫のように彼らが身を包んでいる毛皮、彼らが裁く場所である宮殿、百合の花の紋章、こうしたいかめしい仕掛けはどうしても必要なものであった。また、医者たちが長衣や上履き(ミュール)を身につけていなかったり、博士たちがあちこちがだぶだぶの衣装をまとっていなかったとしたら、決して世間の人々をだますことはできなかったであろう。世間の人々は、このようないかにもきちんとした見かけに抵抗することはできないのだ」(S78-L44-B82)

 立派な外観はすべてまやかしである。法官、医者、博士の知識や技術は、それ自体は貧弱または拙劣すぎて、人々にいかなる信用も与えない。彼らはひとえに豪華な衣服や壮麗な建物によっておのれの権威を演出しているのである。
 たいていの場合、外見は中身を、表現は現実を水増しして見せるものだが、人はそれを見かけのとおりに受け取ってしまう。それゆえ人々は、「黄金の世紀」「現代の驚異」「運命的な」などなどの針小棒大の宣伝文句を「詩的な美」を備えた表現であると勘違いしている(S486-L586-B33)。だが、人が真に快を覚えるのは、それとは反対に、見かけと現実とが合致しているものである。「鏡や鎖で全身を飾った美女」(S486-L586- B33)は称賛に値するどころか、嘲笑の的となる。
 パスカルは、さらに進んで、真に崇敬に値するのは、みすぼらしく惨めな外見を備えた存在であるとさえ言う。そのような存在の最たるものがイエス=キリストである。

「イエス=キリストのみすぼらしさを見て、まるでそのみすぼらしさが、彼が現しにやってきた偉大さと同じ秩序に属するものであるかのように思ってつまずくのは、愚かなことである。/この偉大さを、彼の生涯、彼の受難、彼の目立たないさま、彼の死、彼が弟子たちを選ぶさま、その弟子たちが離反するさま、彼のひそやかな復活、その他のことがらのなかに認めなければならない。人はその偉大さが顕著なものであると知り、そこにはないみすぼらしさによってつまずくことはなくなるだろう」(S339-L308-B793)

 外見の美の魅力に抗い、むしろ惨めな姿のなかに偉大さを見る姿勢こそが、パスカルの理想とする「慈愛の秩序」の境地なのである。
 一方、モンテーニュはこう言い放つ。「私が美貌という強力で有利な長所をどんなに高く評価しているかは、どれだけ強調しても足りない」、「私は、形においても、相手の受け取る印象においても、恵まれた外見をしている」(『エセー』III, 12)と。いつもながら、度肝を抜く大らかさである。

◇初出=『ふらんす』2018年2月号

*『パンセ』からの引用箇所は、セリエ版 [S]、ラフュマ版 [L]、ブランシュヴィック版 [B] の断章番号によって記す。

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著者略歴

  1. 山上浩嗣(やまじょう・ひろつぐ)

    大阪大学教授。著書『パスカルと身体の生』『パスカル「パンセ」を楽しむ』

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