最終回 一週間と全生涯
伊坂幸太郎の『死神の浮力』という小説のなかに、主人公の男性が次の一文を暗唱し、パスカルの言葉だと告げる場面がある(訳文は少し改変)。
「もし生涯のうち一週間をささげなければならないのなら、百年をささげなければならない」(S191-L159-B204)
主人公の妻はどういう意味かと尋ねるが、会話はそこで打ち切られ、解答は与えられない。実際、魅力的だが難解な断章である。「ささげる」とは何にささげるのだろうか。なぜ「一週間」と「百年」がまるで等価値のように並列されているのだろうか。
まず、この断章は、次の断章とよく比較される。
「〈悪の魅力〉(Fascinatio nugacitatis)/情念が害をおよぼすことのないように、あと一週間の命だと仮定して生きよう」(S5-L386-B707)
〈悪の魅力〉とは聖書の「知恵の書」の言葉で、空しい快楽に惑わされ惹きつけられる人間の邪念に対する警告として置かれている。続く一文の意味は明らかだ。余命が一週間しかないと仮定すれば、そんな誘惑を退け、時間をもっと有効に活用できるはずだ、というのである。この主張を踏まえれば、冒頭の断章は、「われわれは、たとえ百年生きられるとしても、一週間しか生きられないと仮定して生きなければならない」、すなわち「自分はすぐに死んでしまうとの想定のもとに、生をもっと貴重な活動にささげなければならない」と告げていると解釈できる。パスカルにとって「人間の尊厳」をなすこの世で唯一の貴重な活動とは、肉体の死後の生の可能性を探求し、もしその可能性があるなら、それに与るために最大限の努力を傾けることである(本連載第8回「狩りと獲物」を参照)。この解釈は、次の有名な一節の趣旨にも合致する。
「獄中の男が、自分に判決が下されたかどうかを知らず、それを知るのに一時間の猶予しかない。ただ、もしそうと知ったら、一時間もあれば判決を撤回してもらえるとする。その場合に、男がこの一時間を、判決が下ったかどうかを知るためではなく、カード遊びをするのに費やしたとしたら、自然に反するだろう」(S195-L163-B200)
この男は、迫り来る死から目をそらすために、富や名声やつかの間の快楽の追求(パスカルの言う「気晴らし」)に余念がないすべての人間を戯画的に表している。
また、パスカルにとって、一週間と百年という時間にさほどの違いはない。無限と比べれば、すべての有限の数は無に等しいからだ(「無限に1を加えても何も増えないし、無限の長さに1ピエを加えても同じである。有限は無限の前では消失し、純粋な無となる」S680-L418-B233)。ペトロも書いていた。「主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです」と(「ペトロの手紙 二」3 : 8)。
この、一週間と百年の差が問題にならないという論点は、「賭け」の議論のなかでくり返しふれられている。パスカルの「賭け」の議論は、簡単に言えば次のようである(S680-L418-B233を参照)。神が存在するか否かは絶対に不可知なので、神を信じることは、コイン投げの賭博で表が出るほうに賭けることに喩えられる。表と裏が出る確率はいずれも2分の1であるが、前者を低く見積もってn分の1(n>2)としてもよい。賭博への参加料は「ひとつの人生」つまり現世の生涯全体である。表が出た場合、勝者には「無限に幸福な無限の生涯」が与えられるが、裏が出た場合の勝者への配当はゼロである。必ず表と裏のいずれかに賭けなければならない。このとき、実際上、表を選ぶしかない。参加料以上の配当が与えられる可能性があるのは表に賭けた場合だけであり、しかもその配当は数字に置きかえれば「無限大」(∞)なのだから。
この議論の問題点とそこからうかがえるパスカルの真意については拙著『パスカル『パンセ』を楽しむ』で述べたのでくり返さない(第38-40章を参照)。ここで注目したいのは、この賭博における参加料と、表に賭けた場合の勝者に与えられる配当との関係である。パスカルはこう説明する。
「どうしても賭けなければならない場合に、無限の利益が得られる可能性と何も失わない可能性とが同等ならば、[参加料である]一生涯を差し出さずに温存しようとするのは、理性を欠いた行いだろう」(S680-L418-B233)
「永遠対一週間」も「永遠対百年」も、結局は「無限対有限」すなわち「無限対ゼロ」と同じことだ。であれば、永遠の生命との交換に一週間の生涯を差し出すことに合意する人は、たかだか百年の全生涯をささげることにも合意するはずだ。なぜなら、「十年ほど長く生きたところで、われわれの寿命は、永遠に比べれば依然として微々たるものにすぎないではないか」(S230-L199-B72)。
ところで、賭けの断章に登場するパスカルの架空の対話者である不信仰者は、全生涯という参加料への不満を口にしていた。「たしかに、賭けるべきなのだろう。でも、差し出すものが大きすぎないか」(S680-L418-B233)と。冒頭の断章は、この発言への返答にもなっている。仮に参加料が全生涯ではなく、生涯の一部、たとえば一週間である賭けがありうるとして、それはどんな事態だろう。一週間だけ表に賭ける人は、一週間だけの信者ということになる。表裏のいずれにも賭けないのは神を信じないこと、すなわち裏に賭けることと同じになるからだ(前掲拙著第38章参照)。パスカルの提案する賭けには、今後の人生のすべてをささげないと意味をなさないのである。
たった一行の断章のなかにも、パスカルのさまざまな想念が凝縮されている。それを、関連の断章を頼りに、自分なりの想像もまじえて解読すること。これが『パンセ』を読む楽しみである。一年間のご愛読ありがとうございました。
*『パンセ』からの引用箇所は、セリエ版 [S]、ラフュマ版 [L]、ブランシュヴィック版 [B] の断章番号によって記す。
◇初出=『ふらんす』2018年3月号