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山上浩嗣「寝るまえ5分のパスカル『パンセ』入門」

第10回 政治と慈愛

 国家に真の正義はない。強者がおのれの権力の維持のために都合のよい法制を、正義と定めているだけである。政治とは、為政者が武力や謀略を用いてでも、その虚構を真実と信じこませることで、国内の秩序と平和を維持する策である。一方、臣民も、「裏の考え」に従って、だまされたふりをしなければならない。──これが前回に見た、『パンセ』における政治思想の要点である。今回はその続きである。
 パスカルはしばしば、政治と宗教、国家と教会を対置している。まず、国家とは異なり、教会には正義はある。パスカルは、地上の国家においては、「正義を力の下に置き、力が遵守させているものを正義と呼ぶ」こと、すなわち、「剣が真の権威を与える」ことを容認する。「さもなければ、暴力と正義のありかが別々になる」からだ。

「したがって、フロンドの乱は不正である。おのれが正義と呼ぶものを力に対抗させようとするのだから。/教会内では事情は異なる。そこには真の正義があり、暴力は一切存在しないのだから」(S119-L85-B878)

 パスカルは、教会および王権による信仰宣誓書への署名の強制に対しては、断固として抵抗した(本連載第5回「〈圧政〉と精神の自由」を参照)。彼は、政治においては平和のために欺瞞を許容する一方で、宗教においては平和よりも真理を優先するのである。
 次に、パスカルによれば、国家の法と異なり、教会の法は単純である。「たった二つの法が、キリスト教の共和国全体を統治している。それだけで、政治におけるあらゆる法にまさるのだ」(S408-L376-B484)。二つの法とはこれである。

「神だけを愛し、自分だけを憎まなければならない」(S405-L373-B476)

 パスカルは、人間が他者を自己に服従させたいという不正な欲望に囚われていることを、くり返し指摘している。キリストの教えは、煎じ詰めれば、この「自己愛」または「邪欲」を、神への愛、すなわち「慈愛」へと向け変えることである。神の国は慈愛によって、人間の国家は、慈愛の「像」すなわち影である邪欲によって、機能している。傲慢、策略、暴力、欺瞞、これらはすべて人間の邪欲のもたらす現象である。前回に見たように、政治はこれらを糊塗し、見かけの平和を実現する技術なのである。

「邪欲のなかにさえある人間の偉大さ。邪欲から驚嘆すべき規律を引き出すことができ、邪欲を慈愛の像(tableau)としたのだから」(S150-B402-L118)

 それにしても、これはあまりにも荒涼とした風景である。国家の平和は、人間の邪欲のもたらす欺瞞や策略によって成り立っているとは! だとすれば、いかに身勝手な独裁者でも、民衆をうまくだませば、あるいは極端な恐怖政治を発動すれば、国家は安泰だということになる。『パンセ』の政治論は、地上の国家とは対照的な神の国がいかに完全な秩序に満ちた共同体であるかを示すことに主眼があるのであって、これだけを取り出してみれば、実践性を欠いた空論だと言わざるをえない。
 そこで、パスカルが友人の大貴族の若君に対して行った、君主の心構えについての講話を見てみよう。ここには『パンセ』とは異なるパスカルの政治観がうかがえる。ここで彼は、神が「慈愛の王roi de la charité」であるのに対して、若君は、人々の現世の欲望の対象となる富を備えた「邪欲の王roi de concupiscence」にすぎないと言う。

「ご自分の生来の身分をわきまえて、それによって与えられた手段を用いなさい。ご自分が王であるゆえんを忘れて、それと異なった仕方で統治しようなどと思ってはなりません。[…] 人々の正当な欲望を満たしてあげなさい。困窮を和らげ、みずから恩恵を施してあげなさい。彼らの出世もできるだけかなえてあげなさい。そうすれば、あなたは真の意味で、邪欲の王としてふるまうことになるでしょう」(『大貴族の身分に関する講話』「第三」、Pascal, OEuvres complètes , éd. J. Mesnard, tome IV, p. 1034)

 君主になったら、「邪欲の王」としての自分に期待されている役割を自覚して、人々に現世的な幸福を授けることだけを考えて統治せよ、という(自分の邪欲を満たそうとする王という意味ではない)。地上の支配者たる君主は、神のように慈愛を授けることはできないのであり、そんなことは期待されてもいないのである。この「邪欲の王」は、『パンセ』で描かれていた為政者像とは似て非なるものである。おのれの分際をわきまえるという謙遜の徳をもち、臣民に親切にふるまうという隣人愛をそなえている。しかもパスカルは、続けてこんなことを口にする。

「もしそこにとどまるのなら、あなたは身を滅ぼさずにはいられないでしょう。[…] ゆえに、そこにとどまっていてはいけません。邪欲とその王国をさげすみ、すべての臣民が愛だけを求め、愛の富だけを切望する慈愛の王国を希求しなければなりません」(同上)

 邪欲の王に徹しながらも、「慈愛の王国」を希求するとは、どういうことか。「慈愛の王国を希求する」とは、神の王国を憧憬する、恋い焦がれることであって、自己の居場所と、この憧憬の対象との間にある絶対的な懸隔を知ることである。一方、邪欲の王に徹するとは、上で見たとおり、地上の支配者としての権能と役割を自覚し、ひたすらその実現に努力することである。これを遂行する上でもっとも重要な資質は、謙遜にほかならない。真の謙遜の念は、みずからの行為を卑小であると知ること、おのれの営為を「さげすむ」ことによってしか生じえない。これを可能にするのが、自分とは異次元の高みにある「慈愛」への憧憬なのである。
 パスカルの冷徹な政治観のなかにも、実は彼の宗教的信念が深く浸透している。政治は為政者の欺瞞によってのみ成立するのではない。神の国を統(す)べる原理としての慈愛が、地上の平和と秩序を真に保証する原理ともなるのである。

*『パンセ』からの引用箇所は、セリエ版[S]、ラフュマ版[L]、ブランシュヴィック版[B] の断章番号によって記す。

◇初出=『ふらんす』2018年1月号

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著者略歴

  1. 山上浩嗣(やまじょう・ひろつぐ)

    大阪大学教授。著書『パスカルと身体の生』『パスカル「パンセ」を楽しむ』

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