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山上浩嗣「寝るまえ5分のパスカル『パンセ』入門」

第5回 「圧政」と精神の自由

 ルカによる福音書(14:15-24)に、謎めいたたとえ話がある。ある家の主人が宴会を催そうとしたが、招待客はみなさまざまな口実とともに断った。そこで、怒った主人は僕(しもべ)に、急いで代わりに貧しい人や体の不自由な人を連れてくるように命じた、という話だ。主人の「無理にでも人々を連れてきなさい」という言葉(ラテン語でcompelle intrare)は、信仰を拒む者には力づくの制裁もやむなし、という主張の根拠になったそうだ(Ph. セリエ『聖書入門』講談社選書メチエ、2016 年、218 頁参照)。驚くべき曲解というほかない。福音書は一貫して暴力を断罪している。

 その曲解の主のひとりが、古代キリスト教世界最大の神学者である聖アウグスティヌスだ。彼は、異端者には「愛の鞭(むち)」をふるえと説く。「彼らに恐怖を与えるだけで、教えさとすことがなければ、それは圧政のようなものだろう。だが他方で、長年の習慣によって頑かたくなになってしまった彼らに対して、脅しに訴えることなく、ただ教えようとするだけでは、救いの道を進むには怠惰にすぎるだろう」(ウィンケンティウス宛て書簡93)。この文書は、はるかな時を経て1573 年にパリで刊行された。その前年に王権が新教徒弾圧のために起こした「聖バルテルミの虐殺」への批判に反駁するためである(Ph. Sellier, Pascal et saint Augustin, Paris, A. Colin, 1970, p. 540-542 参照)。

 現代の常識では、おのれの主張や信条を暴力で他人に強制するのはテロリズムにほかならず、許される行為ではない。だが、宗教戦争が泥沼化していた当時、「愛の鞭」の思想は広く受け入れられていた。信仰の自由を認めるナントの勅令の発布(1598年)以後も、強権的な王権のもとで、「異端」とみなされる集団への迫害はやまなかった。1685 年、ルイ14 世はついにナントの勅令を撤回する。

 さて、アウグスティヌスの弟子を自認するパスカルだが、上の点においては師に従わず、時の風潮に異を唱える。

 

 「すべてを優しくあつかう神の導きで、宗教は理性によって精神のなかに、恩寵によって心のなかに吹きこまれる。力や脅しに訴えかけても、宗教を精神や心に吹きこむことにはならない。吹きこまれるのは恐怖である。〈宗教ではなく、恐怖をterrorem potius quam religionem〉」(S203-L172-B185)

 

 冒頭の句「すべてを優しくあつかう神」は、旧約聖書「知恵の書」の「知恵は地の果てから果てまでその力を及ぼし、慈しみ深くすべてをつかさどる」(8:1)という一節をふまえている。神の恩寵はいかなる強制もなく人を自然に救済へと導く、ということだ。この断章にはまた、『パンセ』全体に通底する「秩序」と「圧政」の思想が色濃く表れている(拙著『パスカル『パンセ』を楽しむ』、7「三つの秩序」、8「圧政」を参照)。パスカルはこの世に「身体」「精神」「慈愛」という「三つの秩序」の存在を認めている。「秩序」ordre とは、パスカル特有の用語で、他とは異なる原理によって成り立つ領界のことだ。権力や暴力は「身体の秩序」の、理性は「精神の秩序」の、信仰は「慈愛の秩序」の、それぞれ中心的な原理である。パスカルはその上で、ある秩序による他の秩序への侵犯を「圧政」tyrannie と呼んで強く非難している。たとえば、政治による学問への介入、宗教による政治への介入がそれに当たる。同様に、信仰は理性によって与えられるものでもなければ(理性ができるのは宗教の正当性の論証までである)、ましてや力ずくで植えつけられるものでもない。真の信仰は、あくまでも神自身の手によって、人間の「心の直感」を通じて授けられる。

 

 「神が心の直感によって宗教を与えた者はまことに幸いであり、まことに正当に説得されている。[…]これがなければ、信仰は人間的なものにとどまり、救いには無益なものでしかない」(S142-L110-B282)

 

 パスカルが力による信仰の強制を不当と考える背景には、「信仰宣誓書」への抵抗の経験がある。経緯はこうだ。1653 年、教皇により、オランダの神学者ジャンセニウスの著書『アウグスティヌス』のなかに含まれるとみなされた五命題が断罪される。いわゆるジャンセニストたちの中心人物アントワーヌ・アルノーは、この五命題はたしかに異端だが、それらはジャンセニウスの書のなかに見つからないと反論する。1657 年、教皇は異端の五命題が『アウグスティヌス』のなかにあると宣言。同年フランス聖職者会議は、ローマの決定に服する信仰宣誓書を作成し、全聖職者に署名を求める。ジャンセニストたちはこれを拒否する。パスカルは『プロヴァンシアル』によって、同志である彼らの弁護を試みる。次はその「第18 信」のなかの一節である。

 

 「ある文言が本のなかにあることを証明するには、その本を調べてみるしかありません。事実に関することがらは、感覚によってしか証明できません。ご主張が真だというのなら、そのことをはっきり示してください。さもなければ、信じよと言いつのるのはやめてください。そんなことは無益です。いかなる権力者も、権柄(けんぺい)ずくで何かを信じこませることも、事実を変更することもできません。なぜなら、事実でないことを事実にすることなど、どうしても不可能だからです」

 

 問いかけの相手は、イエズス会の大物、アナ神父だ。ある文言が本に記されているか否かは、「権力」や「権威」が決めることではなく、目という「感覚」が判断するものだ、という。ここには、『パンセ』における「圧政」批判の萌芽が見られる。

 パスカルは、おのれの信条に反する主張には容赦ない批判を浴びせたが、その際つねに理性的な推論に依拠した。他方で彼は、権力による思想の強制や言論の封殺には断固として抵抗した。こうして彼は、ピエール・ベールやヴォルテールに先立って、精神の自由と「寛容」の理念の基礎を築いたのである。

 

*『パンセ』からの引用箇所は、セリエ版[S]、ラフュマ版[L]、ブランシュヴィック版[B] の断章番号によって記す。

 

◇初出=『ふらんす』2017年8月号

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著者略歴

  1. 山上浩嗣(やまじょう・ひろつぐ)

    大阪大学教授。著書『パスカルと身体の生』『パスカル「パンセ」を楽しむ』

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