第1回 信仰と理性
「人間は考える葦である」という句で有名なパスカルの『パンセ』は、未完に終わった著作『キリスト教護教論』の断片的な草稿の集成である。だから、個々の断章の前後の文脈は不明な場合が多い。読者は、キリスト教に誘(いざな)おうという著者の意図とは独立に、あえてそれを一般的な格言や人生訓として読むこともできるが、あちこちに散在する関連の文章をつなげて再構成してみると、パスカルの思いがけないメッセージが明らかになることがある。おまけに、彼の文章は決してお堅いわけではなく、刺激的な表現や修辞、皮肉やユーモアに満ちていて、読者をときに讃嘆させ、ときに憤慨させ、ときに笑わせる。このように多様な読解が可能な『パンセ』の楽しみは、まったく尽きることがない。
私は昨年、『パスカル『パンセ』を楽しむ 名句案内40章』(講談社学術文庫)と題する入門書を上梓した。この連載では、本書の趣旨を踏襲して、『パンセ』に見つかる多様な主題のなかから毎回ひとつを選び、いくつかの断章を紹介しよう。なお、連載全体のタイトルは、アントワーヌ・コンパニョン『寝るまえ5分のモンテーニュ 「エセー」入門』(山上浩嗣・宮下志朗共訳、2014年白水社刊)の邦題を意識してつけた。
初回の今回は、私が『パンセ』を読み始めたころにもっとも気になった、「信仰と理性」の問題を取り上げよう。
パスカルはしばしば、信仰を理性の対極にあるものと位置づけている。
「神を感じるのは心であって、理性ではない。これこそが信仰である。理性ではなく、心に感じられる神」(S680-L424-B278)
「心には心なりの理由があり、それは理性には知りえない」(S680-L423-B277)
宗教の教えが真理であるかどうかは、理性が判断するのではなく、心が感じ取るものだ。ゆえに信仰は心の作用である、という。パスカルはこの認識から出発し、もっぱら理性を働かせて宗教を検証するような姿勢を、信仰において(不可欠ではあるが)あくまでも二義的なものと位置づけ、いかなる論証も経ずに衷心から信仰を抱いている状態を理想視する。そして、そのような「心の直感」による信を、人間業ではなく、神からの直接の働きかけによって初めて生じる完全に偶発的な僥倖(ぎょうこう)とみなした(上掲拙著、10「理性と直感」を参照)。
私は当初、このような反理性主義的な主張を意外に思い、興味を覚えた。パスカルは、数学や物理学という理性の学の大天才ではないのか。それに、「良識は世界でもっとも公平に配分されているものである」という言葉で徹底的な合理主義を標榜したデカルトは、パスカルの同時代人ではないか、と。私はまた、そもそも読者を信仰に導くことを目的とする書物のなかで、わざわざ信仰と理性の対立関係を強調する姿勢そのものを奇異に感じた。そんなことは自明ではないのか、と。私は物心ついたころから家の仏壇に手を合わせていたが、そのために教義が理性と矛盾しないかどうかなど考えもしなかった。『パンセ』には人間の理性の無力さに関する叙述も多数に上るが、信仰を正当化するためだとすれば、そんな叙述は無駄ではないかとさえ思った。
だが、このことはかえって、パスカルが想定していた読者と、彼が伝えようとしていた信仰のあり方を明らかにしている。彼は、理性に合致しないがゆえに宗教を荒唐無稽とみなすような筋金入りの理性主義者を折伏(しゃくぶく)することを目ざしていた。次の「地獄落ちの罪人」がそれに当たるだろう。
「地獄落ちの罪人は、自分の理性によってキリスト教を断罪したつもりでいるが、まさにその理性のゆえに断罪されるのである。これは彼らの困惑の種のひとつだ」(S206-L175-B563)
他方でパスカルは、理性と宗教の矛盾に対していかなる疑問も抱かない素朴な信者にも、厳しい目を向けていた。彼らには、おのれの信仰の正当性について自問するように鋭く迫っていたのである。パスカルにとって正しい信者の条件は、理性と宗教との対立を深く認識し、それにもかかわらず信じることであった。
「理性の最後の手続きは、みずからを超えることがらが無限にあることを認めることである。これを知るところまで行かないかぎり、理性は脆弱なものにすぎない」(S220-L188-B267)
理性は本来、「すべてを判断しようとする」(S142-L110-B282)が、このとき理性はまだ、おのれの分際をわきまえない単なる傲慢な「圧政者」(S91-L58-B332)である。しかし理性は同時に、みずからの無力さを自覚し、原理と推論による証明という得意の手続きが通用しない対象が、それでもなお真であると判断する知恵をそなえている。後者こそが、パスカルが考える真の理性である。
「理性は、おのれが服従すべき場合があると判断しないかぎり、決して服従しないだろう。/したがって、おのれが服従すべしと判断するとき、理性が服従するのは正当である」(S205-L174-B270)
このように見ると、パスカルの立場は反理性主義とはほど遠い。彼が断罪するのは、おのれを絶対視する未熟な理性にすぎない。真の理性は、自分が理解できない対象も、ときに敬意と関心をもって受け入れるのである。
「理性を否認すること以上に、理性にふさわしいものはない」(S213-L182-B272)
このような高次の理性の働きを「寛容」と呼ぶこともできるだろう。
*『パンセ』からの引用箇所は、セリエ版[S]、ラフュマ版[L]、ブランシュヴィック版[B]の断章番号によって記す。
◇初出=『ふらんす』2017年4月号