第8回 狩りと獲物
パスカルによれば、人間の尊厳は、自己の死すべき運命を正面から見つめること、そして、もし来世が存在するならば、それに与(あずか)るために現世をどのように生きるべきかを考えることにある(拙著『パスカル『パンセ』を楽しむ』、26「考えない葦」参照)。にもかかわらず、人間は自分がやがて死ぬという悲惨な現実に耐えられないばかりに、脇目もふらずにさまざまな活動に取り組んでいる。職業、遊技、社交、戦争、学問、創作、演奏などなど、人間のあらゆる行いがそれに当たる。つまり、人間はたえず、おのれの来たるべき死から目をそらすために、「気晴らし」に興じているのだ。
「このことから、賭事(かけごと)、女性たちとの会話、戦争や手柄があれほど求められるようになる。そこに実際に幸せがあるからではない。また、真の至福が賭事で得られる金(かね)や、狩りで得られるウサギをもつことにあるなどと、人々が思いこんでいるせいでもない。そんなものは、やると言われてもいらないのだから。人が求めているのは、そんなに生ぬるい、おだやかな所有の仕方ではない。それだと、われわれはまだ自分の不幸な状態について考えてしまう。さりとて、戦争の危険や、職務上の苦労も欲しくない。必要なのは、不幸な状態からわれわれの考えをそらせ、気をまぎらわせてくれる騒ぎなのである。だからこそ、人は獲物よりも狩りを好むのだ」(S168-L136-B139)
人々は、自分が配当金を求めて賭事に、ウサギを求めて狩りに精出しているつもりだが、逆に、賭事をしなければ金を、狩りをしなければウサギをあげると言われたら、困惑してしまう。それは、金やウサギは、差し迫る死から目をそらしてくれないからだ。人々が真に求めているのは、金ではなく賭事、獲物ではなく狩りのほうである。
「死や悲惨のことを考えれば、われわれは目の前のウサギに注意を向けられなくなるのであり、逆にそのウサギは、死や悲惨の光景からわれわれの目をそらしてくれるわけではない。そうしてくれるのは狩りのほうなのだ」(S168-L136-B139)
パスカルにとって、獲物ではなく狩りを求めるのは、人間の倒錯ぶりを象徴的に示す事態である。彼はまた、同じ断章で、数か月前に一人息子を亡くし、しかもさっきまで数々のもめごとに悩まされていたある男が、今はイノシシ狩りに夢中になっているさまを描き出し、次のように嘆いている。
「人間というものは、どれほど悲しみに満ちていても、もし誰かが彼をなんらかの気晴らしに引き込むのに成功したとすれば、その間だけは幸せになってしまうものなのだ」(S168-L136-B139)
人間は、ささいな気晴らしによって深刻な悲しみや心配も忘れてしまう。パスカルにとって、これは決して歓迎すべき事態ではない。そんなふうにして、死にいかに向き合うかという人生の最重要課題の探求も、簡単に放棄してしまうことになるからだ。
さて、以上の獲物と狩りという印象的なイメージは、モンテーニュから借用したものだ。『エセー』にはこんな一節がある。「獲物を捕まえる望みがなくなった人間が、相変わらず狩猟に楽しみを見いだすのを、変だと思ってはいけない。学問とは、それ自体が楽しいいとなみであるばかりか、とても面白いものなのだ。[…]食べ物の場合でも、食の楽しみだけのために食べることがあったりして、食欲をそそるものが、かならずしも栄養面や健康面ではよくないことがあるではないか。これと同じように、われわれの精神が学問から得るものも、たとえそれが滋養にならず、健康によくないとしても、それでもやはり快楽に満ちたものなのだ」(宮下訳『エセー4』白水社、129-131頁)。
モンテーニュはここで、人間が獲物という目的なしに狩りを楽しみ、徳や利益という目的なしに学問そのものに悦びを見いだすさまを、肯定的に受け止めている。
モンテーニュはまた、性急な性愛を批判する一節でも、獲物と狩りの比喩を用いている。せっかちなフランス人とは異なり、スペイン人やイタリア人の恋愛は、好意を色目や身ぶりなどの暗示的な手段で伝えようとするがゆえに好ましいと述べたあとで、彼はこう結んでいる。「享楽のうちにしか、享楽を見出せない人、高得点でないと、勝った気がしない人、狩猟の楽しみが、獲物を捕ることにしかない人、こういった人たちには、われわれの学校に入学していただく権利はない」(『エセー6』191頁)。
モンテーニュは、旅に出る理由について問われても、自分は「歩きまわるために歩きまわる」のだと答え、「利益やウサギを追って走る人間は、本当に走っているわけではない」と述べる(『エセー7』67頁)。彼にとって、目的地に着くまでの道のりを楽しむのが旅であり、獲物を追い詰めるまでの工夫を楽しむのが狩りなのだ。
それにモンテーニュは、「気晴らし」についても、パスカルのように否定的には受け止めていない。『エセー』第三巻第四章「気持ちを転じることについて」(宮下訳『エセー6』)では、悲しみに暮れるある女性を、自然に話題をそらすことで落ち着かせたことや、自分が親友ラ・ボエシを失って打ちひしがれていたとき、つとめて恋をあさって気をまぎらわせたことなどが、いくぶん得意気に語られる。モンテーニュは気晴らしに、悲嘆を暫定的に治癒する効果を認め、その有用性を評価しているのである。
人間が獲物よりも狩りを求めるさまを、モンテーニュは祝福し、パスカルは批判する。モンテーニュの見解は、大らかで説得力がある。パスカルは、モンテーニュの発想を借りながら、不安をあおり、それでいてやはり人をうなずかせずにはおかない論を作り上げた。私はパスカルの冷厳さに、空恐ろしさを感じる。
*『パンセ』からの引用箇所は、セリエ版[S]、ラフュマ版[L]、ブランシュヴィック版[B]の断章番号によって記す。
◇初出=『ふらんす』2017年11月号